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「オリヴェイラ・オールナイト」レポート

『OLIVEIRA ALL NIGHT』レポート   是安 祐 


去る6月30日(土)、銀座テアトルシネマにてマノエル・デ・オリヴェイラ監督の三作品『アブラハム渓谷』、『メフィストの誘い』、『クレーヴの奥方』を一挙上映するというオールナイト企画に行って来た。上映前に行われた蓮實重彦氏による講演も含めレポートをする。

まず、開場の一時間程前からの整理券配付に、ほぼ時間どおりに着いたにもかかわらずかなりの人数が並んでおり、蓮實氏の威光かと勘ぐるが大方自分と同じく若い客層であった。結局、150名のキャパのこの映画館に120%ぐらい(!)の入りで驚くが(繰り返すがレイトショーではなくオールナイトである!)、なんとか席を確保して蓮實氏の登場を待つ。

やや大仰な紹介のあとで、蓮實氏登場。開口一番、今夜の盛況ぶりをすぐにプロデューサーのパウロ・ブランコにeメールで知らせる、と味なことを言う。
その後すぐにオリヴェイラという人が一体どのような人物で、いかに奇特で、いかに驚異的な映画監督かということを、おそらくいつものように(私自身は蓮實氏の喋りをライヴで聴くのは初めてであった)澱みの無い、それでいてユーモアも忘れない語り口で紹介していく。
話に出てきたエピソードは、たとえばオリヴェイラ監督が、”噂”では過去に映画に出した女優とことごとく関係を持ったなどということや、91年のヴェネチア映画祭で初めて監督と出会った時のことなど、既にそこかしこで披露済みのモノが多かったようだが、全く予備知識の無い人にもとにかくとんでもない人物だということは充分伝わったのではなかろうか。
それよりも重要なことは、これも以前のポルトガル映画祭のチラシにもコメントを寄せていたが、ポルトガル映画というものの特殊性、それをもっとも色濃く、初期から一貫して打ち出して来ているこの監督の特異性に触れた部分であった。
ヨーロッパの文字どおり辺境の地である所のポルトガルという国にあって、そのマージナル(周縁)な視線でもって、西欧文化の中心を積極的に攻撃していくような屈折した身ぶり、ひいてはその身ぶりが「映画のメディア化=文化として流通」に対抗するものだということ、マイナーであることの正統性。
以上のようなことが、オリヴェイラの作品の全編を貫いているのだ、と氏は語る。
また、かつてのオリヴェイラの、「(インタビューの時に)私が答える言葉は無責任なものだが、私はそれらを責任ある者だけが持ちうる無責任さとして使っている」という発言を引用し、そのような”無責任”の大胆さが作品の驚くべき大胆さに表れているのだ、と付け加える。
そして、最後にいくつか、ぜひ目を凝らして観て欲しいというカットを取り上げ、「恋人でも家族でもたとえ騙してでも良いから、一人でも多くの知人を誘ってもう一度、二度劇場に足を運んで欲しい」という氏らしい暴力的な煽動も忘れてはいなかった。

『アブラハム渓谷』

恥ずかしながら、この大傑作を初見であった。多くの人が90年代映画のベスト10などに挙げているので多大な期待を持っていたのだが、冒頭のロングショットとそれに続く列車からの長い車窓ショット、この2ショットのみで、一気に間違いのない傑作だと確信する。
全編にわたるナレーションは、分量としては過去に観た映画の内で最も多いにもかかわらず、物語の進行を妨げるどころか、まさにそれにより物語が静かに牽引されていく、いや物語性が増していくと言った方が良いか、とにかく、場面の状況説明どころか、本来役者の演技や心象風景(そういうものが本当に映るのかは別として)と言われるショットでもって表そうとする登場人物の内面さえも、まるで反復するように語り尽くしていく。
スクリーンを観る者は、ナレーションによってそこで起こっている出来事を把握し、またスクリーンの中の出来事を観ることによってナレーションで語られていることを了解するという二重の体験をする。それは、途中からはどちらが先でどちらが後かは判然としなくなり、そのような二重の語りが、この物語を貫く奇妙な客観性とも言える視線に因るものだろうかとこちらを悩ませる。
主人公のエマは、その苛烈なロマンティシズムにおいて間違いなく悲劇的な女性であると言えると同時に、果たして彼女が幸せでなかった時などあったのだろうかという気にもさせる。最後に桟橋を踏み外して水死するエマは、その直前までじつに晴れやかな表情をしてはいなかったか。少女時代に戻ったかのような鮮やかなドレスを着て。
自分を取り巻く世界との折り合いをつけずに、ひたすら”ロマンティック”な生を生きようとするエマのいわばカウンターパーツとして、エマの幼少時代からのメイドである聾唖の女性が登場する。(蓮實氏も触れていたが)この女優の美しさはただごとではない。この女性もまた、エマと表裏一体の形である種苛烈な生を生きているのである。ただ人々を、ものごとをじっと見つめるのみ。サロンやパーティーや台所で交わされる噂話、猥談、政治談義などには一切加わらずに。この無声の人物と、異様に饒舌なナレーションの対比もまた興味深い。
オリヴェイラ監督自身はインタビューで次のように語っている。(パンフレット所収) 「『アブラハム渓谷』は叙情的な映画です。一人の女性が、世界を詩的に見ようとする儚い力で、”力”そのものである男たちに対して、いかにして立ち向かうかという映画ですから。」 詩(ポエジー)は常に喜びと苦悩を合わせもつ。映画の最後でナレーションは、エマの知人であり精神的に微妙な緊張関係にあったマリアが、エマの死後、数日後に死んだ夫のカルロスに渡したという小説について語る。
「その日、マリアはカルロスに、新しい本の校正刷りを渡し、読んでほしいと頼んでいた。”たいした事は書いてないけど、人生は美しい、それだけは一所懸命書いたつもりよ”」 この言葉は、マリアの言葉であると同時に、エマの言葉でもあり、聾唖のメイドの言葉でもあるのだろうか。そして、もちろんオリヴェイラ自身の?、、、、。

