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『クレーヴの奥方』

向き合うことと隣り合うこと : 『クレーヴの奥方』における切り返しの機能  御園生涼子


0.
 二人の人物が出会ったことを示すには、それぞれを写したショットを交互に並べればよい。それだけで、観客はこの二人の間に何らかの接点が生まれたことを理解するだろう。切り返しとは、実に単純で効果的な技法である。しかし、これはまた恐ろしいことではないだろうか? 視線が切り返された先の相手が、恋愛の対象として、あるいは生涯の敵として、その後の人生に大きな影響を及ぼすことになるかも知れないというのに、切り返しにおいて、出会いの決定的な瞬間は二人が切り離されたショットの合間に失われている。あるいは、「決定的な瞬間」など、存在しなかったのではないだろうか? 視線が行き交ったように「見える」というだけでは(実際、その視線の先にあったのはキャメラだったはずである)、それは「出会い」とはいえないのではないか。また、切り返しにおいて両者が同じ空間=ショットを共有することは稀であることを考えれば、二人の間にあるのは接触というよりは、埋めがたい断絶である。

1.
 オリヴェイラの『クレーヴの奥方』は、この「二人の人物の接触と断絶」という主題をめぐって展開される。ここで任意の二人の関係性は、簡潔な二つの方法によって提示される。すなわち、向かい合うか、あるいはただ並んで座っているか、である。まず、二人が向かい合う場面の典型的なかたちを見てみよう。映画の冒頭近く、主人公カトリーヌと彼女の夫となるクレーヴとの出会いの場面である。宝飾店で、クレーヴが店員と向かい合わせに座っている。ふと、彼は何かに気づいたかのように視線を背後に向ける。ショットが切り替わり、カトリーヌが母親とネックレスを選んでいる情景が映し出される。何度かクレーヴとカトリーヌの間を行き来するキャメラ。ここでのキャメラはクレーヴの視線を代行するものであり、その視線も一方的なものでしかない。しかし、カトリーヌがネックレスを当てて見せ、観客の視線が彼女に吸い寄せられたとき、彼女が目を上げる。ショットが切り替わり、キャメラはクレーヴのもとへ戻る。ここで彼をとらえるショットは同一視点から撮られたものであり、画角も変化しない。しかしショットの持つ意味は、物語を叙述する三人称的な視点から、カトリーヌの主観ショットへと変化している。再びショットがカトリーヌに切り返されるとき、キャメラは視線をそらす彼女をクローズアップで映し出す。ここでの視線の交錯は、一瞬出会ったかどうかの微妙なものだ。しかし、これだけで十分なのだ。「出会い」は完遂されたのであり、これに続くシークエンスにおいてクレーヴの求婚、二人の結婚がなんのディテールも伴わないまま語られても、観客はその簡潔さに驚きつつ当然のこととして受け入れる、もしくは受け入れざるを得ない。
 もう一つの二人の関係性のあり方は、二人並んで座るかたちで表される。この二つの関係の対照性は、例えば前述の場面に続く場面、クレーヴがカトリーヌに実際に紹介を受けるシークエンスによく表れている。この場面はまず、カトリーヌの母親とその友人がカトリーヌの結婚について語り合っているショットから始まる。カトリーヌの婚約者に話がおよぶと、ショットが切り替わり、カトリーヌと肩を並べて座る婚約者が映し出される。婚約者の青年は、カトリーヌの顔をうかがうように横を向いているのだが、彼女はまっすぐに正面をむいて取り合おうとしない。この無関心は、横並びになった劇場の座席の位置関係によるものであり、彼女の態度が冷淡なものであっても、その視線が婚約者へと注がれず、空中をさまよっていることはこの状況によって正当化されている。しかし、カトリーヌの母親が「娘は彼を愛してないわ。彼は幼すぎるのね」という通り、隣り合わせの関係は友愛以上のものをあらわすことは無い。彼らは同じ空間=ショットを共有しているが、向かい合って視線を交わすことは出来ないのである。このあと、隣り合わせに座った婚約者は、カトリーヌの正面にやってきたクレーヴにまんまと彼女を奪われてしまう。
 ここでの隣り合わせの平行関係と、切り返しによって向かい合う垂直関係は、劇場という舞台装置によって一層鮮やかな対比を見せている。すなわち、母親―友人、カトリーヌ―婚約者という平行関係は、その他大勢の観客が同じ姿勢を強いられていることでさらに強調されている。彼らは舞台にむかって前向きに座らざるを得ないのであり、そこでの視線は舞台に注がれる一方的なものである。この視線の不均衡は、舞台上の演奏者への欲望が介在する分だけいっそう強まっている。そしてこの状況が前提条件として置かれたことによって、クレーヴとカトリーヌの視線の切り返しは、平行関係を崩す垂直の運動として強度を持ちうるのだ。

