
ナント映画祭2002 Vol.1
ナント3大陸映画祭2002 レポート Vol.1
Text by 橋本一径
11月26日(火)
「ナント映画祭」については、高嶺剛(『ウンタマギルー』)や篠崎誠(『おかえり』)、是枝裕和(『ワンダフル・ライフ』)らの受賞経験を通じて、聞き覚えのある向きも多いことだろう。正式な名称を「3大陸映画祭」(FESTIVAL DES 3 CONTINENTS, 略称F3C)というこのイベントは、アジア、アフリカ、南アメリカの作品を上映することを主旨として1979年に始まり、2002年で24回目を数える映画祭である。ナントはパリからTGVで南西に下ることおよそ2時間、ロワール川が大西洋に注ぎ込む手前の河岸に位置する港町。かつてこの町は、ちょうどイギリスにとってのリヴァプールがそうであったように、フランス第一の貿易港として栄華を極めたという。もちろん奴隷貿易という代償も無視することはできないその時代の名残は、街角のあちらこちらに点在するチョコレートショップや、南国の草花に彩られた植物園に垣間見ることができる。普段は紹介される機会の少ない数多くの映画に、シネフィルばかりか一般の市民も多くつめかける「3大陸映画祭」は、そうした時代のよき精神を継承するものだと言えるのかもしれない。そういった市民のボランティアが運営を支えるこの映画祭は、作品選定の主旨こそ異なるとはいえ、日本の山形映画祭に似たところがあると言えるのではないだろうか。開幕のちょうど一週間前、大半の作品が上映される映画館Katorzaに、フレデリック・ワイズマンが新作『La Derniere Lettre』を携えてナントまで「巡業」しに現れたことも、私の中でその連想をひときわ強めている。

2週間ほど前、取材の申し込みを事務局にFAXで恐る恐る送ってみたところ、映画祭の創設者のひとりであるディレクターのアラン・ジャラドー氏から直々に電話があったことには、正直驚かされた。「まったく問題ない」との返事。日本のサイトに紹介記事を書きたい、という旨を書き送っただけなのだが……。取材したいという意思だけが、プレスとしての資格の必要十分条件だということだろうか。一気に親近感を深めて、26日夜の開会式へ。開幕に間に合って到着した監督たちが、次々と舞台上に呼ばれ、おそらくは何の説明も受けていないジーパン姿の若手シネアストたちが、戸惑いながら壇上で挨拶をする。オープニング作品として選ばれたのは、イム・グォンテク(『風の丘を越えて』)の新作、『Ivre de femmes et de penture』。「どうやら私が一番年寄りのようです」という監督の舞台挨拶により会場の雰囲気が一段となごやかになったところで、作品の上映が始まった。19世紀末に実在した画聖の生涯を、波乱に満ちた世紀末の韓国史と重ね合わせて描いた、疑いようのない力作である。

終映してみると、すでに夜の11時近く。さらにこの後続くというレセプションは遠慮して、そそくさと退出。明日からはこの機を逃せば二度とお目にかかれないような作品が、一週間たらずの間におよそ80本も上映されるのだ。その内訳は、風間志織『火星のカノン』を含むコンペ部門の11本のほか、モロッコ、ポルトガル語圏アフリカ、アルゼンチンそしてウルグアイの作品の特集、キルギスのトロムーシュ・オケーエフへのオマージュ、マギー・チャンの主演作品のレトロスペクティヴなど。どんな作品なのか想像すらつかないものが大半なので、掘り出し物を求めてやみくもにぶつかっていくしかない。体力勝負なのである。そしてそこでの収穫は、12月3日の閉幕まで、やはり体力の許す限りいち早くここに報告していくつもりだ。フランスの小都市で開かれている、良質ながら地味な映画祭の速報を、どこよりも早く伝えることに、どれだけの意味があるのかは大いに疑わしいところだが、カンヌやベルリンとは一味違う、商業主義から遠く離れた海外地方都市の映画祭の雰囲気を、少しでもお伝えできれば幸いである。
