
『蘇州の猫』と『明るい部屋』
『蘇州の猫』と『明るい部屋』を御紹介したい 青山真治
21世紀の幕開けと共に、というべきか、それとも継続する歴史のさなかに突然、というべきだろうか、とにかく恐らくは誰もが予期しなかった時と場所から、二つの驚くべき才能が姿を現した。といっても、今年五年目の映画美学校から、といった矮小な枠の存在を強調したいわけではない。映画美学校を持ち出すなら、これまでにそこで作られた(講師陣の作品を含む)すべてを遥かに凌駕する出来、と言わねばなるまい。だがここで起こっているのはそのような狭い領域に留めておくことではない。はっきり言って新世紀の日本から、という言い回しこそがこの二つの驚くべき才能に相応しい規模を表わすと思う。つまりそれは、世界を視野に入れた規模、という意味である。
内田雅章と合田典彦。この二つの名前を記憶しておこう。十年後、いや五年後、この二つの名前によって日本、いや世界映画に重要な契機が訪れる。私はそのことに真剣に賭けてみようとしている。あるいはそれは、さして目立たぬ契機であるかもしれない。しかし決定的な契機となることは間違いないはずだ。
だが何が私にそのような気を起こさせるのか。正直言ってまだ言葉で説明できることはごく限られたものにすぎない。何しろまだ二人の作品は一度も正式に上映されてはいないし、映画は見られて初めて言葉を獲得するのだから。いや、むしろ言葉による説明を拒絶するような、あるいはこちらに回避を促すような性質をこの二つのデビュー作は含んでいる、と言うべきかもしれない。それはこの二つのデビュー作が、デビュー作にしてすでに真の映画であることを意味している。あるいは「映画」というジャンル呼称さえ、その短さ、呆気なさゆえに超越してしまうかもしれない。
事実、この二作は他の何にも似ていない。ゴダールでもあるまいし、デビュー作で何にも似ていないなどということがあるだろうか。もちろんあえて類似を指摘すれば、ダニエル・シュミットとフィリップ・ガレルの名をそれぞれに対して挙げることも可能だろう。だが当然、それで何かを言ったことになどなりはしない。
『蘇州の猫』と『明るい部屋』。これがその二作のとりあえずのタイトルである。しかしそれらのタイトルからもわかることはほとんど、ない。この二作が形成する磁場において言葉はまったくもって無力である。ではそれらは映像の力を高らかに謳い上げるのか。それも違う。所詮16ミリ作品、映像的には貧弱というべきだろう。台詞がない?いや、ちゃんとある。しかし台詞は確固とした音として響けば、その役割をほぼまっとうしたことになるだろう。映像より台詞よりむしろ、引出しを開ける木の擦れる音、髪を切る鋏の音、それら何気ない日常の音こそ、ここでは存在を輝かせる責務を担うことになるだろう。
そう、存在ということ。これらが確かに「映画」だとしたら、それはここで存在が、人間存在に限らず彼らのキャメラの前に位置した世界のありとあらゆる存在たちが、考えうる限り最も原始的かつ洗練された状態で、つまりきわめて唯物論的な様相を纏って現前するからだ。具体的にはこの二作は全く逆のアプローチで存在に迫ろうとしている。一方は観念から身体へ(『蘇州の猫』)、他方は身体から観念へ(『明るい部屋』)。一方は全景から中景へ、他方は近景から中景へ。一方が時間の連なりを背景とすれば、他方は空間の広がりを背景に持つ。一方が果敢にも不安定な移動撮影を武器とすれば、他方は揺るぎない固定画面で押し通す。それら諸々の対照関係は、この二作が独立した個々の作品としてあると同時に、二本同時に上映されることを求め合う二作であることを意味している。二本で一本分の価値、とか言いたいのではもちろんない。価値だのといった議論はあっさり鼻で笑われるだろう。だがこの両極のアプローチで存在に迫ろうとする二作を同時に見ることは、現代映画においてこの上なく重要である。冒頭で「世界を視野に入れた規模」と書いたのは、その意味においてだ。つまり世界じゅうで映画が「撮影された演劇」であることに背を向け、「存在の消し難い現前」に向かい始めているこの時代にこそ、現れてしかるべき作品たちであるということ。だがそれがこの国で実現したことが何より驚きなのだ。
しかもそれはおそらく偶然のことなのだろう。たしかに二人は同じ映画美学校に通う同期生であり、私を含めた同じ講師たちに指導を受け、ほぼ同じ時期に撮影に臨んだはずである。だがそれらもまたすべて偶然のことだ。彼らにはそのような見事な対照関係を描くつもりなど毛頭なかっただろうし、またいくらそのように計画してもこうはうまくいくはずはないだろう。何しろ彼らは初めて「映画」を作ったのだから。かような偶然を呼びこむもの、それを才能と言わずして何と呼ぶべきだというのか。
誰もが知るとおり、いくつもの輝ける対照関係によって形成される映画史が存在する。リュミエールとメリエス、グリフィスとシュトロハイム、小津と溝口、山中貞雄とジャン・ヴィゴ、ゴダールとトリュフォー、ホウ・シャオシェンとエドワード・ヤン、などなど。それら一対をなす固有名群の最後尾に、内田雅章と合田典彦というこの二人を連ねよ、とまではさすがに私も言うつもりはない。むしろそれを期待するような後ろ向きな姿勢こそ時空を超えた「存在の消し難い現前」を指向する彼らから最も遠い振る舞いに違いない。だがそれら一対の者らがそうであったように、何かが彼らの前後で変わる、そのような予感が私にはある。もちろん彼らがこのままその道を突き進んでくれれば、の話ではあるし、その道の想像を絶する険しさについては、先行者である私もそれなりに知ってはいる。
だがもしあなたが『蘇州の猫』の、あの大胆きわまりない歌謡シーンに触れたならば、あるいはまた『明るい部屋』の、繊細さに満ちた散髪シーンを体験したならば、つまりはあれらのカット一つ一つに唐突に実現される「存在論的画面」に思わず驚嘆の声を上げてしまったならば、大言壮語にも思える私のこの予感を、あるいは共有することになるのではないか、と思う。そしてもし、あなたがその共有を自分に認めたとしたらその時は、二十世紀最初の年に作られたこの二作の誕生を、まずは心から祝福しようではないか。映画メディアによってなされた歴史と世界についてのこれらの類い稀な省察について、深く分け入るのはそれからでも遅くはない。