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「マトリックス」

The Revolution Will Not Be Televised 私たちの世界は「マトリックス」ではない。   廣瀬純


[著者注記:以下のテクストは、「WINTER IN AMERICA--《マトリックス》と《ポスト歴史的な気分》」(『現代思想』第32巻第1号「マトリックスの思想」青土社、2004年1月)を加筆訂正したもの。]

THE BIRDS

ドゥルーズは、『プルーストとシーニュ』において、世界を満たす様々な「シーニュ」(記号)の分類を試みつつ、「他のシーニュに対する《芸術》のシーニュの優位」を主張し、次のように書いている。「社交界のシーニュ、愛のシーニュ、さらには感覚のシーニュですらも、私たちに本質を与えることはできない。これらのシーニュは、確かに私たちを本質へと近付けはするが、それでもなお、つねに、私たちを〈物体=対象〉〔objet〕の罠に、主観性の罠に陥れるのである。ひたすら芸術のレヴェルにおいてのみ、本質は啓示されているのだ。ただし、ひとたび芸術作品のなかに姿を現すと、本質はその他の領域に対しても反響することになる。こうして、私たちは、本質が、すべての種類のシーニュのなかに、すべてのタイプの学習のなかに、すでに受肉していたこと、すでに存在していたことを学ぶのである」(註1)。この一節は「《芸術》のシーニュの優位」を規定するための二つのアスペクトを含んでいる。まず第一に、新たなシーニュの生産が行われるのは「芸術」においてのみであり、世界を満たす他の種類のシーニュはそのより物質化された「反響」に過ぎないということ。そして第二に、芸術のシーニュによって初めて示されるひとつの「本質」あるいは《理念》は、それでもなお、世界全体にとってつねにすでに存在していた「本質」であるということ。この議論をよりよく理解するための好例として、ヒッチコックの『鳥』(The Birds, 1963)を挙げることができるかも知れない。ヒッチコックの『鳥』(「芸術のシーニュ」)を観て映画館から外に出るとき、私たちは、電線にとまっていたり、路上の片隅におかれたゴミ袋をほじくり返している様々な種類の日常的な鳥(「その他のシーニュ」)を目にすることになるが、そのとき、これらの鳥たちが例外なく〈ヒッチコックの鳥〉(ひとつの《理念》)であるように見えてくる。しかしまた、この経験はより深い感覚を伴ってもいる。すなわち、私たちは、そこで、これらの鳥たちをつねにすでに〈ヒッチコックの鳥〉であったものとして「再び見い出す」(retrouver)あるいは--エドガー・アラン・ポーや青山真治におけるような意味において--発見するのである。そして、『鳥』という映画作品が初めて世に問われてからちょうど五〇年が過ぎたいまでは、もはや、この作品を経験することなしにすら、人は、日常的な鳥たちを多かれ少なかれ当たり前のように〈ヒッチコックの鳥〉として知覚するようになった。要するに、ドゥルーズがプルーストから引き出す定義に従えば、「芸術作品」とは、差異を、すなわち、世界の新たなヴィジョンを示すシーニュのことであり、ひとたびこのシーニュが生産されると、潜勢的にこの差異を反復してきたすべての他のシーニュにおいてもまた、その差異が現勢化され、読み取られるようになるということである。  