『メフィストの誘い』

一本目とはうって変わり、いきなり中世の僧院を舞台にした不穏な雰囲気に包まれた画面が続く。登場人物も、研究に来た教授とその妻、僧院の管理人と手伝いの老夫婦、 教授の助手となる女性研究員、と少ない。
そしてなによりも、全編にわたって、繰り返し流れ過剰ともとれる、現代音楽風と言えば良いのか調性があるのかないのかわからないような音楽が、時にシーンの流れに全く関係の無いような出方と消え方で使われる。とにかく不気味な音楽なのだが、ホラ-映画風にある場面に付けられているというより、まるでその土地に吹く風の音か、海から聞こえる波の音のような、常にそこに聞こえている音のような扱いであり、事実そのようにしか聞こえなくなる。
話の筋としては、研究にかまけてないがしろにされたと感じた妻が、その彼女に強く惹かれたある種悪魔的な雰囲気をもった管理人と共謀し、教授と研究の協動者として以上に微妙に親しくなっていると見える女性研究員を、僧院の近くにある森に連れだして迷わせてしまう、というサスペンスものと言ってしまって良いのかどうか迷う代物なのだが。
ゲーテの『ファウスト』が重要なモチーフになっていて、いくつかの場面で引用されてはいるものの、とにかく謎の多い作品である。僧院で働いているにも関わらず密かに悪魔崇拝をしている老夫婦や、教授の妄想的とも言える研究に異常な反応を示す管理人、そして、なにか過去があるらしいが美しく、静かに教授との微妙な関係を楽しんでいるかのようでいて、管理人に森の中へ呼び出されると奔放に動き回り語る女性研究員。少ない登場人物の関係が、極限まで妄想の世界で塗り固められ、歪められていき、そのまま最後の最も不可解な終わり方に行き着く。
森の中に誘われた女性研究員は、自ら森の奥の”真実の口”の方へ駆けていき(この場面のみ大仰なスローモ-ションが使われる)、嫌な予感がして妻を捜しまわる教授の前に、泳いでいた海から上がって来た妻が、静かに優雅に姿を現す。そのまま、字幕にてその後の顛末のようなものが語られ(森が大火事で焼け、管理人と女性研究員は行方不明、教授夫妻はパリに戻り、僧院は老夫妻が引き継ぐ等々)、その語りさえも漁師の話で定かではないと言う。
多くの人が、一体なんだったんだ、と言うような大胆なつくりだが、どこかに『ファウスト』との絡みやらがあるのかも知れぬが、私にはひたすら難解な作品であった。
映画の全ての時間を通して、ただ謎だけを投げかけているかのようにさえ感じた。

『クレーヴの奥方』

これも『アブラハム渓谷』と同じく有名な文学作品の翻案だが、とりあえずのっけからその大胆さに驚かされる。ステ-ジ上でのサックスの演奏に導かれ、楽屋らしき所に座り出番を待つ男の後ろ姿が写される。この男が後にカトリーヌ(クレーヴ夫人)と恋に落ちる事になるペドロ・アブルニョーザなのだが、本人がステージへ出て歌いだしてもなお、カメラは無人となった楽屋をひたすら写し続けるのである。
それに対し、最後には恋が叶わなかったアブルニョーザが思いのたけを歌うシーンでは、ひたすら正面からステージが写される。
その他にも、はっきり言って荒唐無稽としか言い様のない展開が続く。現代劇にもかかわらず、セリフや登場人物たちの身ぶり(嫉妬が原因で死にまで至ってしまう!)が原作の舞台と同じく古風にしか聞こえない事に加え、偶然とか運命とか言うにはあまりにもあっと言う間のすれ違い(カトリーヌがアブルニョーザの写真展を訪れた時に”偶然”彼が登場するシーン!)。思いが叶わぬ二人のすれ違いと、彼らに振り回されるまわりの人々、という筋的な描写がかなりあっさりしているのに対して(それでも、非常に官能的に撮られている事は確かだが)、カトリーヌの幼友達である修道女に会うシーンが執拗に描かれ、むしろここだけを描きたかったのではとさえ思わせる。
それに、ついにサングラスをはずさないアブルニョーザが、数回見上げる彫像への視線も興味深い。
原題に『手紙』とあるように、最後に修道女が全てから逃れアフリカの地で難民のために従事するカトリーヌの手紙を読み上げる。そこでは、なんら結論的な事が語られているわけではなく、ただ自分の恋愛の不可能性と今の境遇と心情が吐露されるばかりである。なぜ、オリヴェイラがこの作品に『手紙』という題を付けたのかはいまだにナゾだが、ポスターにあるカトリーヌの美しい喪服姿に惹かれて観た人は、この荒唐無稽さにどう感じ入るのだろうか。
『アブラハム渓谷』と同じく、またもやこの世界と折り合いを付けられずに、苛烈で過剰なポエジーを持って生きる女性を描き、オリヴェイラは我々になにを伝えたかったのか。しかも、古典劇の要素を故意に残しつつ、現代性も折り込もうとするある種悪意に満ちた剛腕によって。
我々の多くが、世界とはこのようであると認知し、了解しえているその根拠はどこにあるのか。また、過去から進歩してきたといわれることが、はたして我々の精神性においてもそう言えるのか。
ある一人の女性の悲劇的な人生を描くことによって、オリヴェイラはそのようなことを我々に問うているのだろうか。