
『労働者たち、農民たちOuvriers, Paysans』
エクリチュールの場所 御園生涼子
--ストローブ・ユイレ『労働者たち、農民たちOuvriers, Paysans』
1. いつ、どこで、誰が
言葉は常に盗まれている。なぜなら、それは開かれているからだ。これは60年代に書かれたデリダのアルトー論『息を吹き入れられた言葉』の中の言葉である注1。エクリチュールは反復可能であり、読解可能であるからこそ、エクリチュールの機能を保持しうるが、そのために、発話行為の時と場所は限りなく不明瞭になる。つまり、発話行為自体が複数化されるため、原-発話を確定することはできなくなる。エクリチュールは、ただ一度の出来事とは構造的になりえないのだ。それは特定の差出人に属するのでもなければ、受取人に属するのでもない。いや、そのように書かれたものであったとしても、文字によって書かれた時点でその言葉達は四散し、未知数の差出人と受取人のあいだを錯綜した軌跡を描きつつ行き交うだろう。
ところが,ストローブ・ユイレの新作『労働者たち、農民たち』においては、状況はさかさまである。彼らは、エクリチュールを声に出して読ませている。声に出すということは、行為であり、出来事となる。声の起源として、声の主を特定することは可能であるし、その声が届いていた範囲を画定することによって、コミュニケーションの受取人を特定することも可能である。しかし、ここで発話されている言葉の起源が、彼らが手にした台本=エクリチュールであることを考えれば、事態はより複雑になる。彼らはテクストに書かれた言葉を読んでいる。まず問うべきはこれらの言葉が「いつ、どこで」発せられたのかという点だ。「映画撮影の、その現場において」。もちろんこう答えることは可能だ。そしてもちろん、答えはこれだけではない。こうした答えは発話行為者を、言葉を発している俳優だと考える場合に出てくるものである。しかし、言葉を発した人間はもう一人いる。テクストを書いた人間である。では、彼が(この場合著者であるエリオ・ヴィットリーニ)文字を原稿用紙に書き付けた(あるいはタイプした)瞬間、その場所で発話行為が行われたのだろうか?そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。なぜなら、それは書かれた文字であるのだから。
もう少し詳細に各ショットの構成を検討してみよう。まずこの映画は、三人、二人、あるいは一人の朗読者をほぼ正面からとらえた、基本となる六つのブロックから成り立っている。ブロックは常に同じ画角で切り取られ、ブロック間で人物の移動が行われることは無い。ブロック内のショット構成は、以下の基本プロセスでほとんど統一されている。まず、ブロックを構成する人物全員をフレーミングしたマスターショット。誰かがテクストを取り上げて、読み始めると、その人物のバストショット、あるいはクローズアップになる。朗読が終わると、次の人物にショットが切り替わる。ブロック内の各自が朗読を終えると、キャメラはズーム後退し、全員を映し込んだマスターショットのフレームに戻る。
しかし、ここは一体どこなのだろう。各ブロックは自足した時空間として提示されており、全体の位置関係は判然としない。場所の統一性を保っているのは、各ブロックにほぼ共通の背景としてある木漏れ日のさす森と、同じトーンで流れつづける水のせせらぎ、木々の葉がゆれる音、鳥の鳴き声である。歴史的作品においては土地の固有性を強調するストローブ・ユイレだが、ここでの土地はむしろそれぞれの空間をつなぐための同質性を保証している。各ショット間には、光の変化以外に大きな違いは起こらない。光は一秒ごとに細かく変化していく。ただ、この変化は、日光が本来そうであるように、時間の推移を示すものではないようだ。光は強くなったり弱くなったりして様々なバリエーションを生み出すものの、全体としてなにかの流れを生み出すわけではなく、その意味では初めから終わりまでずっと同じでありつづけるのだ。そしてそのバックには、通奏低音のように森の音が流れつづけている。ここには、時間の流れは存在しないといっていい。一体ここはどこなのだろう?そして「今」は「いつ」なのだろう?