2.
 しかし、視線を交えることによって、ほんとうに二人は「出会って」いると言えるのだろうか? 彼の視線の先にいるのが彼女だと確信できるだろうか。アップで切り取られた彼、もしくは彼女の顔は、その主観性が高まれば高まるほど、周囲の舞台装置からは切り離される。もはや二つのショットは、視線が作るイマジナリーラインによってしかつながれていない。しかし、これはいかにも弱々しい絆である。視線が対象を見ている、そのことによって対象を「捉えている」ということなど、不可能なのだから。ここでわたしたちは、ラカンの目と眼差しに関する有名なテーゼを思い出さなくてはならない。「最初から我われは、目と眼差しの弁証法にはいかなる一致もなく、本質的にルアーしかないということに気づいていました。愛において、私が眼差しを要求するとき本質的に満たされずつねに欠如しているもの、それは「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」ということです注1。」
 眼差しには欲望が刻まれている。フロイトが『性に関する三つの論文』で示したように、そこには対象への愛、セクシュアルな欲望が含まれている。フロイトは子供の窃視症的行為を例に取りつつ、視覚快楽嗜好(スコポフォリア)がセクシュアリティ本能の一構成素を成すことを説明している。しかし、眼差しとはそもそも不均衡なものだ。私達は対象に眼差しを注ぐとき、対象からの見返しを期待する。メルロ=ポンティであればそこに、見ることによって対象を存在させ、また対象において見る主体が存在を定立するといった、知覚と存在をめぐる交叉関係を見出すだろう。しかし『精神分析の四基本概念』において、ラカンがメルロ=ポンティに言及しつつ提示するのは、これとは正反対の知覚モデルだ。すなわち眼差しの先にあるものは、対象の〈不在〉に他ならない、というテーゼである。
 「窃視症で起こっているのはどんなことでしょうか。窃視者の行為の際に主体はどこに、そして対象はどこにいるのでしょう。申し上げたとおり、見るということが問題になっているかぎり、というより欲動の水準において見るということが問題になっている限り、そこには主体はいないのです。(・・・)ここでは、視る欲動について語られるときにつきものの曖昧さがはっきりと捉えられます。眼差しこそ、あの失われた対象です。そしてこの失われた対象は、他者の導入によって、恥ずかしさによる動転という形で突然再発見されます。そこに至るまでの間、主体は何を見ようとしているのでしょうか。よくお聞きください、主体が見ようとしているのは不在としての対象です注2。」
 ここで言われている、「失われた対象としての眼差し」とは何を意味するのだろうか。ラカンのよれば、眼差しはそれ自身のなかに対象「a」を含み持っている注3。対象「a」とは、ラカンの定式において欠如の象徴を表す記号である。たとえば口唇期においてはそれは乳房となり、肛門期においては排泄の等価物となる。対象「a」は、欲望の中心にある欠如の代理作用をするが、その一方で欲望の対象が永遠に失われていること、その「不在」を常に指し示すのである。したがってラカンのいう「眼差し」と、身体的器官としての肉眼を同一視することはできない。ラカンは例として、動物における擬態、とりわけ昆虫などにみられる眼状斑を引き合いに出している。目の機能を思わせるこの模様は、しかしただのシミでしかない。それにも関わらず、このシミはそれを見る主体に「見られている」という感覚を呼び起こす。つまり、わたしたちは目の機能としての「知覚すること」ではなく、眼差しそのものを欲望し、また同時に掻き立てるのであるが、その交錯の基底には対象の不在が横たわっているのである。
 こうした「対象aとしての眼差し」の一例として、カトリーヌとアブルニョーザの出会いの場面は恰好のものである。ここでも舞台は劇場であり、出会いは簡潔な切り返しによって表現される。アブルニョーザは歌手として、不特定多数の視線を受け止める側にいる。彼を見つめるカトリーヌの眼差しもまた、舞台上の彼を見つめる視線として正当化されるものであり、そこには不貞の色は全く含まれていない。しかし、ただ観客の波のなかから彼女の顔だけがアップで浮き上がってくるだけで、また、アブルニョーザの顔もそれに歩を合わせてクローズアップされてくるだけで、二人が「出会った」のだということが了解される。しかし、両者の視線は本当に相手へと届いていたのか怪しいものだ。アブルニョーザはサングラスをかけていたため、彼の視線がどこへ向けられているのかは実際に見ることができない。彼の眼差しはカトリーヌの(そして観客の)視野に現われた「シミ」のようなものであり、あたかも目の擬態であるかのように、視線の欲望を掻き立てはするが、決して眼差しを交叉させることはない。
 このように見るという行為は、対象それ自身が現前することを必ずしも必要としない。実際、二人の恋愛は、常に片方の一方的な視線によって進展し、写真やテレビ画面といった、メディア映像を通じて育まれる。カトリーヌがアブルニョーザの想いに気づくのは、彼が彼女の写真をポケットに滑り込ませるのを偶然のぞき見てしまうからであるし、カトリーヌが周囲にアブルニョーザへの想いを感づかれるという危機は、テレビニュースでアブルニョーザの事故が報じられた時に訪れる。カトリーヌがアブルニョーザとほんの一瞬すれ違い、視線を合わせるのは、彼の写真展を訪れた時であるが、彼の写真を丹念に眺めてゆくにも関わらず、本人を目の前にした彼女は、ろくに言葉も交わさないまま足早に立ち去ってしまうのだ。また、この作品においてたびたび挿入される彫像や絵画と人物との切り返しを考えてみても良いだろう。例えばカトリーヌの母親の葬儀の場面において、アブルニョーザと嘆き悲しむ女性の彫像の顔とが切り返されている。両者の全身ショットから次第に顔のクローズアップへと寄っていくプロセスは普通の人物間の切り返しと変わらないが、これほど不可解なことはないのではないか。見えていない石の目と、サングラスで覆われた目とが、どうやって視線を交わすというのだろう? アニミズムにも似たこのような関係を、メルロ=ポンティは偏在視を付与された絶対的存在と「世界の中で見られるものとしての私」との関係としてとらえた。しかしラカンによれば、そこで交わされている視線こそが「失われた対象」、すなわち対象「a」としての眼差しなのである。

