
ナント映画祭2003 Vol.1
ナント3大陸映画祭2003 レポート Vol.1
Text by 橋本一径
11月26日
カンヌやベルリンならいざ知らず、ナントなどというフランスの地方都市の映画祭を二年続けて報告するのはなぜかと言えば、単に私が今年もこの町に住み続けているからだけなのだが、映画祭というのは参加するならやはり遠くの町に鉄道や飛行機に乗って出かけていくに限る。地元の町の映画祭となるとどうも緊張感が欠けていけない。加えてこの日は、朝から降り出した雨がますます激しさを増し、上映が始まるころにはひどい土砂降り。いつもならこんな日は映画の予定など早々にキャンセルしてしまうところだが、今年もプレス証をあっさり手に入れてしまったからにはそういうわけにもいかない。ぐずぐずと重い腰を上げて朝10時からの初日の上映に出かける。
アジア、アフリカ、中南米の作品を上映するこのナント三大陸映画祭は、今年で25回目を数える。それを記念して今回は過去にこの映画祭で上映された作品を再上映する特集が組まれているが、そのラインナップはホウ・シャオシェンの『フンクイの少年』、チェン・カイコーの『黄色い大地』、アッバス・キアロスタミ『友達の家はどこ?』、ツァイ・ミンリャン『青春神話』さらにはエリア・スレイマンなど、錚々たる面々が並ぶ。そのいずれもがフランスでほとんど名も知られていない頃に上映されていたのだから、この映画祭がこれまで果たしてきた役割の大きさは推して量れよう。いまだにフランスで正式な公開もされてはいないが、昨年グランプリを勝ち取ったマラット・サルールの『兄弟、シルクロード』も、いずれそれがこの映画祭から世界に認められ始めたことを、誰もが口々に称えあう日が訪れるだろうことを予感させる傑作だった。今年もそんな作品との出会いを期待しつつ、12月2日の閉会式まで、ささやかながら報告を送り続けることにしたい。

初日のこの日はまずコンペ部門のベトナム映画、レ・ホアンLe Hoang監督の『ホステスGai Nhay』。ナイト・クラブで売春まがいの仕事をさせられる少女たちの群像劇だが、貧困からばかりではなく裕福な家庭に生まれながらも売春とドラッグに溺れる少女を主役に配するあたりが精一杯の社会派映画。なおコンペ部門の10本には日本からの作品も二本(廣木隆一『ヴァイブレーター』、山下敦弘『リアリズムの宿』)も含まれている。
コンペ以外にも多数の特集が組まれるこの映画祭だが、今年の中心となるのは、30年代から90年までの中国映画を集めた「中国映画、起源から第五世代まで」と、インド映画特集の「ボリウッド、過去と現在」、そしてブラジルのフンベルト・マウロ監督へのオマージュである。今日はそれらの特集の中からこのブラジルの巨匠の1933年の作品『乱暴なギャングGanga bruta』を見た。初夜のベッドで妻が処女ではないことを知るや撃ち殺してしまったギャングが、不正な裁判で無罪を勝ち取ったあとスキャンダルを逃れて田舎に引き篭もるが、そこで相手のある若い女に惚れてまた一悶着を起こす。ブラジルでもっとも尊敬される監督の一人だと言う1897年生まれのこのフンベルト・マウロの作品を見るのは今回が初めてだったが、開発の進む工業地帯で打ち鳴らされる鉄骨の響き(とはいっても無声映画だが)が基調をなす映像はきわめてモダンであり、最後にギャングが女と幸せに結ばれてしまうという結末も極めて斬新で、他の作品もぜひ見たいという気にさせられた。
三大陸映画祭とはいえども、ここ数年はアジアそして南米の作品が趨勢を占め、コンペ部門には今年はアフリカの作品はゼロ。アフリカ映画は近年ジリ貧状態にあるという。そんな中活況を見せる動きとしてナイジェリアのビデオ作品があり、それを紹介する特集が今年は組まれている。ナイジェリアでは90年代初頭から、低予算で撮影されビデオやVCDで流通する作品が人気を集めるようになり、今ではアフリカ各国に輸出されるまでになっているという。こんな機会でもなければ決して目にすることのない作品であるということもあり、『HOSTAGES』(Tade Odigan監督)という1997年の作品に足を運んだ。裕福な家の娘と貧しい出の男のカップルに待ち受ける様々な困難、というある意味で普遍的なテーマが主軸だが、展開はひたすら冗長。いったいどう落ちをつけるのかと思いながら見続けていると、話の途中でいきなり終わり、画面は『HOSTAGES 2』の予告編。「モア・アクション! モア・サスペンス! 近日発売!」という文字の流れる画面を、あっけにとられながら眺めていた。社会学的関心を除いて魅力を見出すのは正直困難だが、「毒を食らわば皿まで」という気にさせられてしまうのも確か。律儀にも最終日には『HOSTAGES 2』がプログラムに組まれているのだが、果たして……。
11月27日