2. 「判事に向って?諮問官に向って?観客に向って?」
ここで唯一特定されている時間があるとすれば、それは俳優達が読み上げるテクスト内部の時間である。しかし、それもまた決して単線的なものではない。物語は大戦後のイタリアのある村に労働者と農民という出自の異なる人間が集まって、小さな共同体を作るところから始まる。厳しい冬を通して、彼らはいさかいを繰り返し、脱落者を出しつつ、やがて春を迎えるのだが、それまでの経緯が、共同体に加わった人物のそれぞれの視点から語られる。ある出来事について、複数の人物が別の視点から語っていく。これはいわゆる「藪の中」構造であり、一種の証言の劇でもある。かつてあった共同体についての(彼らは過去形で語る)、証言をめぐる法廷。各自の証言はぐるぐる回るばかりで、どこかに統一の着地点があるわけではない。
では、問いを変えてみよう。彼らは、一体誰に向って証言を行っているのだろうか?言葉が誰かに向って語りかけられたものだとすれば、それは出来事として生起し、そしてその出来事の発生した時と場所を特定することもできるだろう。しかし俳優たちは、コミュニケーションを避けるかのように、みな顔をそむけ合っている。誰かの発言に反応するかのように、その人物の方へ視線を向けることはあっても、互いに視線を合わせることは無い。彼らが視線を向けるのは、ただテクストの紙面と、スクリーンのこちら側に向けてだけなのである。1971年の論文『署名・出来事・コンテクスト』の中で、デリダはオースティンの言語行為論を批判する形をとりつつ、言語伝達の出来事性から逃れるエクリチュールの理論を展開している。まずデリダはエクリチュールに特有の「不在」という概念に着目し、その規定を検討する。
「不在とはまず第一に受け手の不在である。人は不在者に何ごとかを伝達するために書く、というのである。発信人、送り手が、彼の放棄するに、彼から切り離されながらもなお彼の現前性のかなた、彼の意義作用の現前的のかなた、それどころか彼の生そのもののかなたですらもろもろの効果を産出しつづけるに、不在であること。注2」
『労働者たち、農民たち』においてもやはり、俳優達の声の先には受取人はいないように思われる。テクストを手に持ち、「これはわたしの言葉ではない」ことをあからさまに示している彼らは、エクリチュールの代行者であり、上演者であり、引用者であり、したがってエクリチュールの機能そのものに身をゆだねてしまっている。彼らが互いに視線を合わさないのは、言葉をコミュニケーションとして発動させないためだとも言えるだろう。この点において、ストローブ・ユイレはいつもながらとても率直なのだ。実際のところ、映画のスクリーンという「場」における発話は、それが何らかのテクストに基づいたフィクションであれ、ドキュメンタリーと呼ばれるフィルム内部のことであれ、つねに上演であり、再現であり、何度でも(原則上は)繰り返し可能な、したがって「いま、ここ」という現前性を徹底的に奪われたものでしかあり得ないからだ。ここにおいて、映画における発話はつねに何らかのエクリチュール性を保持していると言っていいだろう。「私の「書かれた伝達」がそれのエクリチュール機能を、言いかえればそれの読解可能性を保有するためには、あらゆる一定の受け手一般の絶対的消滅にもかかわらず、私の「書かれた伝達」は読解可能の状態にとどまっているのでなければならない、とお望みならこう言ってもよい。私の「書かれた伝達」は、受け手の、もしくは受け手たちの経験的に決定可能な総体の、絶対的不在において反復可能〔repetable〕で--繰り返し可能〔iterable〕で--あるのでなければならない。(・・・・・)受け手の死のかなたで構造的に読解可能で--繰り返し可能で--ないようなエクリチュールは、エクリチュールではないだろう。注3」
ところで、オンブル出版から出された『労働者たち、農民たち』のデクパージュ本には、空中に向って朗読する人物達の台詞の前に次のようなト書きが付されている。「判事に向って?諮問官に向かって?観客に向って?・・・注4」このように並列されているからには、これら三つの名詞には何らかの共通点があるのだろう。しかしそれは一体何なのか。ヒントとなるのは、リベラシオン紙のインタビューにおけるストローブの次のような発言である。「それにこのフィルムは、訴訟でもあり、法廷の口頭弁論でもある訳だけど、テレビのトーク・ショーに対する挑戦でもあるんだ。あれらには魅惑されるが、同時に、倫理的、政治的には吐き気を催させられるね。トーク・ショーは、侮蔑の一形態といったものとはおそらく別のものだろう。注5」
