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フランス映画祭横浜2001 レポート vol.1

第9回 フランス映画祭横浜2001 レポート vol.1
Text by 大寺眞輔


映画祭の主役は、映画であるべきだ。
勿論、ある者にとって、それは取引の場であろうし、商談の場であるだろう。アピールの場でもあろうし、「掘り出し物」を探す場であろうし、セレブを探す場でもあるだろう。しかし、それがあくまで「映画祭」である限りに於いて、そこは「映画」が主役となるべき場所であるはずなのだ。

では、「映画」が主役であるとは、一体どういうことか。
例えば、横浜フランス映画祭に於いて、「映画祭」は「FESTIVAL DU FILM」、つまり「フィルムのフェスティバル」と明記されている。しかし、私たちは、様々な種類の「フィルム」が陳列されている棚を見学するために、遠く離れたやや場違いに賑々しい場所にまで足を運んでいる訳では決してない。私たちは、それぞれの制約や都合の中で何とかやりくりをつけながら、例えば平日の昼間に1度きりしか上映されない映画を見るためにこそ、様々な場所から集まり、チケットを買い求め、列を作り、スクリーンを見つめているのだ。勿論、それは常日頃から映画に対して行われている行為ではある。だが、映画祭に於いては、その1度きりの上映、1度きりの鑑賞という行為の唯一性・単独性が、はっきりとした輪郭を伴いつつ、より純粋な形にまで高められていると言えるのではないだろうか。だからこそ、それは映画が主役の場、「映画祭」であるのだ。

言い換えるならば、それはフィルムという物質的な存在のための祭典ではなく、上映という1度限りの行為のための祭典、「プロジェクションのフェスティバル」であるべきなのだ。私たちは、ある者は観客として、別の者はその製作に関与した者として、またある者はフィルムの買い付け人として、それぞれの立場から、その1度きりのスクリーニングに立ち会い、出会いと出会い損ないを繰り返すことになるのだが、重要なのは、シナリオもリハーサルもない1度限りの上映という出来事のみが、そこに集まる者にとって唯一の媒介の役割を果たすことになるということだ。

映画祭の主役は映画である。そこでは、誰もが映画を尊重し、敬うべきだ。言い換えるならば、チケットを握る者も、札束を握る者も、晴れやかな舞台に上がる者も、そこにカメラを向ける者も、誰も普遍性の側になど立ってはいない。私たちは、たった1度きりの上映という事件の取り返しのつかない一回性に於いてこそ、ある時には出会い、また別の時には出会い損なうという、ただそれだけのことであり、ただそれだけのことであるからこそ、そこは逆に貴重な出会いの場所となっているのである。映画が主役であるとは、厳密にそういうことであるに他ならない。

『月の砂漠』上映後のティーチ・インに於いて、映画の側に立ち、映画を擁護し、映画を敬い、そこが映画を主役とした場所であることを明確に自覚していたのは、この作品の監督、青山真治だった。例え、それ以外のすべてを括弧にくくったとしても、この日・この場に於いての青山真治を私たちは100%支持するべきだろう。

青山がそこで擁護していたのは、自らの作品『月の砂漠』ではない。彼は、映画と映画祭それ自体を擁護し、その場を守るためにこそ発言し続けたのである。例えばそれが『月の砂漠』であれ、あるいは他のどの監督のどんな映画であったとしても、誰もがそれを絶賛しなければいけない理由などないし、批判があればそれを口にすることも勿論自由である。しかし、何人たりとも、普遍性の名の下に一本の作品を裁くことなど絶対にできないのだし、してはならないのだ。それは、『月の砂漠』という作品に対してではなく、映画それ自体を貶め、映画祭という一回性の場所をディスグレイスする行為に他ならない。


自作に対して「普遍性」からの失格を一方的に宣告し、あまつさえその場所からさっさと姿を消した者に対して、それでも議論と出会いに向けて開かれた姿勢を崩さず、語り続けた青山は、言葉の真の意味に於いて、映画のために実に立派に闘ったと言われるべきだろう。映画と映画祭のためにも、私たちは彼に感謝しなければいけない。それも、ただ黙って感謝の意を表するのではなく、積極的に感謝の言葉を口にするべきであるのだ。映画や映画祭というものは、単にその都度ごとの一度きりの出会いの場所であるというばかりではない。それはまた同時に、決して無限に繰り返されるものでもないのだ。有限回の反復の中での、この時・この場所での上映という一回性に感謝し、それに似た僥倖が再びどこかで生起することを願うためにも、私たちは積極的に声を出して、映画のために闘い、映画のために闘う者をサポートする必要があるのである。