3.
視線の向けられた先にブラックホールのように開いた「不在」の空間。しかし、これはなにも切り返しに限らず、映画内存在をおびやかす危機として、映画表現にいつも付きまとう裂け目のようなものではないだろうか。ここでもう一つの理論的手がかりとして、ジャン=ピエール・ウダールの「縫合」という概念を取上げてみたい。「縫合」とはもともと、ジャック=アラン・ミレールがラカンのセミネールにおいて提出した概念である注4。ミレールはここでフレーゲの数の理論を援用しつつ、主体が象徴界に参入してゆくプロセスを説明している。すなわち、算術におけるゼロ記号の導入=「無」の概念化が数全体の概念を成立させているのと同様に、主体はその存在の条件として、対象の根源的な「不在」を抱え持っている。彼もしくは彼女は、この「不在」を代理のシニフィアンによって想像的に補充することによって、シニフィアンの連鎖に参入し、自らの存在を紡いでゆく。存在の根源に不在がある(従って語義通りの「根源」は存在しえない)とするこのアイロニーを、ウダールは映画表現の次元に置き換える。「映画境域のすべてがキャメラによってとらえられて画面内に定着され、(ときとして固定ショットによってさえ)奥行きの方向であらゆる対象があらわにされるが、これにこだまを返すように存在しているもうひとつの境域、いわば第四の側面と、その側面に由来する不在が隠されているのである。(…)したがって、映画境域のすべてに不在の境域が対応するのであり、この不在の境域は、観客の想像世界ゆえにそこに措定されたある人物―われわれは彼を〈不在者〉と呼ぶことにする―の場所なのである。そして、映画的境域=画面の中のあらゆる対象は、解読中のある瞬間に、すべてそうした者の不在を意味するものとして提起されることになるのだ注5。」
 「縫合」と題されたこの論文においてウダールは、映画様式としての縫合を発明した作家として、ブレッソンの名前を挙げる。本質的にはすべての映画的言表に共通したプロセスであるはずの「縫合」を一人の映画作家の作品に還元するウダールの論には無理があるが、彼が典型的な例として挙げる『ジャンヌ・ダルク裁判』の分析は注目する価値があるだろう。そこで問題とされているのは、まさに切り返しの技法なのである。「ここにおいて、われわれは縫合の問題に行き着く。(…)すなわち、画面=逆画面によって連接された映画的言表の枠内においては、ある誰か(〈不在者〉)というかたちでの欠如の出現に続き、そのある誰かの境域のなかにいる誰か(または何か)によりそうした欠如が廃棄されるという点である。(…)つまり、〈不在〉の境域(画面外)は、不在と現前という二つの境域によって構成される映画作品上の場において、想像力によってつくられる境域となる。また、意味するものは、この境域においてこだまに出くわし、映画的境域=画面にあとから根をおろす注6。」
 『ジャンヌ・ダルク裁判』の切り返しにおいて、ジャンヌの現前=ショットは「彼女と向き合う誰か」を指し示す。その「欠如」に呼び込まれるように第二ショットではその「誰か」が現われ、欠如を埋めるのだが、ここで大事なのは、第一ショットにおいてジャンヌが現われたとき、その「誰か」はまったく決定されていないということだ。つまり、ジャンヌは「ゼロ」の空間と向き合っているのであり、しかも彼女の存在は、その「ゼロ」の場所に誰かが現われることによって「遡及的に」措定される。切り返しが視線と分かちがたく結びついていることと、眼差しの向かう先が「不在者の空間」であるということは奇妙に一致している。「不在」の他者へと向けられた眼差しは、主体の存在を支えると同時に脅かすのだ。切り返しが映画においていつも決定的な瞬間をもたらすのは、これが眼差しの機能の原型をなぞるものであり、目と眼差しの分裂をくっきりと浮かび上がらせるからではないだろうか。眼差しはしきりに対象を欲するのだが、その欲望はいつも対象の欠如に吸い込まれてしまう。視線によって他者と出会うということは、すでにその喪失を意味しているのであり、接触の中には断絶が書き込まれているのである。