トーク・ショーにおいて、ストローブに吐き気を催させるものとは何なのか。テレビのトーク・ショーの手法を考えてみよう。複数の人物が一つの場所に集まって話し合っている。発話者のショットに、その言葉に耳を傾ける人物(たち)のショットが切り返され、さらに彼らをまとめて撮したマスター・ショットが挿入される。統一と分割、このパターンのバリエーションが、トーク・ショーにおいては一般的なものである。ここでのマスター・ショットは、「彼らは全員その場所にいました」という保証の役割を果たしている。しかし、それは本当だろうか?たとえばそれが録画・編集されたものであれば、ある人物の談話につなげて、それにうなづく人物のショットがはさまれても、それはその時、その談話に対して向けられた反応であるとは限らない。誰かの笑顔も、そこで聞かれている笑い声とは一致していないのかもしれない。空間はバラバラに切り刻まれ、マスター・ショットによって一つの「場所」に括りいれられる。しかしそこでは実際には、人物が「たしかにわたしはそこにいました」ということが困難になっているのだ。
一方、法廷の場とは、「わたしはかつてそこにいました。そして事件をこの目で見ました」と証言する場所であるだろう。すなわち証言者は、彼もしくは彼女自身の名において、過去におけるある場所への自分の「現前」を主張しているわけだ。過去の失われてしまった出来事を、なんとか言葉で再現するために、法廷に集まった人々は語る者も、聞く者も、その不確かな作業に参加しなければならない。しかし、失われた出来事は二度と戻ってはこない。証言は過去の事件を想起させることはできるが、それを現前させることはできないのだ。ふたたびデリダの『署名・出来事・コンテクスト』へと戻ろう。デリダがそこで議論の主な標的としているのは、オースティンによって提出された「行為遂行的発言」の概念である。オースティンは事実確認的発言と、行為遂行的発言との比較から、すべての発言はなによりもまず一つの言説行為と見なされると論じたが、デリダの批判が集中するのは、行為遂行的発言が、「言説行為を伝達行為としてのかぎりでしか考察していないと思われる」という点である。オースティンは伝達を一つの「行為」として規定することによって、伝達概念の、純粋に記号的もしくはシンボル的な概念を乗り越えた。しかしデリダによれば、オースティンの言語行為論の問題点は、彼が書記素的要素と呼ぶものを考慮に入れていないという点にある。「私が書記素的[gramophematiques]述語一般と呼んでいる一体系の述語を、或るものが発語[locution]の構造において(したがって発語内的[illocutoire]とか発語媒介的[perlocutoire]といったどんな限定づけよりも以前のところで)すでに含んでいるのであるが、オースティンはそうした或るものを考慮に入れなかった、ということである。そういったわけだから、そうした或るものよりもあとに出てくるあらゆる相互対立項どもを、その或るものはかき乱してしまうのである。注6」デリダは、伝達における行為者の意識の現前という前提へと疑問を投げかける。彼によれば、発話者を含む全体的な状況への意識の現前を保持するため、エクリチュールを除外すると言う点において、オースティンもまた、エクリチュールを「寄生者」として扱う伝統的哲学と同じ轍を踏んでいるのだ。「そして行為遂行的発言という出来事に悪い影響を及ぼしうるさまざまな型の(infelicities)の長いリストは、結局のところつねに、オースティンが全的コンテクストと呼ぶものの一要素に帰着するのである。それら諸要素のうちの本質的なものの一つは--したがってこの要素はその他大勢のなかの一つといったものではない--古典的にあいもかわらず意識なのである。すなわち話者[sujet parlant(話す主観)]の意図[intention(志向)]の、話者の発言行為全体への意識的現前なのである。注7」
