
M-マブゼ-モレク神 M-Mabuse-Moloch
~ヒトラー前、ヒトラー後~ 水原文人
アレクサンドル・ソクーロフ『モレク神』(1999)
フリッツ・ラング『M』(1931)『ドクトル・マブゼ』(1922)『マブゼ博士の遺言』(1932)『マブゼ博士の千の眼』(1960)*
Aleksandr Sokurov: MOLOCH
Fritz Lang: M, DR.MABUSE DER SPIELER&INFERNO, DAS TESTAMENT VON DR.MABUSE, DIE TAUSEND AUGEN DES DR.MABUSE
「MOLOCH!」――フリッツ・ラングの『メトロポリス』(1926)で、主人公である大資本家の息子が初めて労働者セクションに入り、労働者たちが過酷な苦役の待つ工場へと入って行くのを目にして、思わず叫ぶ恐怖の言葉だ。モレクとは古代セム族の神で、生け贄の人間の赤子を要求する破壊神だという。
アレクサンドル・ソクーロフはヒトラーを主人公にした映画に、この神の名を着けた。だが恐るべき神の名を題名にし、ゲルマン神話を継承するヴァーグナーの『神々の黄昏』の<ジークフリートの死の主題>を序曲とするこの映画には、善なるものだろうと破壊神だろうと、"神"の姿は一切写っていない。映画がこれまで描いてきた、史上最悪の独裁者、天才と紙一重の狂気を宿した極悪人の影はまるで見えない。ソクーロフが描くのは、あまりにも惨めで、コンプレックスとパラノイアに囚われた中年男としてのヒトラーでしかなく、彼はその姿を、そんな男でも(いや、そんな男だからこそ)最後まで愛し、共に自殺した女エヴァ・ブラウンの眼差しから描いている。
我々はここに何を見い出すべきなのだろうか? エヴァにとっては"偉大なる総統"もまた、自分がたまたま愛してしまった男に過ぎない。滑稽なまでに自信がなく、怯え、虚勢を張るヒトラーは、モレク神という自らに課した虚像に押しつぶされた男だ。彼は自分もまた"ただの男"であること、彼女に対してさえ認めることができず、ただちょっと胃が悪いだけなのに、「私は癌だ」と言い張るのだが、エヴァはあっさりと「医者はあなたが喜ぶ病名を言っているだけなのよ」とそれを退ける。舞台はヒトラーが数少ないプライヴェートな時間を楽しめるように作った山荘"鷲の巣"**。だがそこですらヒトラーの寝室は大理石の巨大な机の置かれた書斎に直接連結し、側近マルティン・ボルマンの部下が食卓で自分の発する言葉をすべて速記している。常に自分を演じなければならない立場に置かれたヒトラーだが、実はその演じることでしか自分の不安を覆い隠すことができない男でもある。エヴァは、愛するが故にこの男の本質を見抜いており、その展開が最後はどこに行き着くかまでも、恐らく見通している。映画を通して我々はそれを知り、戸惑う。この男は悪魔であったはずだ、あるいはドイツ民族の救世主たる天才であったはずだ……。
もちろんこの映画を見る誰もが、歴史上の実在の人物として知っているはずのヒトラーに結び付けずにはいられないだろう。この映画が展開する24時間が1942年のある日であることを知れば、ロシア人のソクーロフがなぜこの時間に映画を設定したかについても想像が及ぶ――42年の秋からのスターリングラード攻防戦は、第三帝国にとって最初の大敗となる。この前年からユダヤ人問題の"最終的解決"が始っており、だからヒトラーが「アウシュヴィッツ」という言葉にあえてとぼけてみせる姿には薄気味悪いユーモアが漂う。42年の5月には、ヒトラーの後継者と目され、件の"最終的解決"の立案者ハイドリヒがプラハで現地レジスタンスに暗殺された***。政権奪取、ラインラント進駐、オーストリア併合、ポーランドとフランス占領と、成功続きだったヒトラーの命運は、この42年を頂点に崩壊を始める。
だが"歴史"として我々が知っていたヒトラーと、ソクーロフの描くヒトラーの落差はなんだろう? 今まで老人や死に行く人、戦場の兵士たちを人間的な慈しみを込めて写し取ってきたのとよく似た、絵画的にボカされた作り込まれた画面と、水の音が漂い古ぼけたレコードのような音楽が響く精緻で有機的な音響空間に、今ヒトラーが写り、そのかなり悪趣味で、恐怖とコンプレックスの裏返しとしか思えない妄想狂的な言葉が響く。ソクーロフはあっけない一言でその目的を語る――「ヒトラーもまた人間であり、彼とエヴァとの間に起ったことはどんな人間にも起こりうることだ」と。ヒトラーとナチズムは決して天から降って来た災厄ではない、そこにもまた極めて人間的な理由があったのだと、ソクーロフは断言する。
