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ナント映画祭2003  Vol.2

ナント3大陸映画祭2003 レポート  Vol.2
Text by 橋本一径


11月29日

昨日、おとといと晴れ間が続いたが、今日はまた朝からどんよりとした天気。自宅から徒歩15分弱の会場までの距離が遠く感じられる。よく確認もせずぎりぎりで駆け込んだせいで、うっかり上映会場を間違えて別の作品を観ることになってしまった。そのため予定が狂って今日は5本観るつもりが残念ながら4本どまり。

『さらば、龍門客桟』 (ツァイ・ミンリャン監督、台湾、2003)
今年の東京国際映画祭でも上映されていたらしいツァイ・ミンリャンの新作が、コンペティションにノミネートされている。新人監督が大半を占めるコンペの顔ぶれの中に、すでにフランスでの評価も確かなものにしつつあるツァイ・ミンリャンの名が並ぶというのは、やや奇異な印象を受ける。映画館の中だけで一本の映画を撮ってしまおうというのが、この作品のアイデア。ひなびた映画館で上映されているのは、ツァイ・ミンリャンの処女作から顔なじみの老人、苗天の初主演作であるという、『龍門客桟』(キン・フー監督、1967)である。前々作『穴』でも降り続けていた大雨が、今回もひたすら映画館の屋根を打ち続けている。古びた映画館、薄汚れたトイレなどもまた、ツァイ・ミンリャンの作品にはおなじみの意匠だ。苗天はもちろん、「シャオカン」役として全作品に登場する李康生や、前作『ふたつの時、ふたりの時間』でパリをわけもなく徘徊していた若い女チェン・シャンチーも顔を見せる。一作ごとに新たな展開を見せるのがこれまでのツァイ・ミンリャン作品の魅力であったのだが、今作は、ほぼすべて映画館の中だけで繰り広げられ、会話はわずか二回だけという、冒険的と言えば言えなくもない試みであるのに、野心作と呼ぶにはあまりにも既視感を与える要素で満ちすぎている。処女作『青春神話』で鳴り響いていた音楽はその後そぎ落とされ、家族をめぐるテーマも、4作目以降影を潜めた。確かにツァイ・ミンリャンのフィルモグラフィーは、こうして余分な要素が取り除かれ、ミニマル化が進むことによって進化していったのだが、その行き着く先が、前作でも垣間見られたような、オマージュともノスタルジーともつかないシネフィル的な閉ざされた世界だったとしたら、今後の彼の展開にはさして期待が持てない。かつて『好男好女』で同じような隘路にはまりかけたかに見えたホウ・シャオシェンが続いて撮りあげた、その後の恐るべき傑作群を生み出すきっかけとなる怪作『憂鬱な楽園』のような作品が、ツァイ・ミンリャンにも待ち望まれているのではないか。

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ナント名物「ガトー・ナンテ」、つまり「ナントのケーキ」
ふんだんに使われたラム酒と砂糖は、かつて三角貿易の要所だった頃の名残


『希望のメロディー Lahn El-Almel』 (Djamel Fezzaz監督、1993年、アルジェリア)
今年は「フランスにおけるアルジェリア年」ということで、このナント映画祭でもアルジェリアのテレビ映画を上映する特集が組まれている。その中から『希望のメロディー』という作品を観る。話の筋は金持ちの家の娘と、労働者の男との、道ならぬ恋だが、いったいこの映画祭でこの種のテーマの作品を観るのは何作目になるのか。だがこの作品は主人公の自動車修理工が歌の才能を発揮して歌手でビューし、一躍スターの座につくというところがミソで、主演のジャルティAbderrahmane Djaltiは実際に売れっ子のシンガーらしい。開会式では来場した彼が歌を披露したとのことだが、都合がつかず出席できなかったのが悔やまれる。歌や踊りで彩られる勧善懲悪のストーリーに、観客からはやんややんやの喝采。