11月27日(水)
フランスの都市というのはどこでも、セーヌ川によって南北に分断されたパリと同じようなつくりになっているのだろうか。ナントもまた、市の南部を流れるロワール川に注ぎ込むエルドル川によって、ただしここでは南北ではなく東西に分け隔てられている。もっとも市の中心部ではこの川は20世紀初頭に埋めたてられ、現在では路面電車の走る大通りとなっているのだが、水がなくなった今でも市街地を緩やかに分断し続けているのだから大したものである。大まかに言って西側が商業地区、東側が県庁や市庁舎のある官庁街となっている。ただパリとの違いはそのサイズ。映画祭の主会場Katorzaは西側、私の滞在先は東側にあり、中心部を横断することになるのだが、それでも10分たらず歩けばついてしまう。大通りからオルレアン通りを進み、ロワイヤル広場を抜けて、ブランドショップが申し訳程度に散らばる、「ナント銀座」とでも言った趣のクレビヨン通りの突き当たりの広場の、劇場の脇にあるのが、主会場となる映画館Katorzaだ。この会場での上映の初日となるこの日はまず、コンペ部門に出品されているウルグアイの若手監督Aldo Garayの『La Espera〔希望〕』を見た。寝たきりの母を看病する娘と、その隣人の中年男が繰り広げる悲劇。男は娘を自由にしてやろうとして母親を殺してしまうのだが、母と娘と男の三者関係を描こうというコンセプトが先行しすぎた感があり、やや焦点がぼやけてしまっているのは残念だ。
午後からはキルギスのトロムーシュ・オケーエフ(Tolomouch Okeev)の『LA FEROCE(Ijutyj)〔獰猛〕』。昨年のナント映画祭に参加した数週間後に他界したというオケーエフ監督のレトロスペクティヴは、今年の目玉企画である。1973年のこの作品は、キルギスの寒村で、やがて家畜を襲うようになることを懸念する大人に殺されかけていた狼の子供を救った少年の物語。タイトルは少年がこの狼につけた名前である。狼のポートレート写真が次々と画面に現れる冒頭のタイトルバックからして、ただならぬ気配を予感させる。これは狼版の『バルタザールどこへ行く』なのか。救われた狼が安易に恩返しをしたりはしないところがよい。襲われた少年を救うこともなく、しまいには逆に少年に向かって牙をむいてしまう。巧みなキャメラワークは、狼に襲いかかる鷹や、断崖を駆け下りる馬、家の天井を突き破って取っ組み合う男たちなど、上昇と下降の運動を表象するときにとりわけ魅力を放つ。これは残りの7作品も見逃せなさそうである。
夜にはマギー・チャン特集。マギー・チャンは現在ウォン・カーウァイの新作の撮影中だが、スケジュールの調整がつけばナントにまでやってくるかもしれない、とのこと。期待したい。スタンリー・クワンの『ロアン・リンユイ』と、ウォン・カーウァイの『花様年華』を見た。これらについてはいまさら私がここでとやかく言う必要もないだろう。明日は風間志織の『火星のカノン』が上映される。
11月28日(木)
ナントは気候はパリに比べればやや温暖だが、やたらと雨が多い。それもシトシトと降り続けるのではなく、晴れていたかと思ったらいきなり雲行きが怪しくなり、時には雷と共に大粒の雨が降ったかと思うと、これもまた突然やんで晴れ上がったりする。それでもここ数日は例外的に晴れの日が多かったのだが、今日は朝から雨。そんな中コンペ部門作品を見に行く。アルゼンチンのDiego Gachassinによる、『Vladimir en Buenos Aires〔ブエノスアイレスのウラジミール〕』。やはり若手の監督による長編第一作。ブエノスアイレスのロシア移民を扱った作品で、白黒の映像は歯切れがよかったが、希望を胸に異国に渡った男が、夢破れてやがて破滅へ……という脚本はあまりに凡庸すぎる。