右のようなドゥルーズの議論の重要な賭け金のひとつは、芸術作品を社会(芸術作品以外のすべてのシーニュの総体をとりあえずここでは「社会」と呼んでおく)の「反響」あるいは〈再現前=表象〉(représentation)とみなすような、語の厳密な意味での「表象文化論」的認識を転倒させることにある。すなわち、芸術のシーニュとは〈再現前=表象〉ではなくあくまでも〈現前〉(présentation)であり、むしろ、芸術作品以外のすべてのシーニュこそが、芸術のシーニュの「反響」あるいは〈再現前=表象〉になっているということである。しかしながら、この議論は、おそらく、一般的な意味での「芸術作品」のすべてにあてはまるわけではないだろう。「芸術作品」という範疇に一般的に整理されているシーニュのなかには、〈再現前=表象〉としての社会の、さらなる〈再現前=表象〉となっているものもあるように思われる。例えば、芸術作品のなかに社会の諸問題を再認しようとするような立場をとる一部の社会学的研究(カルチュラル・スタディーズの一部も含まれる)は、このような社会の〈再現前=表象〉--あるいは〈再現前=表象〉の〈再現前=表象〉-- としての芸術作品なしにはあり得ない。要するに、一般的な意味での「芸術作品」には、社会に先駆けて差異を示すシーニュ(ドゥルーズの言う意味での「芸術のシーニュ」)と、社会の後を追って差異を反復するシーニュという二つのタイプのシーニュがあるということなのだ。これを図式化すれば、〈芸術のシーニュ〉→〈社会のシーニュ〉→〈表象文化のシーニュ〉という、シーニュの階梯に沿った差異の減損的フローを描くことができるだろう。そしてまた、本論考の結論をあらかじめ言っておくならば、『マトリックス』シリーズは、このフローにおいては三番目のタイプのシーニュに属し、「芸術のシーニュ」であることを自ら進んで拒否し、また、この拒否そのものに自らの存在理由を見い出す作品なのだ。

RELO/OADED

『マトリックス』シリーズは、もっとも簡潔に言えば、現在私たちが生きているこの世界が「マトリックス」であるということを示す作品である。「マトリックス」内部の西暦が私たちの生きる世界のそれに設定されているということ(例えばシリーズ第一話おける「一九九九年」という設定)が、これを端的に示している。私たちの世界が「マトリックス」であるということにこの作品が与えている意味は、これもまたもっとも簡潔に言えば、この世界がクリシェに満ちあふれているということであり、また、このクリシェの劇場に住む私たちの大半はそのことに気がつかずに生きているということである。例えば、シリーズ第二話『リローディッド』において《造物主》(the Architect)の部屋の壁一面を覆い尽すマルチ画面がネオのリアクションの可能的な類型のすべてを同時に映し出すとき、それらの総体は、とてつもなく見慣れたクリシェ的かつ無自覚的なリアクションのカタログといった様相を呈することになる。しかし、ここでさらに重要な点は、『マトリックス』シリーズが示す世界に対するこのヴィジョンもまた、それ自体、私たちにとってはひとつのクリシェに他ならないということである。私たちの住んでいる世界はクリシェの劇場である、すなわち、「マトリックス」であるというようなヴィジョンは、かの有名な「歴史の終焉」などという考え方に代表されるような、すでに良く知られた〈臆見=ドクサ〉以外の何ものでもない。『マトリックス』シリーズは、それ自体で、ひとつのクリシェとして、私たちが暮らすとされるクリシェに溢れた世界のなかに統合されているものなのであり、この統合は、私たちの世界そのものが「マトリックス」であることを示すために、むしろ、不可欠な条件ですらあるのだ。実際、『マトリックス』シリーズの〈マトリックス=世界〉へのこの統合は、例えば、シリーズ第二話の冒頭で「RELOADED」の緑色の文字のうち「O」が「マトリックス」プログラムのコード配列によって二重化されること(すなわち『マトリックス』シリーズの映像そのものが「マトリックス」プログラムによるものだということ)を通じて、はっきりと示されている。  

