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『月の砂漠』

Welcome to the Desert of the Chaos 『月の砂漠』への誘い   廣瀬純


 『EUREKA』は登場人物の「顔」をとらえる作品であった。それ以前の作品の多くは、これとは反対に、登場人物たちは、むしろ、彼らの「背中」をカメラに晒していた。この「顔」と「背中」の対比は、すべての青山作品においてつねに賭け金となっているひとつの深い問題に対応していた。すなわち、「カオスの縁」に立つ登場人物はどうしたら撮影可能なのかという問題である。登場人物の「顔」が撮影されるのは、カメラが「カオス」を背にしておかれ、その「縁」へと接近してくる登場人物を正面からとらえるからである。反対に、登場人物の「背中」が撮影されるのは、カメラが、「カオス」のほうへと進みゆく登場人物の背後におかれていたからである。しかし、実を言えば、本当の意味で「カオスの縁」を撮影するためには、カメラはつねに登場人物たちの「顔」をとらえるものでなけれなばらないのではないか。青山真治が『EUREKA』によって発見したことは、端的に言って、そのことだった。なぜか。なぜなら、登場人物の「背中」をとらえるカメラは、登場人物の「背中」越しに「カオス」そのものをとらえてしまうからである。反対に、登場人物の「顔」をとらえるカメラは、自らのほうへ向かってくる登場人物の前進とともにつねに後退し、そのことによって、登場人物をつねに「カオスの縁」においてとらえることに成功する。要するに、登場人物の「背中」をとらえるカメラは、そのフレームの奥に「カオス」の「顔」をとらえてしまうものであり、反対に、登場人物の「顔」をとらえるカメラは、つねに「カオス」に背を向けているということである。

 カメラが(登場人物とともに)そこへ向かう場としての「カオス」と、つねにカメラの背後に存する場としての「カオス」。この対比は、たんにカメラと「カオス」の空間的配置といった問題にとどまるものではなく、「カオス」の存在論的トポロジーの問題でもある。向かうべき場としての「カオス」は、すべてがそこへと収斂するような統合的な《一者》であるほかはない。すなわち、この限りでの「カオス」は、諸々の差異を自らのもとに統合し均一化してしまう《一者》のようなものとして出現することが避けられないということである。反対に、「カオス」が背後におかれるとき、それはもはや、そこへと収斂する終着点ではなく、むしろ、そこからすべてのものが始まるような出発点となる。この場合も、「カオス」が《一者》であることには変わりはないが、しかし、それは終着点としての《一者》ではもはやなく、そこから差異が分化していくような出発点としての《一者》なのであり、また、この《一者》は、それとして出現することのないものである。

 青山が絶えず問題にしている「カオスの縁」とは、生きられる瞬間のことであり、生きられる瞬間の真実のことである。生きられる瞬間とは、出発点としての《一者》からの差異の分化運動の時間のことであり、この分化の絶えざる運動を生きることこそが「カオスの縁」に立つということなのである。「カオス」そのものは《超越論的なもの》である(ただし、それとして目に見えるものとなる場合には、むしろ、《超越的なもの》となってしまう)が、「カオスの縁」は、この《超越論的なもの》が経験のなかに絶えず侵入してくるような場、ひとつの戦場である。したがって、「カオスの縁」とは、そこへと絶えず向かう場であると同時に、そこを絶えず後にしなければならないような二重の場のことでもある。『EUREKA』における登場人物の「顔」をとらえるカメラは、まさにこの意味において「カオスの縁」に立つ登場人物をとらえていたのだ。反対に、登場人物の「背中」をとらえるカメラは、諸差異が終着点としての「カオス」の「顔」へと吸い込まれていく運動であり、この意味で「カオスの縁」を必然的にとらえ損なっていたと言わざるを得ない。というのも、そこで問題となっていたのは、「カオス」ならざる空間を踏破し、ある瞬間に一気に「カオス」そのものと手を結ぶこと、あるいは一気に「カオス」の「顔」に優しく迎え入れられることだったからであり、そこには《超越論的なもの》と《経験的なもの》との駆け引きの場としての「カオスの縁」はなく、あるのは、純然たる《経験的なもの》と純然たる《超越的なもの》だけだったのだ。

 『月の砂漠』という作品は、登場人物の「背中」をとらえながら、それでもなお、終着点あるいは《超越的なもの》としての「カオス」ではなく、あくまでも出発点としての「カオス」を問題にしようとする試みである。すなわち、『月の砂漠』は、「カオスの縁」に立つ登場人物たちの「背中」をとらえる試みである。カメラが登場人物たちの「背中」越しに必然的にとらえてしまうあろう「カオス」は、それでもなお、純然たる「カオス」であってはならない。純然たる「カオス」という「幻想」は解体されなければならず、仮に純然たる「カオス」とみまごうばかりの終着点らしきものが目に見えるかたちであったとしても、それが終着点であっては断じてならない。反対に、それは、絶えず新たな諸差異の分化運動のための出発点とならなければならず、あるいはむしろ、それは純然たる出発点であることすらも是が非でも避けなければならず、その場所はつねにすでに出発している状態、すなわち、《経験的なもの》に感染している状態になければならない。そのために、青山真治は、登場人物の「背中」をとらえた『EUREKA』以前の諸作品にはなかったような幾つかの新たなファクターを導入している。ひとつは、登場人物をこの《偽の終着点》へと誘うイアーゴの存在であり、もうひとつは、この《偽の終着点》における登場人物たちの長時間の滞在とそこにおけるドラマ化の運動である。イアーゴは登場人物に囁き続けることで「カオスの縁」に立つことを忘れた登場人物たちを触発し続けるのであり、また、登場人物たちは《偽の終着点》で時間にさらされることによって、分化運動を生きることを実践的かつ強制的に学び直すことになる。

 『月の砂漠』には、公現のときは訪れない。純然たる「カオス」の「顔」が公現する奇跡の瞬間は訪れない。「カオス」の「顔」のまったき公現を《経験的なもの》の外に想定することこそ、青山が『月の砂漠』において、資本主義の最たる「幻想」として退けるものなのだ。マックス・ヴェーバーとは全く別の意味で、そこでは、「資本主義の精神」と宗教との補完関係が問われている。要するに、「月の砂漠」の上に立つ人々の「背中」越しにとらえられる「カオス」は、それ自体、つねにすでに「背中」を向けているということである。