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『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』

「微笑み」という新たな契約   廣瀬純
 『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』 監督:青山真治


新約聖書・福音書を読んでいてもっともスリリングなことのひとつは、現勢的な出来事(「肉」のレヴェルでの出来事)を記述していくテクストとしての福音書のただなかに、もともと潜勢的な出来事(純然たる「言葉」のレヴェルでの出来事)を記述したテクストとしての旧約聖書からの様々な断片が、ときとして、いわば強引に引用されているという点にある。福音書が描き出そうと試みるのは、旧約聖書で描かれていた純然たる「言葉」のレヴェルでの一連の出来事が「肉」のレヴェルでそのまま《再現=表象》されるその様子(すなわち「言葉」の「受肉」)であり、この意味において、本来であれば、旧約聖書からの断片は福音書というテクストと同質のテクスチュアリティをもって滑らかに引用されなければならないはずなのであるが、実際には、必ずしもそうでない箇所が多々あり、このことがむしろ、おそらくはその本来の意図に反して、福音書というテクストに恐るべき強度を与えている。「受肉」とはまさに「解けない問いを生きる」ことなのであり、潜勢的な出来事とその現勢化とは必ずしも同じものではないのである。
マタイによる福音書及びマルコによる福音書において、十字架にかけられたイエスの最期の言葉だとして示される「エリ エリ レマ サバクタニ」もまた旧約聖書・詩編からの引用であるが、ギリシア語で書かれた福音書のなかにヘブライ語のままで直接引用されていること(マルコによる福音書では、正確には、「エロイ エロイ ラマ サバクタニ」とヘブライ語ではなくアラム語で記述されている)からもはっきりと感じ取られるように、イエスの最期をめぐるこのパッセージは、潜勢的な世界の記述からの断片が現勢的な世界の記述のただなかでそのテクスチュアリティの異質性を呈する極めて緊張感のある瞬間となっている。福音書における「エリ エリ レマ サバクタニ」の異質性は、ヘブライ語でそのまま引用されているという言語のレヴェルだけにとどまるものではなく、物語のレヴェルにおいてもまさに異質性そのものとしてその効果を及ぼしている。

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三時ごろ、イエスは大声を出して"エリ エリ レマ サバクタニ!"と叫ばれた。これは"わたしの神様、わたしの神様、なぜ、わたしをお見捨てになりましたか!"である。そこに立っていた人たちのうちにはこれを聞いて、「あの人はエリヤを呼んでいるのだ」と言った者が何人かあった。エリをエリヤと聞きちがえたらしい。そのうちの一人がすぐ駆けていって、海綿をとり、"酸っぱい葡萄酒を"ふくませ、葦の棒の先につけて、イエスに"飲ませようとした。"しかしお受けにならなかった。「もう少し生かしておいて、エリヤが救いに来るかどうか、見ていよう」とほかの人々が言った。しかしイエスはふたたび大声で叫ばれると共に、息が切れた(マタイによる福音書 27:46-50)。

死を前にしていきなりその明確な意味が判然としない言語を発するイエスを前にした人々の--パゾリーニの一場面を思い出させもするような--この反応は笑いを誘うものですらあるが、まさに笑いを誘発するこの《喜劇性》にこそ、福音書のただならぬ強度を感じ取らねばならない。潜勢的な「言葉」が現勢的な「肉」と出会い、前者が後者のただなかでその不可能な顕現を果す瞬間というものは、つねにその不可能性そのものが露呈する瞬間でもある。テクスチュアリティを絶対的に異にする「言葉」と「肉」とのあいだのぎくしゃくとした擦れ合いの運動が、「言葉」を「言葉」として、「肉」を「肉」として改めて再分配するのであり、また、崇高な「言葉」とその高みに到底及ばない凡庸な「肉」(この「肉」のうちには《肉声》も含まれる)とのあいだの埋め難いこの間隙にこそ、大いなる笑いを誘発する《喜劇的》起爆力のすべてが含まれているのである。このようにして、「受肉」の物語というものはつねに《喜劇》なのである。
『EUREKA』がエドガー・アラン・ポーの同題詩の明け透けにして密やかな翻案であったのと同様に、『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』もまた「マタイによる福音書」の明け透けにして密やかな翻案である。その一般公開までにはまだ時間のあるこの作品の内容に立ち入らないよう配慮しつつ控え目に述べておけば、例えば、とりわけ『EUREKA』のようなこれまでの青山作品の場合とは異なり、『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』の主人公たちが終始一貫して《微笑み》を絶やさないのは、この作品が《喜劇》としての「マタイによる福音書」のまさにその《喜劇性》そのものを映画化したものだからである(しかし、これまでの青山作品もまた、たとえ登場人物の多くが真面目な顔をしていたにしても、それでもなお、優れて《喜劇》だったのではないだろうか。カメラに背を向けた登場人物たちの顔には『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』の主人公たちと同じような《微笑み》が浮かんでいたのではないだろうか?)。『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』は、「マタイによる福音書」において記述されていた「言葉」の崇高さと「肉」の凡庸さとの互いに齟齬をきたすあの喜劇的な連動を、オーディオ‐ヴィジュアル装置としての映画によって再駆動させる。そして、まさにこのことによって、『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』もまた、その中心に《微笑み》という要素が新たに導入されているとは言え、これまでのすべての青山作品と同様に「カオスの縁」を探究する作品となっているのである。
『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』において、「カオスの縁」は、激しく燃え上がる炎のように崇高なオーディオと、ひたすら繰り替えされる波の大きなうねりのように凡庸なヴィジュアル(いうまでもなく、その《凡庸さ》は、これまでの青山映画と同様に、あくまでも《意図された》凡庸さである)とのあいだにこそ、立ち上がる。白い炎と黒い波とのあいだに「埋められた微笑み」の、そのサファイヤのような静かな青い輝きを、陽光によって緑色に照らし出された広大な空間へと繊細かつ大胆に解き放つ色彩主義的ラディカリズム、あるいは、「カオスの縁」という一陣の風が--スコリモフスキの一場面のように--草原全体に荒々しくも細やかに吹き付ける様子をとらえきる分子動力学、要するに、ジョーカーの「Smilex」とはまったく異なるやり方で《微笑み》を世界中の人々に「伝染」させてしまうようなまさに《福音》的な試み、それが『Eli, Eli, Lema Sabachthani?』という作品なのである。■