とはいえ、確かに、『マトリックス』シリーズには、先に言及したような〈ヒッチコックの鳥〉に似たような効果があると言えなくもない。例えば、シリーズ第一話の最終部においてネオの主観ショットによって示されるヴィジョン--すなわち、具象的イメージを「マトリックス」のコード配列によって二重化するヴィジョン--を経験した後に、映画館から出て、辺りの風景を見渡すならば、私たちもまた、映画館の外のこの街並をコード配列によって二重化されたものとして知覚することになる、あるいはより厳密に言えば、それがつねにすでにそうであったことを「再び見い出す」だろう。あるいは、映画のあとで食事をとるとすれば、ちょうどプルーストにおける有名なマドレーヌの逸話のように、そこで、サイファのステーキに味についてのコメントを思い出さずにはいられないだろう。すなわち、『マトリックス』シリーズというシーニュによって示されるひとつの《理念》が「その他のシーニュに対して反響する」ということである。しかしながら、ここで起きる「反響」は、〈現前〉の〈再現前=表象〉ではなく、あくまでも〈再現前=表象〉の〈再現前=表象〉であると言わねばならない。すなわち、『マトリックス』シリーズが、それ自体、ひとつのクリシェとして、私たちの生きるクリシェに満ちたこの「マトリックス」の内部に自ら進んで登録されており、また、そうでなければならないというまさにそのことによって、このシリーズはヒッチコックの『鳥』から大きく隔たっているということである。クリシェにうめ尽された「マトリックス」の内部では「芸術のシーニュ」は生起し得ず、また逆に言えば、「芸術のシーニュ」を差し引いた世界こそが「マトリックス」と呼ばれる場のことであり、この意味で、その内部の現象であることを存在理由とする『マトリックス』シリーズもまた、他のすべてのシーニュと同様に「芸術のシーニュ」ではあり得ないということである。「マトリックス」とは、ドゥルーズの分類に従えば、社交界のシーニュ・愛のシーニュ・感覚のシーニュといった反復的なシーニュのみから構成される世界のこと、すなわち、差異を啓示する「芸術のシーニュ」の生産をブロックすることそのものをそのプログラムの本性としている世界のことであり、また、『マトリックス』シリーズとは、そのような資格での世界のなかに自ら進んで書き込まれているひとつのシーニュであり、このような自己規定によって「芸術のシーニュ」であることを予め拒否する映画作品なのである。『マトリックス』シリーズとは、〈再現前=表象〉の〈再現前=表象〉であること、すなわち、〈表象文化のシーニュ〉であることを自らの存在理由とする作品なのだ。  

『マトリックス』シリーズによって示される私たちの世界に対するヴィジョンそのものがクリシェに他ならないという点については、さらに説明が必要かも知れない。というのも、超越的全能者としての《選ばれし一者》(the One)とその存在を信じる者たちの信仰心とによって「芸術のシーニュ」の生産のブロックを解除し、人々を「目覚めさせる」ことこそが『マトリックス』シリーズの賭け金であり、その意味において、『マトリックス』シリーズは私たちが生きる〈マトリックス=世界〉のただなかで《選ばれし一者》の到来を示す啓示的なシーニュとなっていると述べたてる反論があり得るからだ。こうしたあり得べき反論に対して直ちに確認しなければならないことは、クリシェの網の目を突き破り世界に創造の力を復活させるためにはすべてのクリシェを超越する《選ばれし一者》の到来を待たねばならないという考えそのものが、とてつもなく古く色褪せた多かれ少なかれカルト的・宗教的なクリシェに他ならないという周知の事実である。このメシア論的クリシェは、ちょうど「歴史の終焉」なる〈臆見=ドクサ〉が様々な原理主義的言説と完全に相互補完的関係にあるように、世界がクリシェにうめ尽された「マトリックス」であるというもうひとつのクリシェと完全に相互補完的関係にあり、この意味において、それ自体、「マトリックス」の内部に予め書き込まれているものに過ぎない。『マトリックス』シリーズがあからさまなクリシェ的救済論をこのように必要とすることは、まさに、先に説明したようなこのシリーズの存在理由に由来している。私たちの生きる世界が「マトリックス」であることを示すシーニュとしての『マトリックス』シリーズは、この目的において、その全体がひとつのクリシェとしてこの「マトリックス」に統合されていなければならず、そこから、救済の物語もまたあからさまにクリシェ的であることが当然のように要請されるというわけである。この意味において、『マトリックス』シリーズをめぐるすべての懐疑論は、偽の問題、アポリアである。すなわち、ひとたび「マトリックス」がそれとして把握されたならば「マトリックス」の外(「砂漠の現実世界」)とされる領域もまた別の「マトリックス」の内部に過ぎないのではないかという、誰しもの頭を過るお馴染みの懐疑論のことであるが、この問題は、端的に言って、『マトリックス』シリーズが、それ自体でひとつのクリシェとして自らを「マトリックス」のなかに登録するために、右のようなクリシェ的な救済論を必然として援用していることに由来するものであり、この意味で、私たちがいま生きているこの世界が「マトリックス」であるためには、「砂漠の現実世界」もまた必然的に「マトリックス」の内部になければならないのであり、したがって、たんに偽の問題なのである。この点において、懐疑する余地などまったく残されていない。そして、実際、『リローディッド』と『レボリューションズ』において、「このスプーンは現実存在しない」なる言葉に代表される信仰の問題が様々な選択の問題とともに「砂漠の現実世界」に溢れ出し、究極的には、ネオが、機械イカの群れに対して、「マトリックス」のなかでなければ発揮し得ないその超能力を行使することになる。

"OH, DÉJÀ VU !"