更に別の側面からも語ろう。
映画祭という場所がその都度1度限りのスクリーニングを媒介とした出会いと出会い損ないの場所であるとして、しかし、そこでは誰もが同じ条件で参加している訳でもない。例えば、映画作家と呼ばれる人間は、そこで上映される映画に対して一定の責任を要求されつつ、そこにいると言って良いだろう。彼ら彼女らは、それが自らの作品として、作家性の反映として、あるいは更に作家それ自身の一部として見られ、解釈される現場に居合わせているのである。実際の映画製作に於いてどうかということはともかく、少なくとも映画祭という場所に於ける役割として、事実として、彼ら彼女らはそれを期待され、そういう機能を果たす存在と見なされている。すなわち、出会いと事件に先立って、映画作家は既にある部分で裸となり手を差し伸べてもいるのだ。

言い換えるならば、映画作家は弱い立場にあるとも言えるだろう。差し伸べられた手を受け入れるかどうかは、個人の判断に属する問題であるにしても、弱い立場を積極的に担っている者に対して一定の共感と感謝の意を持つことは、これはコモン・ディセンシーの問題であり、更に言えば人間性の問題であるとさえ言えるだろう。私はここで、ほとんどモラリストとして発言していることを自覚しているが、しかしそれでも、パブリックな場所では何かが守られる必要があると言わないではおられないのだ。映画という一回限りの事件を媒介に、映画作家と観客との間には、なし崩しにしてはならない何かが絶対に存在している。そしてそれは、造物主とその享受者との間に横たわる何かではなく、人間同士の社会的な関係を尊重するために必要な何かであるのだ。

繰り返して言うが、私がここで言いたいのは、批判をするなということでは決してない。ただ、自らがその時・その場所で立ち会った映画の上映という1度限りの事件性に対して自覚的であるかどうか、そして、パブリックな場所に於ける他者との関わりに対して開かれているかどうか、問題なのはそういうことなのだ。

映画祭とは、また、単に映画を見たり、セレブと一緒に写真を撮ったりするための場所であるというばかりではない。それは、普段なかなか会うことのない知人や友人たちと、映画について議論するための絶好の機会でもあると言えるだろう。だいたい、今では誰もがWeb Pageなど、自分の意見や批評を発表する場所に事欠くことがない訳で、それ自体は素晴らしいことであると絶対に思うものの、親しい友人の言葉も書き言葉でばかり読んでいては、色々とフラストレーションを感じたり、異論・反論を貯め込んでいってしまうのも事実に違いない。そういう時などは、映画祭に乗じて友人を強制的に拉致し、議論を吹っ掛け、徹底的に語り尽くすことに勝るものはないだろう。

そういう訳で、『月の砂漠』終映後は、近くの喫茶店で、見たばかりの映画とティーチ・インを巡って激論。拉致した是安君は、boid.netにたびたびメールで投稿してくれる実に頼もしい若者で、さらなる積極的な行動を要求し扇動し焚き付けておいたので、周囲の人々は恐れおののきつつ期待するように。是安君、頑張れ。

さすがに将来ある若者を深夜の中華街に連れて行くことまではためらわれたので、是安君とはその場所で別れ、遅い夕食をすませた後、山下公園に面したホテルで一泊。あらかじめネットで検索して予約しておいたところ、インターネット特別料金ということで、非常に安く済ますことができた。自宅にいるときは殆ど見ない民放局を、深夜までボーっと見るともなしに見る。

翌日は、短編映画特集をパスし、お昼から『フリーキー・ラブ!』。勿論、ジャック・ドワイヨンの新作。前作『少年たち』もかなり良かったが、今作は更に圧倒的に素晴らしい。『ラ・ピラート』の頃の不調和と破綻の力学に回帰したような作りだが、役者たちがみんな若いので、深刻ではあるものの、最後までどこか軽さを保っていて、そこが新しい魅力となっている。『ロマンスX』では脱ぎっぱなしだったキャロリーヌ・デュセイが私の周囲で人気を博していた。翌日の代表団挨拶の時には、ルー・ドワイヨンとひたすらしゃべりっぱなしで、すっかり今時の若い女の子という感じでしたけど。

続けて本日2本目となる『栄光のあまりに狭き門』。貶す気も起きない。ドワイヨンのサインをもらいに行けば良かった、と、全員で深く反省。
『王は踊る』は既に見ていたので、そのまま帰途に着く。
途中、ラーメン博物館に寄り、支那そば・すみれを制覇。