昨日の大雨が嘘のように、今日はすっきりと晴れ渡った青空。日に日にクリスマスの飾り付けが進んでいく町並みと共に、遅ればせながら徐々に気分も映画祭の祝祭的雰囲気になじんできた。今日観る予定の映画は4本。
『ミンMin』(Ho Yuhang監督、マレーシア、2003)
まずは午前中の上映でコンペ部門の一本を観る。監督のHo Yuhangは、いくつかの短編とドキュメンタリーを除けばこの作品が長編第一作となるようだ。DVで撮影された作品は、プレスの表記では「カラー」とあるのに、蓋を開けてみるとなぜか白黒。別のヴァージョンがあるということなのかもしれないが、私見では黒白の効果がうまく画面に反映されていたように思う。物語は、自分が養子であることを知った若い女性が、実の母親に会いに行くまでをスケッチ風に描く。時折差し挟まれる数秒間の黒画面を合図にジャンプ・カットが多用され、それが映画全体を断片的な記憶のように見せることに成功しており、私は好意的に受け止めたが、時に効果を発揮しすぎて観客を戸惑わせる場面もあったようだ。ここの観客を味方につけるにはややユーモアが欠けていたのかもしれないが、全体としては好感の持てる佳作であったと思う。
『野ばら』(孫瑜監督、中国、1932)
30年代からの中国映画の回顧特集の中から、スン・ユィ監督の『野ばら』を観た。「起源から第5世代まで」と題された特集としては19本の上映作品はやや物足りなさも残るが、公費留学生としてアメリカに渡り中国映画の基礎を築いたとされるスン・ユィの作品は、3本プログラムされている。そのうちの一本である『野ばら』は、最初期の作品のひとつ。裕福な画家の若者が、田舎で子供たちを引き連れて駆けずり回る娘を見初め、やがて共に暮らし始める。画家とその友人、そして少女の三人という、男二人と女一人のルビッチ的な3人組が、安アパートで繰り広げる共同生活は、愛国を無理に強調したプロパガンダ的側面をかすませて、この作品を青春映画の傑作として記憶に焼き付ける。これが初の主演となった後の大女優、王人美(ウォン・レンメイ)が鮮烈な印象を残す。

『Devdas』(ビマル・ロイBimal Roy監督、インド、1955)
回顧特集のもうひとつの柱、「ボリウッド、過去と現在」の中の一本。幼なじみの二人がやがて恋に落ちるも運命によって引き裂かれるという物語は、このビマル・ロイ監督のものをはじめとして何度もリメイクされており、2002年にもSanjay Leela Bhansali監督によって製作され、それは今回の特集にも組み込まれている。それぞれを見比べてみたいところだ。ただしお決まりのパターンを少しずつ変奏して繰り返すマニエリスム的なインド映画は、今ひとつ好きになれないのだが。
『銀漢双星』(史東山監督、中国、1931)
中国映画特集からもう一本。無声映画でありながら音楽劇とは挑戦的だが、特に音楽を視覚的に見せようという工夫があるわけでもなく、主人公が歌っているシーンは何をしているのかしばらくわからなかった。先の『野ばら』を観た後だと、テンポの悪さが耐え難い。英語の字幕が初めからついているのは、海外市場を意識してのものなのか。その字幕も文字が多すぎて読むのが大変。それにしても主人公が静止したまま延々と続く歌の場面は、どう見ても奇妙。実際の上映の際には伴奏がつけられていたのだろうか。
11月28日
会期も三日目。この頃になってようやくそれぞれの特集の性質がわかりはじめ、見るべき映画の見当もついてくるのだが、すでに上映が終わっていて悔しい思いをさせられる作品を発見することにもなる。今年から設けられたドキュメンタリー部門には、山形映画祭でグランプリをとった中国の『鉄西区』が、コンペ作品として含まれていたのだが、すでに初日に上映が終わっていた。この他にも一回しか上映のない作品がごまんとあり、毎日のスケジュール作りが悩ましい。今日は5本を見ることにするが、どうがんばってもこれが精一杯である。
『マジック手袋 Los Guantes Magicos』(Martin Rejtman監督、アルゼンチン、2002)
まずはコンペ部門から。1961年生まれのアルゼンチンの監督の、長編3作目。始まりはタクシー運転手の主人公が、大雨の中で乗せた客の男。運転手のことを自分の弟の同級生だと言って譲らない客の男が、半ば強引に彼を夕食に招き、男の妻、主人公の元恋人、男の弟、等々、芋づる式につながった人間関係が、奇妙な共同体をなして物語を展開させていく。タイトルは彼らが寒波を予測して一儲けしようと売り物にする商品の名である。寒波は予想通り訪れて手袋はバカ売れ、しかし追加発注の到着が遅れて季節はすでに夏……そういった周囲の喧騒と、それに巻き込まれながら常にマイペースのタクシードライバーの無表情な顔とのコントラストが笑いを誘う。こなれたシナリオが最後まで観客を飽きさせないが、主人公の周囲の人間のエキセントリックさが今ひとつ物足りない。ブニュエルの『自由の幻想』ぐらいの奇天烈ぶりを見せてほしかったところだが、それは欲張りすぎか。