『マトリックス』シリーズは、私たちの生きるこの世界が「マトリックス」であることを示すために、「RELOADED」の「O」を「マトリックス」プログラムのコード配列によって二重化するだけでなく、私たちがこの世界において経験する様々な日常的な現象を「マトリックス」の論理によって説明しようとしてもいる。スプーン曲げなどもその好例であるが、本論考ではとりわけ「デジャ・ヴュ」の問題に注目したい。『マトリックス』第一話において、ネオは「マトリックス」のなかで同一の黒猫の同一の動作を二度立続けに知覚し、この体験を「デジャ・ヴュ」とした上でそれを仲間に伝える。すると、仲間は、ネオに、しかしまたネオを通じて私たちに、このような「デジャ・ヴュ」は「マトリックス」のプログラムが書き換えられるときに起こるものだと説明する。そして実際、それから間もなくして、登場人物たちは、彼らのいる建物の出口が壁に書き換えられたことを知ることになる……。この「デジャ・ヴュ」のシーケンスは、ネオの動きにあわせたカメラ移動を絶えず伴う二度の切り返しからなっている。まず、歩きながら何かを知覚するネオの様子が客観ショットとして示され、これに対するネオの主観ショットとして黒猫が立ち上がり歩き出す様子が示される。そして次に、いったん黒猫から視線を外しさらに歩みを進めた後で改めて黒猫のいた方向を見返し何かに気付くネオの様子が客観ショットとして示され、これに対して同じ黒猫の同じ動作が先とは別のアングルからネオの主観ショットとして再び示される。このシーケンスにおいて重要なことは、同一の黒猫の同一の動作が、ネオの移動にあわせて二つの異なるアングルから示されているということである。このことが意味しているのは、端的に言って、ここでネオによって「デジャ・ヴュ」と呼ばれ、仲間によってそれとして追認されもする体験が、ひとつの同じ出来事のクロノロジカルな時間軸に沿った回帰であるということだ。しかし、ここで直ちに指摘しなければならぬことは、私たちが日常的に経験するデジャ・ヴュは、ネオやその仲間たちがここで「デジャ・ヴュ」と呼んでいるものとは全く異なるものであり、あるいはむしろ、後者は前者についての極めて凡庸なクリシェ、〈臆見=ドクサ〉に過ぎないということだ。  