4.
このように切り返しの技法においては、視線の主体は「不在」の対象と、あるいは対象が「不在」であるからこそ、強い関係を結びうる。これに対し、隣り合う関係は一つの固定ショットで撮影され、安定した関係性を指し示す。二人の人物はソファや長椅子、ベンチなどに肩を並べて腰掛け、また多くの場合語りあっている。これがこの映画の奇妙さを増している点なのであるが、二人で話し合うために登場人物たちは顔を互いにそむけるように同じ方向を向いて座り、反対に二人が正面から向かい合うとき、言葉は多くは交わされないのだ。例えばカトリーヌと並んで公園のベンチに座るクレーヴが、彼女を問い詰める場面。二人の会話は、彼らを同時にとらえた固定ショットと切り返しによって進行する。一方アブルニョーザは、彼らと垣根を挟んで反対側背中合わせに座り、夫婦のショットとの切り返しによって提示される。二対一の三角関係の中で疎外されているかのように見えるアブルニョーザだが、切り返しが常に二者間の強い紐帯をあらわすこの映画の構造においては、三者の関係はより複雑なものとなる。一つの空間を共有しているクレーヴとカトリーヌであるが、彼らはほとんど眼を合わせることがない。カトリーヌの不貞を追求するクレーヴに対し、カトリーヌは視線をそらしつつ伏せ目がちに対応する。一方で切り離された空間に属する他者=アブルニョーザは、真正面から切り返される。カトリーヌから向き合うことを拒否されたクレーヴは、やがて衰弱して死んでしまうだろう。
 垂直と平行、この二つの関係性の対比は、映画の終わり近く、カトリーヌとアブルニョーザが公園で偶然出会う場面において、クライマックスを迎える。まず第一ショットにおいて、リュクサンブール公園沿いの道を歩くカトリーヌは、横の平行移動でとらえられる。しかし、彼女が公園の入り口で立ち止まり、視線の先にアブルニョーザを発見する瞬間、垂直方向の切り返しが行われる。アブルニョーザもまたカトリーヌに気付く。この後、キャメラは逃げるカトリーヌを追ってもと来た道を戻るかのように平行移動を始めるのだが、この移動撮影は、同じく横移動(逆方向の)で彼女を追いかけるアブルニョーザをとらえたショットと切り返される。平行移動と垂直運動が競り合うかのように共存するこのシークエンスは、向かい合うことと横に並ぶこととの対極的な関係をもっともあざやかに表している。カトリーヌを平行運動によって追いかけるアブルニョーザは、柵を越えて、彼女と横に並ぶ関係を結ぼうとしているといえる。しかし、彼が横に向って走れば走るほど、彼女との距離は広がってしまう。しかし、その実際上の距離の広がりを無化するように、垂直の切り返しはカトリーヌとアブルニョーザを結び付けてしまうのだ注7。
 しかし、なぜ語り合うために人々は隣り合わせに並ぶのだろうか? 考えられる理由の一つは、映画の会話場面における古典的な表現をオリヴェイラが忌避したということだ。ここで、切り返しは出会いの場面だけでなく、会話場面においても多用される表現であることを思い出すべきである。決定的な違いは、会話の連続性である。古典的な方法においては、たとえば人物Aと人物Bの台詞ごとに、二人の顔が切り返される。ここでの彼らの言葉は、映画文法上は相手に届くことになっている。しかし、すでに見てきたように、切り返しによってつながれた空間のあいだにあるのは断絶でしかないはずだ。向かい合って会話しているにも関わらず、彼らの会話はモノローグを重ねたものと大差ない。オリヴェイラが嫌ったのは、この「独語による会話」という欺瞞ではなかっただろうか。