では、法廷で述べられる証言は行為遂行論をめぐるこの議論のなかではどのように位置付けることができるだろうか。まず、証言することとは紛れもない行為であると言える。わたしたちは法廷に発言をするために集まり、その発言によって、効果=判決が生まれることを前提としてそれを行う。しかし、その発言の、こう言ってよければ本来の目的--その事件がたしかに起こったことを証拠立てる--に関しては、証言は実は無力なのではないだろうか。過去の出来事への現前を証明するために、「いま、ここ」の発話を費やすという法廷には、現前性をめぐる一種の倒錯がある。そこでは、伝達行為は通常どおりには機能していない。発言において最も重要視されるのは発言内容が真か偽かという点(すなわち意味内容の伝達)であり、「行為」としての発話は希薄化する。それらの言葉は書き取られ、記録され、蓄積されることをあらかじめ決定づけられた上で発せられている。そしてそうした特性にふさわしく、伝達行為としての証言の受取人は(エクリチュールにおいてそうであるように)判然としない。証言者は一体誰に向けて語りかけているのだろう。法廷の構造は各国によって異なるが、ほぼ共通するのは証言者に法廷内の視線が集中するように作られているのに対し、証言者の視線はなかば定まらないまま宙をさまよっているということだ。彼が語りかけているのは判事だろうか?諮問官だろうか?傍聴席、あるいは陪審員席に向けてだろうか?それとも真偽をつかさどる「法」に向けてなのだろうか。
「かつてわたしはそこにいました」と発言するその場所=法廷自体が、発話の「いま、ここ」性において希薄であるということ。証言の難しさ、あるいは不可能性は、証言者おのおのの事件に対する認識の違いだけから来るものではないだろう。それは失われてしまった過去を語ろうとするその言葉が、すでに現前性・一回性という「出来事」を根拠付ける核となる部分から、本質的に逃れさる性質を持っているからではないだろうか。『労働者たち、農民たち』を法廷劇として見るとき、そこでストローブ・ユイレが選択している方法は、証言のこうした不確かさをラディカルな形で示している。何しろ、証言者達は台本テクストを手に持っているのだから。それはオースティンが彼の研究から「正常ではない」として除外した、行為遂行的発言を侵害する「悪」そのものである。「私の念頭にあるのは例えば次のような悪である。或る行為遂行的発言は、例えばそれが舞台の上で役者によって言われたり、あるいは詩の中で持ち出されたり、あるいは独り言のなかで発せられたりしたら、特有の仕方で空疎ないしは無効であるだろう。明らかにそのような諸状況においては言語がある特有の仕方で[--つまりそれとわかるような仕方で--まじめには[ここの傍点をつけたのは私である。ジャック・デリダ]使用されていないのであって、それは使用に寄生した使用なのである注8」。
しかし、デリダが指摘する通り、オースティンは上記の例を「寄生状態」と呼んで除外する一方、こうした危険性はあらゆる発言に開かれているとしている。これらの危険が言語に内的に備わっているものだとすれば、「通常」言語とは何を意味するのか。オースティンの企図は、多分に目的論的かつ倫理的な規定に定められている。オースティンが異常、例外、「非-まじめ」として除外しているものは、結局のところ、「或る全般的な引用性の-というよりはむしろ、或る全般的な繰り返し可能性[iterabilite]注9」の一様態なのではないだろうか。そして、そのような全般的な引用性がなければ、「成功した」行為遂行的発言も存在しえないだろう。「差延が、すなわち行為遂行的発言に、つまりありうるなかで最も「出来事的な」発言に意図もしくは立会いが取り返しようもなく不在であることが、私に次の権限を与えるのである。すなわち、さきに指摘したもろもろの述語を考慮に入れつつ、あらゆる「コミュニカシオン」の一般的な書記的構造を定位する権限である。注10」
デリダのエクリチュールをめぐる議論に沿って考えてみることで、ストローブ・ユイレの戦略の批評性、あるいは真摯さが浮かび上がってくるのではないだろうか。すなわち彼らは、あらかじめすべて引用であることを明らかにされた言葉を上演し、複製し、限りなく再現=上映のプロセスにかけることによって、発話行為に「いま、ここ」を定めることの不可能性を暴露しているのである。この法廷劇において審議にかけられているのは、「現前性」の可否なのだ。もう一度初めの問いに立ち戻ってみよう。俳優達がテクストを朗読している場所、ここは一体どこなのだろう?そしてそれは「いつ」なのだろう?すでに見たように、エクリチュールの上演という重層化された構造を持つこの映画において、不用意に「いま、ここ」を限定することはできない。しかし、あえてこの時空間を特定するとしたら?
