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冨永昌敬監督『VICUNAS』に寄せて               青山真治

冨永昌敬監督『VICUNAS』に寄せて   by 青山真治 


『VICUNAS』のオリジナリティーは内容にのみあるのではないし、また形式にのみかかるものでもない。内容と形式の関わり方が新しいのだ。
映画が別のステップに入る時、このような作品が予告として生れる。二十五年前の『School Days』が現在の日本映画の胎動としてあったように、『VICUNAS』の先にも「ミライ」が約束されている。それが二十年後なのか、それとも五年後、いや来年か、アカルイのかクライのか、すべてはこれを「発見」する観客、ミライの旗手たちにかかっている。
いずれにせよ『VICUNAS』は、観客に「発見」の喜びを約束する。
それは「運命」なのだ。

「運命」は時として冷酷な顔で微笑む。『VICUNAS』が描くのも、その「運命」の冷酷で非情な横顔である。だがこれ以上、その奇天烈な物語をここで紹介するのは、慎もう。そこに原典があるかどうかなど問題にはならないし、そんなものの探索ほど『VICUNAS』を「発見」することの喜びから最も遠い、退屈な振舞いもないだろう。観客にはぜひとも、まったく未知のままこの奇天烈な世界に接してもらいたい。断わっておくが、『VICUNAS』には小難しい話など微塵も出てきはしないし、美しさとも揺るぎなさとも無縁だ。強度を声高に主張するわけでもない。映画マニアを唸らせる正統性に漲っているわけでもない。何しろ無きに等しい予算で作られたDV作品なのだから、映像としては貧弱という他ないことも目に見えている。つまり『VICUNAS』は、旧来の「傑作」という概念の傍さえいかがわしげな微笑とともに通り過ぎていくのだ。
だが、にもかかわらず、『VICUNAS』は面白い。だからこそ『VICUNAS』は、まぎれもない“いま”の作品なのであり、“いま”こそ見られなくてはならない。

さて、ミライの話。
『VICUNAS』を見た観客であるあなたは、年下の者たちに向かってさりげなくこう言うだろう。俺は、私は、冨永を『VICUNAS』から知ってるからね、と。ちょうど私よりも少し上の世代がいま、黒沢清の『School Days』についてさりげなくそう言うように。それを激しい嫉妬とともに聞くことになる者は、時を選んで生れる才能がなかったか、その才能をみすみすどぶに捨ててしまったか、そのどちらかだろう。そんな目に合うのは、私ならごめんだ。もちろん黒沢と冨永はちっとも似てはいないし、『School Days』と『VICUNAS』にもまるで共通点はないが、しかし、まったく共通点のない作品を思い出させることほど稀有なこともまた、ないのだ。

ここまで言えば勘のいいあなたなら、冨永昌敬がどんな男だか気づくのではないか。
少なくとも私には、パドックだけで財布の金をはたいてみたくなる映画作家である。