午後からは、風間志織『火星のカノン』。冒頭のピクニックの場面から夜の高速道路の移動撮影へと続くつながりは非常に心地が良かった。これまでに見たコンペ作品2作にはない成熟を感じさせ、期待が高まる。毎週火曜日にだけ続けられる中年男と若い女の不倫関係を、路上アーティストの若者とその友人の少女がかき乱し始め、同性愛も絡みだすという設定は、不自然といえば不自然なのだが、不思議と違和感を感じさせない。舞台設定のリアリティとはまた別の意味での、真実が語られているという気がした。他のコンペ作に欠いていたのはまさにこれなのだ。ただ、最終的に郊外の一軒家で同棲生活を始めた女性二人のもとに不倫相手とその娘が訪れて擬似家族的な食事をしたりするというのは、映画の終盤になってまた別のテーマが始まってしまったように見えて、やや舌足らずとの印象を受ける。おぼろげな記憶をたどれば前作『冬の河童』も田舎の廃屋か何かでの共同生活がテーマだったから、監督にとっての主題なのかもしれないが、この作品に限っては舞台を都会に絞っても良かったと思う。とはいえ、ほどよいエキゾチズムも功を奏してか、観客の反応は上々。隣のマダムは画面に登場したパリのディスカウントストア「TATI」の袋を見て大いにうけており、ディスカッションでもそのことについての質問が飛び出していた。(私もフランスの観客を意識して使ったのかと思ってしまったが、どうやら単なる偶然だったよう。しかし偶然そんなものを使ってしまうというのも何かの才能には違いあるまい!)日本ではすでに公開されているはずだから、特に賞狙いというわけでもないのだろうが、3作を見ただけの段階で勝手に賞レースの予想をさせてもらうならば、手ぶらで帰るようなことはおそらくないだろう。
夜は場所を変えて、もう一つの上映会場Cinematographeへ。ここは普段はフリッツ・ラングなどの古典やインディペンデント作品を上映する、東京で言えばアテネ・フランセのようなところなのだが、古い教会の建物を再利用しているため荘厳な雰囲気である。「ポルトガル語圏アフリカ」特集の中から、Flora Gomes監督の『Po di sangui (L'arbre aux ames)〔魂を持つ木〕』を見た。ギニア・ビサウ共和国の監督による、1996年の作品である。恥ずかしながらこの特集になると世界地図が手放せないのだが、ギニア・ビサウはセネガルの南、西アフリカの海沿いの共和国。キューバで映画制作を学んだというFlora Gomesは、比較的新しいこの国の映画史を代表する一人とのこと。作品は極めて完成度が高かった。茶色の大地に散らばった黄色の花びらに、白いミルクが流れこむシーンを見て、映画とはこの国の色彩を表現するためのものでもあったのだと納得する。ただし主人公たちを語り部として物語があまりにも饒舌に語られすぎるのは、話し言葉が知の伝承の主要な担い手であるというアフリカの映画にとっての必然なのだろうか。あるいはアフリカにおける無声映画の歴史がそこに関係しているのではないかと邪推するが、映像の饒舌さと語りのそれとが時として相殺しあってしまっているように思われることがあった。併映されたアフリカの知識人Hampate Baのインタヴュー番組は、アフリカの知を西洋の民俗学が伝えることの困難をユーモアを交えながら語った逸品。
11月29日(金)
雑事にかまけて午前中の上映に行きそびれる。コンペの作品群は低調気味とはいえ、賞レースの行方を見届ける上でも、見逃してしまったのはやはり悔しい。ところでコンペといえばこの映画祭、審査員というものがあまり前面に登場しない。これまでの審査員の顔ぶれは、初代のアンナ・カリーナに始まり、ウィリアム・クラインやロバート・クレーマー、ハンナ・シグラにオタル・イオセリアーニ、近年ではパスカル・ボニツェールやジャンヌ・バリバールなど、かなりの錚々たる面々がそろっているのだが。今年の審査員には、オリヴェイラ作品で知られる女優のレオノール・バルダク(『家路』でプロデューサーによってミシェル・ピコリにあてがわれそうになる若い女優)や、リヴェット作品のシナリオ作家(『彼女たちの舞台』や『恋ごころ』など)のクリスティーヌ・ローランらの名が並ぶが、開会式でもまったく紹介されなかった。審査員の顔ぶれによって映画祭の性格そのものが変わってしまうような他の大きなフェスティヴァルとはやはりかなり趣を異にするようだ。