ではその"人間的な理由"とは何なのか? それを読み説く鍵はソクーロフの70数年前に『MOLOCH』の文字を映画スクリーンに刻んだ男、フリッツ・ラングに求められるのではないか? とりわけその『M』と、ドクトル・マブゼ・シリーズの第二作『マブゼ博士の遺言』、ヒトラーが1933年に政権を取る直前に発表された2本の映画には、ラングならではの鋭い眼差しでナチズムの嵐の直前のドイツ=ヒトラーを"モレク神"にしてしまった社会が捉えられている。
『M』の主人公ハンス・ベルケット(ペーター・ローレ)とヒトラーの間には奇妙な符号がある。第一にその出身地、ペーター・ローレはハンガリー生まれのオ-ストリア人であり、ヒトラーもまたオーストリアのリンツ出身だ。訛りの極端なドイツ語では、その言葉の響きだけでも『M』の舞台でありヒトラーの表舞台になるベルリンとは違う。彼らは二人とも他者であり、そして二人とも背が低く、素顔のヒトラーの仕種がたぶんに女性じみていたと言われるのと同様、ローレの外観は見るからに子供っぽい。ラングの演出は彼をいっそう子供じみて見せ、彼の連続殺人の犠牲者となる子供たちとの関連性を見い出す。その彼を追い詰める男たちは、刑事ローマンの太った体躯にしても、ギャングのボス・シュレンカーのスマートながら頑強で革のコートを着た姿にしても、大人の男のそれだ。一方ヒトラーはいかにも男性的な黒い制服のSSにいつも自分を警護させていた。
『M』の舞台となる現代都市ベルリン****は、情報とイメージと官僚機構の命令体系によりすべてが進行する場所だ。子供のようにぽっちゃりしたベルケットの"実体"とはほとんど無関係に、"子供殺し"という言葉が新聞の号外で、その売り子の声で、街中に流通し、都市の住民たちの身体を通して反響し、増幅する。その殺人という情報は、メディア上のそれとして、映画の冒頭でベルケットの犠牲になる少女エルゼのアパートに届けられる大衆雑誌――いかにも無表情な声で「新しいセンセーショナルな殺人の話です」とエルゼの母に紹介される――や、懸賞金のポスターと一緒に貼られた映画や演劇やコンサートのポスターと同等のレベルに置かれる。この都市は連続殺人に怯えると同時に、その娯楽性に飢えた都市でもあるのだ。その恐怖と好奇心と欲望のないまぜになった民衆が、『M』のしるしを肩に背負った男の、その一人歩きを始めたイメージの虜になり、総動員大勢に入る。
一方で巨大化した現代社会には不可欠な官僚機構のシステムも『M』には描かれる。それは情報と命令系統によって稼動する社会システムであり、情報の分類に基づいている。警察の捜査ファイルや犯罪記録ファイル、ベルケットがギャングたちに捕まるビルで警備員が鳴らす自動警報装置の情報伝達、すべてがアルファベット順に分類され、整理され、機械的・事務的に処理される。それは公権力=警察だけではない。犯罪者たちもまた高度に組織化されており、乞食の組合組織までが映画に登場する。当時のベルリン市街で権力を握り、治安を維持さえしていたのは、こうしたギャング組織や右翼団体グループであり、ナチス党はその最大の組織だったという。そして乞食の組合すら実在していた――50年代に『M』のリメイクを持ち込まれたラングは、「ロサンゼルスには乞食の組織がないから無理だ」と断っている*****。総動員大勢に入る下地は最初からこの街に存在していたし、その原動力となる社会的なフラストレーションも存在していた。あと必要なのは引き金だけ――ベルケットの"もう一人の自分"がそれを引く。
人間としてのヒトラーを映画が(そして我々が)知ってしまったとき、『M』と『モレク神』は70年近い時空を超えて結びつく。分裂症患者で"もう一人の自分"に人格を支配されてしまって夢遊病のような状態で殺人を犯すベルケット、そして彼の"もう一人の自分"である連続殺人鬼のイメージの虜になる現代都市ベルリンと、ヒトラーが自分の人間的脆さを隠蔽するためにまとった神がかり的で夢遊病者的――彼はラインラント進出を決断したとき「私は夢遊病者のような精確さと確実さで、我が道を進む」と述べている――な天才指導者という"もう一人の自分"の、そのメディアによって増幅されたイメージに熱狂したベルリンの間には、意外なまでに大きな違いがないのだ。
そしてベルケットが"もう一人の自分"に破壊されるように、ヒトラーも"もう一人の自分"を信じ込もうとしてやがて分裂症になる。もちろんベルケットにとってそれが自分でも抑え切れないものであったのに対し、ヒトラーは自ら選んでその誇大妄想的な人格を演じたという違いはあり、だから彼らに対する我々の倫理的判断は180度違う。だがこの二人に対する個人的な判断をとりあえず置いておいて、そのいわば表裏一体の関係にある"事件"としての存在に対する社会的な運動性を考えた時、それは驚くほど似通ってはいないだろうか?
