
『ありがとう』、聖なる映画(万田邦敏監督)
text by 廣瀬純
『ありがとう』というフィルムにおいて賭けられていることのひとつは、例えば、冒頭におかれたひとつのシーンがそっくりそのままラストにおいて回帰してくるとき、その同じ映像が新たにしかるべき時間的厚みを伴ったものであり得るかどうかということである。こうした構成は、マンキーウィッツの『イヴの総て』を思わせるものでもあるが、それでもなお、『ありがとう』が『イヴの総て』と異なるのは、『ありがとう』においては、この問題のシーンのなかで、主人公その人が独白というかたちでこの時間的厚みそれ自体に言及するという点である。すなわち、冒頭におかれたこのシーンにおいて、フィルムそれ自体が、主人公の独白を介して、この同じシーンのラストにおける回帰をはっきりと予告しているのだ。別様に言えば、『ありがとう』は、自らが『イヴの総て』と同じ仕方で構成されている作品であるということを、その冒頭において予め明らかにしてしまうというということである。そして、冒頭において一切の時間的厚みを欠いたかたちでのっぺりと提示されるそのシーンは、そのシーン自らが予告した通り、すなわち《予定通り》、ラストにおいてしかるべき時間的厚みを十全に伴ったかたちで回帰してくるのだ(『ありがとう』は、ある意味で、映像が、時間的厚みゼロの状態から出発し、徐々に厚みを獲得していくプロセスを描いた作品だとも言える──大地震とは映像の時間的厚みをゼロにする出来事であり、その後に続く震災シーンにおける諸々の映像が感情移入を拒否するものとなっているのは、それらが時間的厚みを失っているからだと言える)。
『ありがとう』における真の賭け金は、したがって、実のところ、同一のシーンの時間的厚みを伴った新たな回帰ということにはないのだ。そうではなく、むしろ、この回帰が《予定通り》であるということにこそ、このフィルムの真の賭け金は存しているのである。ただし、『ありがとう』が、「結局は《予定通り》」であるような数多の凡庸な作品と異なるのは、このフィルムそれ自体が、上に触れたような仕方で、自らの《予定通り》さをはっきりと自覚しているという点にある。『ありがとう』は、《予定通り》ではないようなふりをして、あるいは、自分が《予定通り》であるということに無自覚なまま、結局は《予定通り》であるような無邪気な作品ではまったくない。『ありがとう』は、無邪気であるどころか、むしろ正反対に、ある意味では、悪意すら感じられるフィルムである。というのは、『ありがとう』における《予定通り》さは、度を超したものだからだ。主人公は、作品のなかで何度か「奇跡」という語を口にするが、これは、『ありがとう』において《予定通り》ということが度を超していることと無関係ではない。度を超した《予定通り》とは、「奇跡」が《予定通り》に起こるということなのだから。したがって、このフィルムは、マンキーウィッツのそれというよりも、むしろ、ドライヤーの系譜を継ぐものだとするほうが正しいだろう。「ありがとう」という主人公の言葉が向けられる相手は、《神》をおいて他の誰でもない。主人公の家族が全員助かるのも、主人公があくまでも町民たちのリーダーあるいは「代表」でい続けられるのも、主人公がプロテストに合格するのも、すべては「奇跡」であり、《神》の御業である。要するに、主人公が「おおっ!」と言葉にならない声を発する度ごとに、彼は《神》の否定し難い存在を前にしているのだ。
度を超した《予定通り》すなわち「奇跡」とは、ふたつの異なる要素がひとつの調和・共鳴関係におかれること、すなわち、調和のあるモンタージュが成立するということだ。数多の凡庸なフィルムにおいては、そうした調和のあるモンタージュが、あたかも《神》の介在なしに成立するかのように提示される。これとは反対に、『ありがとう』においては、すべての調和のあるモンタージュは、そのひとつひとつに「ありがとう」という言葉が差し向けられるべきものとして示されるのである。モンタージュという「奇跡」、あるいは、「奇跡」としてのモンタージュ。主人公/町民たち、主人公/家族、主人公/奥さん、主人公/キャディさん、主人公/若い友人……、これらひとつひとつケースにおいて調和のあるモンタージュが成立するのは、いずれの場合も《神》のおかげ以外の何ものでもなく、『ありがとう』というフィルムは、まさに、このことに自覚的なのである。例えば、「ラインがはっきり見える」と言ってパットを打つ主人公の映像と、その打球がホールに沈む映像とは、《神》の介在なしには互いに繋がり得ない、このことこそ、ホールの縁でとまってしまったボールがまさに「奇跡」──あるいは、度を超した《予定通り》──としか言いようのない仕方でホールに沈むときに示されることなのだ。ボールがとまってしまった瞬間とボールがホールに沈む瞬間とのあいだのこの待機の時間は、《神》の時間そのものの純粋な現前なのだ。同じことは、住民評議会において主人公が区画整理への住民全員の賛成をとりつけるシーンでの待機についても言うことができるだろう。だからこそ、主人公は、「ありがとう」という言葉を発するときに、あの拝むような手つきをすることを、けっして忘れないのだ(鬱蒼と茂る木々に穿たれた小さな空隙から差し込む天空からの導きの光は、「奇跡」のモンタージュ──茂みのなかの映像とフェアウェイの映像とのあいだのモンタージュ──を可能にする《神》の降臨以外の何ものでもない)。
「この物語は実話である」というような内容のキャプションが、フィルムの冒頭におかれている。『ありがとう』というフィルムは、「奇跡」を、すなわち、《神》の存在を、「実話」として信じることを観る者に要請する。ひとりの男の「復活」という「奇跡」の物語を「実話」として信じること、あるいは、ひとりの実在の男において「奇跡」が確かに受肉したのだということを信じること、『ありがとう』はそうした信仰を観る者に要請する。この意味で、『ありがとう』というフィルムは一冊の「聖書」──とりわけ「受肉した《御言葉》」としてのイエス・キリストの生涯を記録した「福音書」──であり、その主人公は、ひとりのイエス=キリストなのだ。『ありがとう』が、《何が起きるのか》ではなく《何が起きたのか》を描くフィルム、《何が起きたのか》ということの記録になっているのは、このフィルムがひとつの「福音」を目指すものだからなのだ。
『ありがとう』は、信じられないようなことを信じるように強要するフィルムである。人々の信じる力の限界に挑戦するフィルムである。今日、数多の凡庸なフィルムが、容易に信じられそうなことだけを描くのに終始し、信じる力への挑戦という映画のもっとも本質的な役割のひとつを放棄しているなかで、『ありがとう』がひときわ異彩を放っているように思えるのは、まさに、ここに理由がある。『ありがとう』という出来事は「聖なる映画」の復活という出来事なのである。■