エクリチュールに場所をあたえるとしたら、それはどのような手続きによって可能になるのだろうか。
3.エクリチュールの場所
ストローブ・ユイレ作品における「場所」の重要性はさまざまな場所で指摘されている。ストローブ自身のことばによれば、「まず場所がある。1969年に『オトン』を撮ったとき、それはコルネイユの読解から入ったのではなくて、このローマのテラスで何かを撮りたいと思ったことから始まったんだ。『労働者たち、農民たち』では、場所は物語とは矛盾しているね。物語が膨らんでいくのに、それはただ一つの本物の場所で撮られている。わたしはこのヴィットリーニのテクストに、これ以外の舞台装置を考えることはできなかった。わたしの映画とは、この場所、まさにここにおける、色彩の豊かさ、自然に与えられた動きの豊かさなんだ。注11」
この場所で、どうしても撮らなければならない物語。この原則をよりよく示しているのは、むしろ彼らが歴史を題材とした作品を撮るときである。たとえば『フォルティーニ・カーニ/シナイ山の犬たち』や『早すぎる、遅すぎる』といった作品においては、そこにかつて起こった出来事をいかに記録するか、という問題に映画自体が賭けられていた。彼らの映画は、何よりもまず、ある「場所」に対する証言の映画なのである。過去における現前を、私の名において証言すること。しかし、それはすでに見たように、困難な、もしくは不可能な試みである。『労働者たち、農民たち』において、その不可能性は二重化されている。共同体に参加した労働者たち・農民たちが「わたしはかつてその場所に立ち会いました」と証言すること(物語レヴェル)における不可能性と、キャメラがその「場所」で行われた出来事=朗読劇の上演にたしかに立ち会ったということを証言すること(語りのレヴェル)における不可能性。それらがすべて書かれた言葉であるならば、なおさらその困難さは浮き彫りにされる。いやしかし、むしろ、証言の不可能性を示す手段として、ストローブ・ユイレは現前に見せかけた再現という演出方法をとらずに、証言のエクリチュール性を強調してきたのではないか?
過去への自己の現前を証明すること、そしてそれを言葉によって行うことの困難さは、『署名・出来事・コンテクスト』の結部でデリダが取り上げる「署名という出来事」の不可能性と通じ合っている。証言とは、過去のある場所に自分の存在を書き込むことではないだろうか。自分はかつてここにいました、という陳述に署名をすること。しかしそれは、現在わたしはそこにはいない、ということを証明立てる行為でもある。「定義上からして、書かれた署名は署名者の現働的ないし経験的な非-現前を含意している。しかし、と人びとは言うだろう。書かれた署名はまた、或る過ぎ去った今における〈おのれの、現在的であった〉[son avoir-ete present]を標記してもおり、そしてそれを引きとどめてもおく。ところで、過ぎ去った今は未来的な今としてもありつづけるだろうから、したがって書かれた署名は今一般における〈おのれの、現在的であった〉を、すなわち今性という超越論的な形式における〈おのれの、現在的であった〉を標記してもおり、それを引きとどめてもおく。そうした一般的な今性が、署名の形態の現在的な、つねに明証的でつねに単独的な一点性のなかに、いわば書き込まれ、ピンでとめられている。注12」
しかし、そうした超越論的な「今性」などというものが単独の「出来事」として生起し得るのだろうか。署名は、十全にその役割を果たすためには(署名者がそこに現前した、ということを証明するためには)何度でも純粋に再生可能な、純粋な「出来事」でなければならない。「そのようなものは存在するのだろうか。一つの〈署名という出来事〉の絶対的な単独性はいつか生起するのか。署名どもは存在するのか。」
「もちろん」、とデリダは答える。「とはいえ、それら諸効果の〈可能性の条件〉が、またしても同時にまた、それら諸効果の不可能性の条件、それら諸効果の純粋性の不可能性の条件でもある。機能するためには、言い換えれば読解可能であるためには、署名は一つの反復可能な、繰り返し可能な、模倣可能な形態をもっていなければならない。署名はそれの産出の現在的かつ単独的な意図から切り離され得るのでなければならない。署名の同じもの性[memete]こそが、署名の同一性[identite]と単独性を変質させることによって、署名の封印を分割するのである。注13」。