ラングは『M』に続いて、もう一人の分裂症的な犯罪者を描いている。マブゼ博士は『M』のベルケットのように邪悪なもう一人の自分を押さえられない(それ自体は善良だが)弱い人格ではなく、自ら世界の混乱と破壊を使命として選んだ人物だった。だがサイレント二部作の最初の『ドクトル・マブゼ』のラストで、マブゼは警察に追い詰められてなぜか発狂している。『M』と同じ現代都市ベルリンを舞台にした『マブゼ博士の遺言』――『M』でおなじみのローマン刑事も活躍する――で、マブゼは精神病院のなかにありながら、その命令はしかるべき命令系統に従って伝達される。マブゼ本人は映画の中盤で死ぬが、それでも命令は伝えられ続ける。マブゼの邪悪な人格はもはや人間としての実体を持たないイメージであり、脳から脳へ伝えられる情報なのだ。
『モレク神』によって人間ヒトラーの人格崩壊の端緒を認識して初めて、我々はマブゼ本人の人格がなぜ崩壊し、発狂したのかに気づく。ヒトラーのように、マブゼは自らの作り出した悪の人格のイメージに押し潰され、気がついたときにはその"もう一人の自分"に完全に乗っ取られてしまったのではないか? 悪そのものであるマブゼにとっては、正気の人間としての自分などは警察に検挙される恐れがあるだけ邪魔なだけだ。発狂して精神病院に入っていれば疑われる確率は少ないし、人間としての実体がなくなれば官憲に煩わされる心配などまったくなくなるはずだ。
ラングの遺作になった『千の眼』で、マブゼの亡霊は再び甦る。その本拠地がかつてナチスが建てた、全館テレビモニターで監視可能なホテルという設定が、マブゼの亡霊とヒトラーの亡霊を結び付ける。もちろんマブゼ映画はあくまでサスペンスものとしてのファンタジーであり、亡霊そのものの存在を現実世界に想定するのは馬鹿げているだろう。だがマブゼをメタファーとして考えたとき、その亡霊が次から次へと別の人間に、ある時は憑依し、あるときは個人的な崇拝として受け継がれて行くことの意味を考える時、我々は恐怖に駆られる。アドルフ・ヒトラーの肉体は、最後にやっと彼と結婚できたエヴァと共に、1945年にベルリンの地価防空壕で焼かれた。だが彼がエヴァと死んだからには、それは人間としての本当の彼――彼が懸命に隠そうとした弱く臆病で自信のない自分――であったに違いない。その人間くささを覆い隠すために彼が作り出し、ついにはそれに全人格を支配されるようになった"第三帝国総統アドルフ・ヒトラー"の亡霊は、マブゼのように今も世界を漂っているのかもしれない。だとしたらソクーロフが『モレク神』で人間ヒトラーを甦らせたことは、独裁者ヒトラーの亡霊を鎮め、世界をその呪縛から解き放つための儀式なのかも知れない。
Notes,
*『~遺言』と『~千の眼』の日本公開題名はともに『怪人マブゼ博士』だが、ここでは混乱を避けるために原題の直訳を用いた。
**オーストリア生まれのヒトラーにとって、プロイセン、北ドイツのベルリンは気詰まりな場所であったようだ。エヴァもまた南ドイツ・バイエルンの出身であり、彼女は通常バイエルン、オーヴァーザルツベルクの山荘に住んでいたのだが、その豊かな自然にあふれた環境は、二人にとっても心休まる場所だったのではないだろうか? ヒトラーがオーストリア生まれであることは、『M』との奇妙な符号の上でも重要なことだ。これは後で詳述するが、ちなみにフリッツ・ラングもオーストリア人。
***ラングの『死刑執行人もまた死す』の題材になった事件.
****『M』に表象されたものと、当時のヴァイマール共和国末期のドイツとの関連性についてのより詳細な論考については、BFI Film Classicsのシリーズの『M』(Anton Kaas著)を参照されたい。
*****ジョゼフ・ロージーが監督した映画では、タクシ-運転手のネットワークに置き換えられた。