私たちがこの世界において経験するデジャ・ヴュが、同一の出来事のクロノロジカルな時間軸に沿った回帰ではないということは、ベルクソンの有名な論考(註2)を引き合いに出す間でもなく、各自が自分自身の経験をふりかえってみればすぐにわかることである。それは、同一の出来事が瞬間的に二重化されることなのであり、たとえ一方が〈現在〉として、また他方が〈想起〉(souvenir)として認識されようとも、この〈想起〉はクロノロジカルな意味での過去--すなわち「過ぎ去った現在」としての「過去のある特定の一点」--には決して位置付けられ得ないものとなっている。「マトリックス」とは、この本来の意味でのデジャ・ヴュの経験を奪われた世界のことであり、この非クロノロジカルなデジャ・ヴュに代わって、デジャ・ヴュの経験についてのこの上なく凡庸な〈臆見=ドクサ〉--その凡庸さうえにこの経験はまさに〈デジャ・ヴュ〉(déjà vu)すなわち〈すでに見られたもの〉と名付けられてさえいる--が予めプログラムされている世界のことなのである。そしてまた、まさにこの点においてこそ、『マトリックス』シリーズは「歴史の終焉」という世界認識を「反響させる」もの、あるいは、その〈再現前=表象〉になってもいるのだ。「歴史の終焉」とは、厳密に言って、非クロノロジカルなデジャ・ヴュの経験を時間軸に沿ってクロノロジー化することに存している。すなわち、歴史がその終焉に達した-- すべてのことがすでになされ、歴史が未来を失った--と言えるのは、〈現在〉を二重化するそれ自身の〈想起〉(ベルクソンはこれを「現在の想起」と呼んでいる)を、〈過ぎ去った現在〉へとクロノロジー化することを通じて、〈現在〉を〈過ぎ去った現在〉の純然たる回帰として再認する(ベルクソンの言う「偽りの再認」)ときのことなのである。『マルチチュードの文法』(月曜社、二〇〇四年一月刊行予定)の著者パオロ・ヴィルノは、ベルクソンのデジャ・ヴュ論を「歴史の終焉」論批判に大胆に援用した「デジャ・ヴュ現象と歴史の終焉」と題された論考のなかで、非クロノロジカルなデジャ・ヴュを「形式的アナクロニズム」(anacronismo formale)--「現在の想起」が「未規定で日付をもたず決して現勢化されない過去」という「形式としての過去」とされるようなアナクロニズム--、クロノロジー化されたデジャ・ヴュ(ネオたちが「デジャ・ヴュ」と呼んでいるもの)を「現実的アナクロニズム」(anacronismo reale)--「現在の想起」が「現実の過去」へと還元されるようなアナクロニズム--とそれぞれ再規定した上で、「現実的アナクロニズムは、形式的アナクロニズムを基礎とするものであり、その対称性によってその存在を知らせ、また、それを歪曲することによってその存在を確認するものである」ということ、そしてまた、「ポスト歴史的な気分〔「歴史の終焉」という気分〕とは、形式的アナクロニズム(歴史形成を担うもの)をこの現実的アナクロニズムへと転倒させることによって喚起されるものである」ということを説明している(註3)。このヴィルノの議論に従えば、「マトリックス」とは、ここでヴィルノの言う「転倒」(capovolgimento)をそのプログラムに組み込むことで、「歴史形成を担うもの」(storicizzante)としての「形式的アナクロニズム」を予めブロックすることに存する世界だと言うことができるだろう。  

『マトリックス』シリーズは、とりわけ(狭い意味での)「マトリックス」内部での闘いのシーンにおいて、《Bullet-Time Photography》と呼ばれる新たな撮影技法が使用されていることでもたいへん話題となった。この技法は、従来のスローモーションのように撮影対象の運動速度を減速させることを目的としたものではなく、むしろ、ある瞬間の撮影対象を、途切れのないひとつの視点の移動によって、ひとつの軌跡に沿って複数のアングルから示すことを目的としたものである(撮影対象の周りに無数のカメラを様々なアングル・距離で配置し、撮影対象をこれらのカメラによって同時に撮影し、編集段階でこのように撮影された映像をつなぎ合わせ、撮影対象の周りを旋回するひとつの視点を仮構する技法)。すなわち、ここでは、撮影対象の生きる瞬間が、移動する視点のもたらす〈偽りの時間〉によってクロノロジー化されることになるのである。この意味で、《Bullet-Time Photography》は、まさに「形式的アナクロニズム」をひとつの時間軸に沿って転倒させことによって「現実的アナクロニズム」へと歪曲する、優れて「マトリックス」的な技法だと言えるだろう。  