『雨の中のニロファー Nilofar Dar Baraan』 (Homayoun Karimpour 監督、アフガニスタン、2003)
1979年にフランスに渡ったアフガニスタン出身の監督の長編処女作が、コンペ外の作品として特別上映された。監督自身が来場し、タリバン政権によって追放の憂き目にあった俳優たちを使った作品の完成までの苦労を語った。ストーリーは、フランスで暮らすアフガニスタン人の中年男性が、故国で若い妻、ニロファーを娶り、フランスに戻って母親らと共に結婚生活を送るも、妻の父親がこの家族に加わることで夫婦の間に亀裂が入っていく、というもの。アメリカに移住していたという設定の妻の父親は、なんだか顔までカルザイ氏にそっくり。全体として中年男のファンタスムと自己満足を満たすような展開には賛同しかねるものがあるが、今後も作品を撮り続けられるような環境に恵まれれば、ちょうどイスラエルにとってのアモス・ギタイのような立場に立つ、アフガニスタン出身の優れた映画作家となる日が来るかもしれない。

『静かな水Khamosh Pani』 (ザビハ・スマルSabiha Sumar監督、パキスタン、2003)
コンペティション部門にラインナップされたパキスタンの女性監督による作品は、すでに先のロカルノ映画祭でグランプリを受賞しており、その完成度はこれまでの他のコンペ作品と比べて群を抜いていた。1980年代、イスラム化で揺れるパキスタンの政治に翻弄される母親とその一人息子の物語。息子が原理主義闘争にコミットしていくにつれて、かつて過激派の手により両親のもとから引き離され孤児になった経験を持つ母親の過去が回帰してくる。八百屋を値切りたおす肝っ玉母さんでありながら、同時に暗い過去を持つ母親の描き方が実に丁寧で、映画に確固とした芯を与えている。女性たちのまとう衣服の赤や青が黄色い大地の上に映える映像美も秀逸である。前半の緊張感が後半やや途切れたかに思われるものの、長編処女作とは思えない円熟味を湛えた一本で、賞レースを一歩抜きんでたのは間違いない。

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パキスタンの女性監督ザビハ・スマルとその娘
両端はフランス側(左)およびパキスタン側のプロデューサー


11月30日

会期もすでに後半に差し掛かっている。朝10時からの初回の上映を見た後、翌日のチケットを予約する、というパターンもすでに習慣になってきた。昨日、今日は週末だったこともあり、満席の作品もかなり出てきている。午前中の作品からぎっしりと人が詰め掛ける様は、普段のナントののどかな日常を知っている身からすると、異様ですらある。もっとも作品によってはがらがらのものもあるのだが。

『7日7晩Siete Dias, Siete Noches』(Joel Cano監督、キューバ、2003)コンペ部門7本目となる作品は、劇作家としても活躍するキューバのJoel Canoの撮った初の映画。それぞれ異なるトラブルに直面する3女性の7日間の物語、というのがうたい文句だが、見ていても一週間の話なのか一ヶ月の話なのか一年なのか、判別がつかない。このキューバの監督はせめてソ連のミハイル・ロンムの『一年の九日』くらいに月日の経過の描き方を学んでほしかったところだ。主人公の一人の女性キャスターが、生放送中に涙を流してスタジオを飛び出す。プレスを読むと「政府の流す嘘のニュースを流すのを拒んで……」とあるが、画面を見ているだけではまったくわからない。このキャスター、そしてダンサーくずれの女性と、子供を失った若い母親という主人公3人が3人そろってヒステリックで、10分に一回は殴りあい、罵倒しあう。最後のほうで1人が口にする「もうたくさん!」という台詞が、この映画を観た私の気持ちの代弁。

『春きたる 春到人間』(孫瑜監督、中国、1937)
主会場カトルザから場を移して、市内のシネコン、ゴーモンへ。たくさんの人出で賑わっているが、大半の客はディズニー映画『ニモ』を見にきた家族連れ。週末には家族と一緒に映画に出かけるという習慣が、この国にはまだしっかりと根付いている。そんな映画館でひとつだけ映画祭にあてがわれたスクリーンで、中国映画回顧特集から、『野ばら』『武訓伝』に引き続き、孫瑜監督の1937年の作品を観た。常に笑顔を絶やさない船頭の若者と、主人に虐げられる女中の少女との恋。若者との出会いによって笑顔を取り戻した少女だが、内乱の激化によってその仲を引き裂かれる。徴兵された若者が繰り広げる戦闘シーンはなかなか凄まじく、この映画が戦争映画の佳作でもあることに気づかされる。そんな中、上官の目を盗んで両軍が互いに危害を加えないよう故意に空砲を放つ、などのユーモアも欠かさない。兵士らに戦争の無意味さを訴えていた少女が、次のシーンでは青年と共に義勇軍に参加するという、取ってつけたような結末はともかく、青春映画の名手としての孫瑜の手腕を存分に伝える作品だが、『野ばら』に比べるとややテンポが悪いのも確か。