ストローブ・ユイレの映画においてもまた、ある「場所」にいたこと、あるいはそれがあることを証言するということは、証言者の名前においてその現前が限りなく分割されてしまうという恐れに身をさらすことでもあるのだ。したがって、次の点に注意しておく必要があるだろう。すなわち、彼らの「場所」のに対する態度は、決してよく言われるように「存在論的な」ものではない、という点である。彼らの作品は、よく次のように形容される。「場所がそこに「ある」ことを記録した」「土地の精霊をフィルムに焼き付けた」etc.。こうした評価には、何がしかの真理が含まれている。たしかに彼らのフィルムには「存在論的な」ところがある。土地の、声の、「肉」と言わざるを得ないもの、ただ何かがそこに「ある」としか言いようがないもの、そういったものを彼らが志向しているのもまた確かだろう。極端な長回し、ゆっくりと風景をなめるように写すパン、同時録音といった彼らを特徴付ける映画技法も、こうした傾向を裏付けているかのようだ。しかし、ストローブ・ユイレの映画を単純な現前性の神話に還元することは危険だ。エクリチュールを基盤とした映画作りを続ける彼らの、映画における「いま、ここ」をめぐる戦略はもっと老獪なものなのだ。
「これは言葉のフレームだ注14」--かつてマルグリット・デュラスは、ストローブ・ユイレの『オトン』におけるフレーミングをこのように評した。これはいかにも、映画の中の声とテクストの関係を徹底して解体してみせた映画作家らしい指摘である。しかし、デュラスは少々勘違いをしていたようだ。彼女はストローブ・ユイレのフレームを、「言葉=パロール」という語を用いて言い表している。だが、彼らの映画において言葉とはパロールというよりは、いつもエクリチュールであると言った方がいい。原作の書物から、手紙から、報道資料から、彼らの映画は常にどこかからの引用であり、またそれを隠しはしない。彼らのフィルムには、いつもエクリチュール性がついて回っており、それはしばしば映画の「いま、ここ」への現前という幻想を打ち負かしてしまうのだ。そのとき、映画における「場所」は、エクリチュールへと明渡されてしまう。エクリチュールに乗り移られたようにテクストを棒読みする俳優達のいる場所、それは「いま、ここ」とは定められない時間の堆積する、エクリチュールの場所であるとはいえないだろうか。
しかし、それでもそこに自分がいたのだ、と主張することをあきらめないのが、ストローブ・ユイレの映画であると言えるだろう。もう一度『労働者たち、農民たち』の基本的なショット構成を検討してみよう。まずマスター・ショットでブロック内の俳優たち全員を括り、次にテクストを読み上げる話者を順々にバスト・ショットでとらえる。そして最後にマスター・ショットに戻り、全員をもとの通り空間の中に配置付ける。この手法は、ストローブが批判するトーク・ショーとほぼ同じものだ。初めと終わりを括るマスター・ショットは、さらに最後の話者が朗読を終えた位置からズーム後退によって元の位置に戻ることによって、空間の連続性を強調する。それは、「彼らはたしかにここにいました。そして時間を共有しました」と主張するショットであると言える。しかし、この「空間の連続性」には、明らかに嘘が含まれている。例えば撮影状況の実際を考えてみれば、この長台詞をしゃべる三人のショットが完全な一発撮りで撮られたとは考えにくい。ましてストローブ・ユイレが複数キャメラによるマルチ・ショットを使うということは考えられない。ということは、ある人物の、または人物間のショット変換の間には、何らかの切断があるはずなのだ。そうした失われた時空間があるにも関わらず、古典的なショット連鎖によって、あるいはズームや同一視点のマスター・ショットによって、ある統一した「場所」を作り出そうとする努力がここには見て取れる。