気を取り直して午後の上映へ。まずはモロッコ映画特集の中の、『Chergui ou le silence violent〔シェルギまたは乱暴な沈黙〕』。モロッコ生まれの作家Moumen Smihiによる、1975年の白黒作品である。夫が二番目の妻を娶ろうとしているのを悲しむ現妻が、姑らと共に霊媒師のお告げや祈祷によって何とかそれを妨げようとするが、そんなことはお構いなしに夫は着々と婚礼の準備を進める。やがて妻は海に身を潜らせての祈祷中に、荒波にさらわれて帰らぬ人となってしまう……。伝統としての一夫多妻制に悲嘆する妻の姿に、世俗的な意識の芽生えをうかがわせながら、その伝統を止めさせるために宗教的儀礼にすがるしかないことの矛盾を描き出し、二度目の婚姻を無邪気に祝いあう男たちの姿に批判的な視線を向ける一方で、豪奢な別荘でのパーティで与太話に明け暮れる西洋人の姿をも皮肉るという、伝統と西洋化の狭間に置かれたモロッコの困難を巧みに映像化した秀作であった。ただしパリの映画学院IDHECで学んだという監督の演出は、こうした「ポストコロニアル」的な読みに還元しつくせるものではなく、ジャンプカットを多用した編集は鮮烈で、他にもフラッシュバックや独立闘争のドキュメンタリー写真が差し挟まれたりと、極めて多層的なものであった。
続いてはコンペ部門に出品されたイラン映画『emtehan (L'exemen)〔入試〕』。1964年生まれのNasser Refaie監督の長編第一作である。女子の大学入試試験会場に集まってきた受験生らの、試験開始までの動向を追った群像劇。子持ちの者や夫の反対を振り切ってきた者、隠れてタバコを吸おうとする不良少女たち、警備の少年をからかう仲良しグループ、ナンパ目当ての少年たち、人出を当て込んでやってきた行商人……。こういった登場人物たちが、例えばすれ違った瞬間などに代わる代わる画面の主役を務め、試験が始まるまでの数十分を映画の最初から最後までワン・シーンで描ききり、その間にイランの女子の教育事情やさらには女性問題全般を浮かび上がらせるテクニックは確かに秀逸であり、観客を飽きさせることがない。しかしどうも「これしきの小細工に騙されてなるものか」という気にさせられてしまうのは、単にこちらがひねくれすぎているだけなのか。ラストシーンも少しやりすぎという気がする。とはいえ見ごたえのある一本であるのは確かであり、イラン映画は日本で紹介される機会も少なくはないだろうから、名前を覚えておいても損はないと思う。
夜は少し趣向を変えて、「アフリカの人間科学」という、地味なこの映画祭の中でもさらに地味な一企画の中から、精神分析家・法制史家ピエール・ルジャンドルを招いて、アフリカの歴史や割礼の慣習についてのビデオ作品を上映するセッションへ出かけた。これについては、日本でも翻訳書が出ているルジャンドルの思想を紹介するサイト(http://www.ne.jp/asahi/site/dogme/)に報告をよせてあるので、参照していただければ幸いである。
少し補足を。オープニングに上映されたイム・グォンテクの新作は、フランス語ではベタに訳せば「酒と女に酔いしれて」というようなタイトルがついていたが、原題は『酔画仙』。画家の師匠役で出演したアン・ソンギは、ちょうど同時期に開催される「東京FILMeX」の審査員を務めているようだ。