『ブラジル発見』(フンベルト・マウロHumberto Mauro監督、ブラジル、1937)
初日の『乱暴なギャング』に続いて、フンベルト・マウロのオマージュから、ブラジルの「発見」をあっけらかんとした武勇伝として描いた、今日では考えられない一本。時折映し出されるポルトガルからの航路を示す地図には、すでに「サンタ・クルス」だとかのキリスト教に由来する名前がきちんと記されているのが可笑しい。「原住民」の姿も、西洋人の持つありとあらゆる紋切り型をブレンドしたようなもの。この時代にポスト・コロニアルな視点を持てというのも無理な話だが、それにしても「発見」から400年以上も経っていてこの有様なのである。

『武訓伝』(孫瑜監督、中国、1949)
中国映画回顧特集の中から、昨日の『野ばら』と同じスン・ユィ監督による、200分に及ぶ大作。毛沢東の批判に遭い中国では今でも上映禁止が続いているという一本である。「『武訓伝』批判」はその後の文化大革命におけるイデオロギー闘争の雛形であり、政治的文脈で語られることの多いこの作品だが、こうして見てみるとスン・ユィ監督のフィルモグラフィーの中で特異な位置を占める作品という感じはまったくしない。『野ばら』でも見られた貧しい民衆の側に立った視点はここでも健在であり、それをプロリタリア映画の一言で片付けてしまうのはためらわれるような迫力を感じさせる。スン・ユィ自身は富裕な家の出であるらしく、『野ばら』の主人公のひとりである、裕福な家庭を飛び出し田舎の少女と暮らし始める画家に、監督自身の姿を重ねたくもなるが、あるいはその生い立ちに生涯のテーマを決めさせる契機になる何かを見出せるのかもしれない。この『武訓伝』は、19世紀に実在したという、極貧の中で無償の学校を設立することに一生を捧げる男の物語。『野ばら』のような青春恋愛映画の側面が、主人公に思いを寄せる少女が前半であっさり自殺してしまうことで失われてしまい、200分という長さもあいまってやや冗長に感じられるところもあるが、あらゆる権威に対する敵意に並々ならぬ執念が漲る一作である。
『S21 クメール・ルージュの虐殺者たち』(リィティー・パニュ監督、カンボジア、2003)
今年から創設のドキュメンタリー部門で、コンペ外の作品として特別上映された一作を見る。冒頭に記した『鉄西区』と同じく、今年の山形映画祭でも上映された作品である。これまで3日間で見た他の作品の記憶がかすんでしまうほど、強烈な印象を残すフィルムであった。ポルポト政権時代に無数の虐殺が繰り広げられたS21と呼ばれる収容所跡に、生存者たちが集う。知り合いの名を探して主人公がめくる収容者の経歴書には、横顔そして正面からの身元写真が貼られている。頭部を固定する特殊な椅子を用いて、一定のサイズで撮影されたこの身元写真は、19世紀末、パリの警視庁の屋根裏部屋でアルフォンス・ベルティヨンが開発し初めて実用化したものである。受刑者たちはまた指紋を採取され、一人一人に番号がつけられて管理される。つまりこの「死の機械」(原題)を動かすためのベースは、今日われわれすべてを対象として機能している管理のシステムと実質的には同じものなのである。この「身近さ」は、映画のために集った者たちの加害者と被害者の区別の曖昧さによって、より際立つことになる。そこでは誰しもが被害者となりえた。元看視人たちはキャメラの前で淡々と再現してみせる。「罪悪感」という人類の古来からの遺物は、この機械の前では無力である。いったい何がこの殺戮機械を止められるのだろうか。人間が単なる家畜とは別の生物であることを示すことが、かくも困難になった時代に、われわれは生きている。
『小市民Malen' Kie Ljudi』(Mariman Turebayev 監督、カザフスタン、2003)
夜10時からの最終上映で、コンペ部門の4作目を見る。1970年生まれの若い監督による、長編第一作。この作品、そして今朝見た『マジック手袋』は、ナント映画祭主催によるプロデューサー養成プログラムから芽を出した作品ということで、来場した監督とプロデューサーを紹介するナント映画祭ディレクター、アラン・ジャラドー氏もどことなく誇らしげである。映画は共同生活をする二人の若いセールスマンの物語。一方は売り上げトップクラスでハンサムなのに対し、もう片方は美男子だがどこか頼りなく成績もさっぱり。この頼りないほうの青年が成長していく姿を描くように見せかけつつ、ハンサムのほうも過去に暗い影があるのをほのめかしていく演出はなかなか心憎い。ギャグはベタだが観客の笑いをしっかりとっていた。