 人々は語り合うために隣り合わせに座る、しかしその言葉はそもそも誰に向けられているのか。会話の自然さを全く欠いたダイアローグは、映画内で発せられる言葉が、物語の虚構内対話者に向けられていると同時に、私達観客にも向けられているという言表作用の二重性を常に想起させる。実際、直接的に説明的なこれらのダイアローグと要所々に挟まれる字幕画面と、言表機能の点においてどれほどの違いがあるだろうか? したがって、このように考えることができるだろう。ダイアローグの切り返しにおいて発せられる言葉は、そこでの眼差しと同様「不在者の空間」=観客のいる場所へと吐き出されている。そして、その欠如を埋めるために現われる対話者の現前=ショットはこの隠されたベクトルを隠蔽するのである。『クレーヴの奥方』において平行に並んだ二人の会話が私達を戸惑わせるのは、彼らの言葉がしばしばこの「不在者の場所」を明るみに出してしまうからではないだろうか。
 『クレーヴの奥方』におけるこうしたダイアローグの特殊性を端的に表すのが、ラストに読まれるカトリーヌからの手紙である。手紙の受け取り手である尼僧は、部屋の中で一人きりで手紙を読んでいる。手紙は、距離の離れた相手へ届かせる言葉である。彼女の言葉は、どこへ届いているのだろうか? カトリーヌの言葉を、読み上げることで代行する尼僧。彼女の言葉を聞く私達は、二人の間に交わされる私的な言葉を盗み聞きしているのだ。
 しかしこの盗み聞きの構造は、実は二人が顔を合わせて会話をする場面においてすでに潜在的に存在している。カトリーヌはたびたび修道院に幼なじみの彼女を訪ねては、アブルニョーザへの想いを語る。二人きりの部屋で語られるそれは、つまり告解の行為であるわけだ。尼僧の役割は、告白を聞くことである。告解の相手は見えなくとも構わない(しかし、常に一対一でなくてはならない)。カトリーヌは、いわばゼロの存在に対して言葉を向けているのだ。彼女の告白を聞く尼僧は、ゼロの代行者である。カトリーヌの説明的な感情吐露の台詞は、形としては尼僧に向けられてはいるが、言表作用としては尼僧に寄り添う形でその言葉を聞いている観客に向けられていることは明らかだ。尼僧とカトリーヌとの切り返しは、観客とカトリーヌの切り返しを偽装するものであり、ここには三角形に偽装された一対一関係が隠されている。カトリーヌは第4の側面=不在の空間=観客の場所に向かって語りかける。それを偽装するために置かれているのが、聖職者であるということはいかにも相応しいのではなかろうか。
 「不在者の空間」を隠蔽するこうした偽装のシステムは、ラストの手紙のシーンにおいてあからさまに露呈される。カトリーヌから観客へのメッセージ伝達の媒介者として存在してきた尼僧は、カトリーヌの手紙を読むことによって、つまり手紙というメディアにその身体を重ね合わせることによって、一層透明なメディアとしてスクリーン上に登場する。このプロセスによって、本来の手紙の受領者である観客の存在が暴露されるのだ。尼僧が時折手紙から顔を上げる。その目は軽く伏せられているが、ミドルショットからクローズアップへと移行するショット連鎖は、まさに切り返しのものではないか。ここでの尼僧は、カトリーヌの声を代弁することによって、告解の身振りをもなぞっているかのようだ。不在者の空間に眼差しを向け、声を発すること。この行為は映画説話構造の閉じたシステムに穴を開ける。しかし、それはパロディやブレヒト的な異化作用に基づくものではない。システムの割れた穴からのぞくものは、啓蒙的な光ではなく、私達の視線を吸い込む「欠如」という暗闇なのである。