たとえば細かいショット変換によって空間も人物も寸断されるテレビのトーク・ショーの映像においては、場所についての統覚が失われ、ひたすら抽象的なメディア空間が作り上げられる。それに対し、すでに述べたように、この映画はいくつかの固定されたブロックの寄せ集めから成り立っており、これらのブロックの相互間を人物が移動したり、言葉が行き交ったりすることはない。言葉とそれを発する身体とはしっかり各ブロックのなかにつなぎとめられている。そのショット連鎖の無造作さは、古典的な方法のパロディにさえ見えるものだ。しかしそれでも、この操作によって、「場所」の固有性は希薄化されることへの抵抗を行っているとはいえないだろうか。
ストローブ・ユイレにおいて、場所の「いま、ここ」をめぐる戦略はいつも引き裂かれている。一方で彼らは映画において「いま、ここ」を現前させることの不可能性を自覚している。しかしまた一方で、ある特定の場所、人物、出来事がかつてそこにあったことを、失敗しつつ、証言しようとする努力をつづけるのだ。
もう一つ、存在の「いま、ここ」を分割されまいとする彼らの努力を指摘するならば、それは同時録音で録られた俳優達の声である。ストローブ・ユイレはしばしば自分達の作品を「オペラ」と呼ぶが、『労働者たち、農民たち』もその例に漏れず、俳優達の特徴のある声が、あるときは朗々と、あるときは耳をこするように響く。バルトが「声の粒」あるいは「声のきめ」と呼んで愛したそれらの響き注15は、しばしばエクリチュールの伝達機能から逃れ、文字通り歌となってわたしたちの耳に届く。
この効果はひとつには、『労働者たち、農民たち』のテクストの特徴からくるものである。彼らの生活の困窮を反映して、このテクストで使われる単語もそう多くはない。事件自体が食べる事、働く事、そして共同体のなかの絶えない小競り合いに限られているのだから、話題が豊富になろうはずもない。たとえばその中の一人ビリオッティ未亡人はこのように語る。「ポレンタはあったが、他には何も無かった。/二ヶ月の間、ラードの小さなひとかけさえなかった。/ガラスのかわりに、ラードを買う事だってできたのに。/正月の後/彼らは私たちを呼び集めた。だけど私たちは何を言えばいいのかわからなかった、/ただわかっていたのは、この先良くはならないということだ、まだ冬の初めだというのに、/そして彼らは寄り集まって、私たちにこう言った/毎朝一切れのポレンタで/一日もたせるには十分だろう/そしてもうスープもなかった/ミルクは子供たちにやらなければならなかった/私のようにヤギを連れてきた者でさえ・・・注16」
食べ物や家畜のことばかり語る彼女の言葉の内容はきわめて散文的だが、同じ単語を繰言のようにならべるうちに、韻文の調子を帯びてくる。彼らはまた、共同体から逃げていった人物の名前を数え上げもする。「そして三番目はナルド・デリターラだった/彼はピオンビーノの製鉄所で働いていた/ここではフィスキーオと働き、小さなハーモニカを吹いていた。/彼と一緒にサンティナ・ガロリーオも消えた注17」何か事件が起こるたびに固有名詞が挙げられ、それが小さな共同体であるために、何度も同じ人間の名前が繰り返し口にのぼることになる。こうした単語の繰り返しは、積み重ねられることによってある音楽な調べを形作るようになる。誰かがある出来事について語ると、その言葉を引き取るようにして別の人物が別の声で、別の視点から同じ出来事について語る。物語は互いに少しずつ重なり合いながら、輪唱のようにして展開していく。その中でたとえば、農民たちが何度も口にする「私たちは冬は働かない」というフレーズは、歌としてのテクストの中核をなすリフレインとなる。ここで聞かれる俳優達の息遣い、標記としての言葉の機能からこぼれ落ちるプラスアルファのざわめきは、俳優達の身体に固有のものとして、声をその場所につなぎとめる要素ではないだろうか。スクリーン上に映った身体の映像は「声」の受容器であり、「息を吹き込まれること」によって「受肉される」。一方で、声の発信源である身体へと結び付けられた言葉は「場所」を獲得するというわけだ。一見、これは映画の存在論的な幻想に立ち戻るようなプロセスだ。たとえばミシェル・シオンは、デュラスの「同時録音はイカサマよ」という言葉を引きつつ、同時録音のもたらす「現実の効果」に疑問を投げかける。「声に身体化を与えるという操作は機械的なものではなく、象徴的なものである。人は、たとえその映画が吹きかえられていても、信じるという一種の契約の規則が守られる限りにおいて、俳優の身体から発せられた声を彼のものだと認識する。バザンがそのような契約において、モンタージュに関する戒律を表明しようとしたように。注18」