『リアリズムの宿』(山下敦弘監督、日本、2003)
今映画祭に2本ノミネートされている日本映画のうち、最初の1本が上映された。1976年生まれの山下監督は、前作『ばかのハコ船』に続くこの作品がすでに長編三作目となる。ひなびた温泉街の駅に降り立った二人のアマチュア映画作家の若者。共通の知人の誘いで旅行に出た二人だが、肝心の友人が到着せず、さして親しくもない二人が共に旅をする羽目になる。この二人の微妙な距離がかもし出す笑いがこの映画の主軸となるのだが、その絶妙なセンスには、他の作品の大味なギャグに辟易気味だった私も笑わされっぱなしであった。ではそれが独特の日本的な笑いなのかというと、フランス人の観客にも受けまくっていたところみるとそうとは限らなさそうだ。まるで主人公の二人がアイデアを出し合って撮り上げたのがこの映画であるかのようで、良くも悪くもアマチュア的な香りが抜けきらないが、ともかく最後まで楽しませてもらった。この作品が生み出す笑いは、映画がその歴史の中で培ってきた笑いというよりも、今という時代に寄り添ったものなのであろう。日本では2004年春に公開予定とのことだが、やり方によっては映画ファンの枠を超えてポピュリズム的な人気を招いてもおかしくはない気がする。それが映画にとって良いことなのかどうかとなるとそれはまた別の話だが。

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ウー・イーフォン監督(左)
右はディレクター、アラン・ジャラドー


『生命(いのち)』(ウー・イフォン監督、台湾、2003)
今年から創設されたドキュメンタリー部門のコンペティションにラインナップされた一作。やはりこれも先の山形映画祭に出品され、優秀賞を受賞している作品である。7本がノミネートされているドキュメンタリーのコンペで、私が観ることができたのは今日のこの作品が初めて。上映作品の幅を広げるのは結構だが、コンペの各作品が一日しか上映されず、どうがんばっても見られなくなる作品が出てくるこのスケジュールを何とかしてからにしてほしいものだ。それはさておきこの作品は、1999年に台湾を襲った大地震の被災者たちのその後を、数年にわたり追い続けた作品。肉親の突然の死に直面した人々と接する中で、監督は老人ホームで暮らす自らの父との関係を反省するに至る。被災者たちのルポルタージュにプライベートな側面をも重ね合わせるそうした手法が、違和感を与えることがないのは、抑制がきいているからというよりも、逆に被災者を追う過程でも自らをさらけ出す監督の姿勢が功を奏しているからなのであろう。被写体との距離、などという隠れ蓑を時として放り出し、肉親を亡くしたショックから自殺をほのめかす少女をしかりつけたりする監督の手法は非常に好感が持てた。一歩間違えば作品を台無しにしかねないやり方だが、そこはきっと監督の人徳というものに違いない。真摯さがにじみ出た、かといって生真面目すぎるわけでもなく綿密に計算されてもいる、完成度の高い作品であった。

『ある消滅についてのクロニクルSegell Ikhtifa』(エリア・スレイマン監督、パレスチナ、1996)カンヌで話題を呼んだ新作『D.I.』が日本でも公開されたエリア・スレイマンの長編第一作が、映画祭25周年の記念企画の中で上映された。この企画はこれまでの受賞作を中心としたラインナップで、その中には1998年にグランプリを受賞した是枝裕和の『ワンダフル・ライフ』も含まれ、是枝監督もナント入りしている。スレイマンのこの作品は96年の準グランプリ受賞作。『D.I.』で見せた、人を食ったようなユーモアはこの長編処女作からすでに健在であり、「あくる日」「そのあくる日」と短いエピソードが連なる展開は、まるでショート・コント集のようであるが、それはまた全体としてひとつの「消滅」を語る記録ともなっている。『D.I.』でも感じたことだが、彼の作品は高嶺剛の例えば『ウンタマギルー』などにおける笑いを連想させずにはおかない。実際両者の映画作りのスタンスには共通するものが多くあるように思う。そこからオキナワとパレスチナの比較考察へ、などと胡散臭いことは言わないが、この二人の映画を比較することは、両者の作品を考察する上で大きな手がかりを与えてくれるのではないか。

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『ワンダフル・ライフ』の上映にあわせて来場した是枝監督