「形式的アナクロニズム」としてのデジャ・ヴュ、すなわち、〈現在の想起〉による〈現在〉の二重化としてのデジャ・ヴュは、『マトリックス』シリーズにおいては、むしろ、具象的イメージが「マトリックス」プログラムのコード配列によって二重化されるヴィジョンのなかに見い出されるべきである。《選ばれし一者》としてのネオにのみ特権的に知覚することが可能だとされるこの二重化されたヴィジョンは、たんに、具象的なイメージと、そのディジタルな組成とを見せているわけではない。この二重化されたヴィジョンの経験には、もうひとつの、より深い二重性がぴたりと重なり合っている。すなわち、ネオは、この二重化されたヴィジョンの経験を通じて、ひとつの特定の知覚行為を遂行する現勢的な自己と、この行為遂行を可能にする知覚能力そのものに貫かれた潜勢的な自己という、自己の二重化を経験するのである。具象的なイメージとそのコード配列との二重性は、行為とその能力との二重性にぴたりと一致している。だからこそ、『マトリックス』第一話のクライマックスにおいてネオがイメージ/コードの二重化されたヴィジョンを獲得するとき、私たちは、そしてネオ自身もまた、ネオが確かに《選ばれし一者》--「マトリックス」における「ポスト歴史的な気分」を己から完全に払拭し「このスプーンは現実存在しない」と完璧に信じることのできる者--となったことを知るのである。ヴィルノは行為/能力の二重性を次のように説明している。「この非クロノロジカルな《以前》〔「現在の想起」〕は、能力であり、あるいは、性向であり、身ぶりの遂行がそこに依存するものである。形式的アナクロニズムのおかげで、私は、進行中の出来事のなかに、行為と力能とを、発話されたパロールとラングとを、ある特定の喜びと喜ぶ能力とを、同時に見い出すことができる。しかしながら、特定のパフォーマンスとそれを可能にする能力とをいっきに把握するとき、私はまた、両者のあいだに存する排除し得ない差異を認めることにもなる。ラングは、発言されるパロールの総体によっては決して現実化され得ない(ラングは決して現勢的なものとはならないということ)し、また、労働力は、達成された労働の総体に一致するものでもない。経験の歴史性を基礎付けているのは、まさに、〈ことを行う能力〉〔poter-fare〕と完遂される諸々の事柄とのあいだのこの隔たりなのである。形式的アナクロニズムはこの基礎を露呈させるのである」(註4)。  

ヴィルノの議論は、右のように『マトリックス』シリーズと重なり合う部分をもつが、それでも両者には決定的な違いがある。確かに『マトリックス』シリーズにおいても「形式的アナクロニズム」の経験を通じて「経験の歴史性」の「基礎」(fondamento)が見い出されるが、そこでの「形式的アナクロニズム」の経験はネオという唯一の人物のみの特権とされ、まさにこの特権を有することそのものが《選ばれし一者》としてのネオの存在理由になっている。そのために、何回でも「リローディッド」され続けるであろう「マトリックス」に対する「レボリューション」は、いつの場合にも、「形式的アナクロニズム」の特権を独占する《選ばれし一者》としてのネオに全面的に依存することになる。『マトリックス』シリーズにおいて、すべての〈信仰‐選択〉の問題がネオを中心に構成され、また、今後ともそのようなかたちでのみ構成され続けるであろうことは、端的に言って、ここに理由がある。人々(ネオ自身も含む)は、ネオに対する信仰心を強めれば強めるほど、「現実的アナクロニズム」の世界を、すなわち、クリシェの総体としての「マトリックス」を肯定し拡大していくことになるだろう。しかし、まさにここにこそ、否定的に語られる際の「ハリウッド商業映画」の、まさに否定的な意味における成功のための鍵があるのではないだろうか。『マトリックス』シリーズ(あるいはその等価物)が今後とも世界的な成功を収め続けるためには、クリシェの世界の回帰的な「リローディング」に、あくまでもその内的な論理から派生するクリシェ的な「レボリューション」を対置することによって、すなわち、自らを「マトリックス」内部に統合し続けることによって、私たちをより包括的に「マトリックス」のうちに捕獲し、私たちの「ポスト歴史的な気分」をより強く喚起してゆかなければならないだろう。  「形式的アナクロニズム」を《選ばれし一者》の特権に還元する『マトリックス』シリーズに対して、ヴィルノの議論は、なによりもまず、「歴史の終焉」という名の「現実的アナクロニズム」が喧伝される今日においては、同時にまた「形式的アナクロニズム」が「公的なもの」(pubblico)となってもいるということを、あるいはむしろ、「形式的アナクロニズム」が「公的なもの」になったからこそ、これを「隠蔽する」ためにその「転倒」としての「現実的アナクロニズム」が要請されているということを主張するものである。これをとりわけ労働の問題に引き付けた上でもっとも簡潔にまとめれば、今日の生産において、労働者は、たんにあれやこれやの現勢的な労働行為を売っているわけではなく、これを二重化する自らの潜勢的な労働力を丸ごと売っているということ(「形式的アナクロニズム」)、しかしそれにもかかわらず、雇用主あるいは資本家は、労働者に賃金を支払う際に、現勢的な労働行為しか買っていないふり(「現実的アナクロニズム」)をして、その差額を抜き取っているということである。雇用主あるいは資本家による「形式的アナクロニズム」の「現実的アナクロニズム」へのこの「転倒」は、現在の生産(ヴィルノはこれを「ポストフォーディズム的」と形容している)が労働者たちの--あるいはむしろ、狭義の意味での〈労働者〉に限らず、「社会的労働者」(ネグリ)としての人類全体の--「非クロノロジカルな《以前》」の絶えざる回帰に依存しているにもかかわらず、あたかもそれがかつてのようなテイラー主義的な回帰、すなわち、「過ぎ去った現在」あるいはクロノロジカルな《以前》の絶えざる回帰(いわゆる「単純労働」あるいは「未熟練労働」、さらには「単純労働」の複合体としての「熟練労働」)にとどまっているかのように見せかけること(「偽りの再認」)に存している。「現実的アナクロニズムは、力能をすでに行われた行為に還元することによって、力能と行為とのあいだの隔たり(歴史性の基礎)を隠蔽する」(註5)。雇用主あるいは資本家が、何が何でも「形式的アナクロニズム」を自らだけの特権として独占し「偽りの再認」を人々に強要することにやっきになっているとすれば、それは、『マトリックス』シリーズにおける《選ばれし一者》としてのネオの場合と全く同様に、ここにこそ彼らの存在理由があるからである。したがって、ヴィルノの議論に従って「レボリューション」というものを考えてみるならば、それは、『マトリックス』シリーズにおけるそれような《選ばれし一者》への信仰を通じてでは断じてなく、むしろ、これとは正反対に、《選ばれし一者》が自らの存在理由を確保するために隠蔽しようとする「公的なもの」としての「形式的アナクロニズム」の力を十全に解き放つことによってのみ可能となるはずである。