たしかに、またここでもストローブ・ユイレの戦略は引き裂かれている、あるいは失敗している。言葉はそれでも引用され、繰り返され、ただ一つの「いま、ここ」は、複数の「かつて、ここにあった」に取って替わられる。土地の、俳優達の身体の固有性はあっという間に盗まれてしまう。しかし、その盗みの一歩手前で、「いま、ここ」の現在を取り戻せないか。あるいは盗みの構造を引き延ばすことによって、その悪をあぶり出せないか。ストローブ・ユイレがわたしたちに差し出してみせるエクリチュールの場所とはそうしたエクリチュールと現前をめぐる訴訟の舞台であり、わたしたち観客もまた、盗まれた言葉の受取人の一つの可能性として、その裁判に立ち会っているのである。
注1 Jacques Derrida, ≪La parole soufflee ≫, L'ecriture et la difference, Editions du Seuil, 1967, P.266 [ジャック・デリダ「息を吹き入れられた言葉」『エクリチュールと差異』下巻所収、梶谷温子ほか訳、法政大学出版局、一九七九-八〇年、二〇頁] back
注2 Jacques Derrida, ≪Signature Evenement Contexte≫, Marges, Editions de Minuit, 1972 [ジャック・デリダ「署名・出来事・コンテクスト」高橋允昭訳、『現代思想臨時増刊 総特集デリダ 言語行為とコミュニケーション』所収、青土社、一九八九年、一七頁] back
注3 デリダ、同掲論文、二〇頁 back
注4 Daniele Huillet, Jean-Marie Straub, Elio Vittorini, Ouvriers Paysans/Operai, Contadini, Editions Ombres, 2001,P.21[訳は拙訳による] back
注5 ≪Costa et les Straub en Liberte》, Liberation, Le mercredi 19 septembre 2001[訳は拙訳による] back
注6 デリダ、同掲論文、二八-二九頁 back
注7 デリダ、同掲論文、二九頁 back
注8 デリダ、同掲論文、三二頁 back
注9 デリダ、同掲論文、三三頁 back
注10 デリダ、同掲論文、三五頁 back
注11 Liberation、同掲記事 back
注12 デリダ、同掲論文、三六頁 back
注13 デリダ、同掲論文、三七頁 back
注14 Marguerite Duras, ≪《Othon》, de Jean-Marie Straub≫, Outside, Editions Albin Michel, P.200[訳は拙訳による] back
注15 Roland Barthes, Le plaisir du texte, Editions du Seuil, 1973, P.104 [ロラン・バルト『テクストの快楽』、沢崎浩平訳、みすず書房、一〇四頁] back
注16 Daniele Huillet, Jean-Marie Straub, Elio Vittorini, 同掲書, P.17 back
注17 Daniele Huillet, Jean-Marie Straub, Elio Vittorini, 同掲書、P.43 back
注18 Michel Chion, ≪En souffrance de corps≫, La voix au cinema, Editions de l'Etoile/Cahiers du cinema, 1982, P.121[訳は拙訳による] back