注1 Jacques Lacan, Le Séminaire, livreⅩⅠ, Les quatre concepts fondamentaux de psychanalyse, Paris, Seuil, 1973(ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』135頁、ジャック=アラン・ミレール編 小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳 岩波書店 2000年)


注2 ラカン、同掲書、241-242頁


注3 ラカン、同掲書、101頁「眼差しはそれ自身の中にラカン代数式でいう対象「a」を含み持つことができます。そして、主体はそこに落ちにやって来るのです。視の領野の特徴をなし、この領野に固有の満足を生ぜしめるのは、構造上の理由から主体の落下がいつも気づかれずにいる、という事実です。」


注4 Jacques-Alain Miller,“La suture”, Cahiers pour l’analyse, n.1, 1966


注5 Jean-Pierre Oudart,“La suture ”, Cahiers du cinéma, n.211-212, 1969(ジャン=ピエール・ウダール「縫合」15頁、谷昌親訳 『「新」映画理論集成 (2)知覚/表象/読解』所収 フィルムアート社 1999年)


注6 ウダール、同論文、17頁 ウダールのここでの分析が、切り返しを鏡像段階における鏡のようなものとして分析していることにも注目するべきだろう(鏡もまた、切り返しが多用されるモチーフである)。


注7 このシークエンスの重要性を証明するかのように、引き続いてこの映画において最後かつもっとも直接的な二人の切り返しのシークエンスが描かれる。これもまた、カトリーヌの家の向かいにアブルニョーザが越してきたという信じがたい設定によるものであるが、窓越しの切り返しは、街路を隔てた二人の距離を無化する。