"OH, DéJà VU !" RELOADED

『マトリックス』シリーズは、私たちの世界が「マトリックス」であるということを示すために、ちょうどそれが同一の黒猫を時間軸に沿ってクロノロジカルに回帰させたように、それ自体で、何度でも回帰する〈過ぎ去った現在〉と化している。『マトリックス』シリーズは、スクリーンの手前側ですでに十分に反響している「ポスト歴史的な気分」をスクリーンの彼方においてもそのまま回帰させるような、ひとつのダブルバインド装置となっているのだ。このダブルバインドに捕獲されている限り、私たちは、スクリーンの手前でもその彼方でも〈すでに見られたもの〉を再認し続けることになるだろう。そして、私たちは、凡庸な社会学者とともに言うのだ。世界は「マトリックス」であると。しかし、私たちの生きる世界は断じて「マトリックス」ではない。私たちの生きる世界が「マトリックス」ではないからこそ、この事実を隠蔽するために「マトリックス」のダブルバインド装置が起動しているのである。このダブルバインド装置は、差異のフローを〈社会のシーニュ〉と〈表象文化のシーニュ〉とのあいだの往復運動に還元し、両者のあいだの鏡像関係のなかにおいてハウリングさせ、〈過ぎ去った現在〉の亡霊を世界中に徘徊させることに存している。『マトリックス』シリーズは、雇用主や資本家が語る「歴史の終焉」なる怪談話のひとつのヴァージョンに過ぎない。すなわち、人々を偽りの恐怖のもとに束ね、《選ばれし一者》という名の自分の分身のもとに支配せんとして語られるあの怪談話の……。しかし、もちろん、私たちは、彼らが信じるほどナイーヴではない。■

註 (註1)Gilles Deleuze, Proust et les signes, 2e édition ≪ Quadrige ≫, PUF, 1998, p.50. 〔ジル・ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』宇波彰訳、法政大学出版局、一九七四年。〕
(註2)ベルクソン「現在の記憶内容と誤った再認」(『精神のエネルギー』宇波彰訳、第三文明社、一九九二年所収)を参照のこと。
(註3)Paolo Virno, ≪ Il fenomeno del déjà vu e la fine della Storia ≫, Il Ricordo del presente. Saggio sul tempo storico, Bollati Boringhieri, 1999. の特に四一頁以下を参照のこと。
(註4)同前書、四二頁。 (註5)同前書、四三頁。