
改めて、映画と音楽の関係にまつわる議論のために 青山真治
鈴木さん、どうも。普段はとりあえず反論に対しては目もくれないことにしている私ですが、今回は才能ある現代音楽作曲家からのきわめて論旨のしっかりした実践的反論、これを捨て置くにはいかにも失礼だし、あるいはここからさらなる議論を得る事も可能かと考え、御返事を出させて頂くこととしました。
しかし不躾なる突然の批判、驚かれたことでしょう。失礼しました。健康上の理由からこのサイトの主宰者である樋口泰人氏と立ち上げの頃に話し合い、ともあれ無差別に批判・擁護を展開し、そこから現れる議論と倫理を立ち上げることにしよう、何しろさして歴史のない海のものとも山のものともわからぬインターネット、そこで早くも出来あがりつつある暗黙の了解や制度の内部でなどまっとうな議論も何も不可能だろう、第一、いちいち云いたい事を我慢するなら紙媒体で普段窮屈にやっていることと何の変わりがあろうか、ならばさっさと云いたいことは云ってしまった方が精神的にも楽だし、謝るべき時は謝ればよろしい、と多寡を括って始めたことですんで。その辺のこと、もし賛同していただければ幸いですが。
さて、鈴木さんの御反論、いちいちごもっともであり、それらの思考は言わずもがなな感じで私には了解できます。そして私もまた、同一の批判を基盤として、あれらの批判を試行した者です。私の批判は、以下のように書かれました。
しかし鈴木君には悪いが、あの音楽はひどいと思う。何か思い悩むことがあったの
だろうか。前回のような現代音楽版暴力温泉芸者の道を極めてくれればよかったの
に。あれじゃあろくでもないヨーロッパ映画のそれにしか聞こえない。
長い間会ってない相手に対してにしてはずいぶん失礼な文章ですね。申し訳ない。ほとんどタッチ・アンド・ゴーで書いてるものですから。「何か思い悩むことがあったのだろうか。」なんて、ほんとに大きなお世話だ。しかし、当然お気づきだとは思いますが、この中に「ノイズ」もしくは「ノイジー」という言葉はひとつも出てこない。当然です。私は『M/other』の音楽はもちろん、「暴力温泉芸者」の音楽をほとんど一度たりとも「ノイズ」もしくは「ノイジー」と感じたこともなければ、酒の席の仮の言葉として以外で表現したこともないのですから。鈴木さんの反論は、この「ノイズ」の「アヴァンギャルド性」と『H-story』の音楽の「保守的」な「叙情的メロディ」の対立を前提とされておられる。その時点で、それは私への反論とはなりえないのではないでしょうか。つまり、私は『H-story』の音楽を「保守的」で「叙情的メロディ」だから批判したのではなく、また『M/other』の音楽を「ノイジー」で「アヴァンギャルド」っぽいから擁護したつもりももちろんありません。そんなことはどうでもいい。所詮適当な言葉の表現に過ぎない。しかし映画や音楽は、ある程度まで精密な言語表現を必要としても、それそのものを言い表す言葉などない、という前提からしか存在しえるはずはないではありませんか。そのために私にしろ鈴木さんにしろ何か作ってるわけでしょう。そんな軽々しい真似は、いくら軽薄な私でも致しません。
で、鈴木さんが反論の中で問題にされている映画と音楽の「関係性」、まさにこれのために私の批判もまた開始されたのです。私は『M/other』という映画の主題とそこに付与された音楽の「関係」を、好き嫌いは別にして、非常に正しいものだと考えています。あれは王道でした。つまりあれよりセンスよく、主題とのバランスを取り、邪魔もしない音楽はなかっただろう、と考えるのです。いくぶんか説明的であったとしても、それこそまさに王道たる所以でこそあれ、決してその名を汚すものではないはずだ。
「暴力温泉芸者」こと中原昌也氏の音楽も、多少似たところがありはしないでしょうか。つまりいくらか露悪趣味的には聞こえてもセンスはすこぶるよく、そしてバランスも取れている、ある一貫性を持った作品としてのアルバムの成立を決して邪魔するものではない、それが私の「暴力温泉芸者」感です。きわめて冷静であって、稚拙ささえ計算されているとしか思えない王道ぶり。私にとって「暴力温泉芸者」とは、かつて最新鋭だった王道な音楽形態であったわけです。まあすでに小説家として王道を歩み始めておられる中原氏が寛大にも「かつて」という無礼な言い回しを許して下さる、と信じての話ですが。
しかし『H-story』の主題と音楽の「関係」に、私は残念ながらそのような緊密な王道ぶりを発見することは出来なかった。一度しか見てない・聴いてないので、詳細な分析を試みることを遠慮しますが、その点は御勘弁を。ただ、製作のどの段階で鈴木さんが関与なさり、また着想を得られたのか知る由もありませんので、最終編集版を十二分に咀嚼し尽くして作業に入ることができたかどうか、これもわからぬまま出来たものだけで判断するしかない観客にとって、この『H-story』の前半と後半の間にある亀裂、あるいは断層とでも呼ぶべき違和感を感じたことは確かです。そしてこれこそ実は、この作品の重要な主題ではなかったか、と私は考えるのです。このことをどのくらい意識されたのか、是非鈴木さんと監督である諏訪敦彦氏にお聞かせ願えれば、と思います。この断層、亀裂、違和感が、『二十四時間の情事』と『H-story』の間にあるもの、終戦当時の広島と現在の我々との間にあるものでなくて何でしょう。ひいてはそれが、映画を作る、あるいは音楽を作る我々自身の創作の間にあるものでなくて何でしょう。そしてここで奏でられるべき音楽に王道を求めた私が、その「引き裂かれ」こそを表現したものを欲することは非難されるべきでしょうか。「メロディ」云々の議論はナンセンスだと思うので、それを言い募っているわけではないことは御理解下さい。あらゆる映画に「物語」があるのと同様、あらゆる音楽に「メロディ」のあることは百も承知です。ただ、この音楽にはついにその種の「引き裂かれ」を感じることは、私にはできなかった。それは『二十四時間の情事』のリメイクを意識した地点での計算しか、私に感じさせることはなかった。つまりその「引き裂かれ」た双方の一方にのみ加担するものだった、ということです。私の批判はここに集中しています。それが、音楽を「この映画固有の音」として響かせる野心を忘れた「ろくでもないヨーロッパ映画のそれ」に共通すると思われたからです。たとえば、あのロッセリーニの弟の、世にも下らない音楽。あるいはリュック・ベッソンの映画の醜悪さをいつも助長するエリック・セラ・・・。まさに、あれらには「実体」がない。もちろん鈴木さんがロッセリーニの弟だのエリック・セラだのと比較の必要のない遥かに巨大な才能の持ち主だと私は知っています。それゆえに悔しい。鈴木さんのような才能の持ち主が、音楽は「実体」ではなく「関係」、などと責任回避するべきではない。当然音楽は「実体」です。音楽という「実体」と映画という「実体」の間に生じる異質なものらの衝突としてでなくて、いったいどんな「関係」が生じるのですか。「関係」としての音楽、などというその気にならなければやる気の起こらない歯の浮いた議論は、ここではするだけ無駄です。要は、議論の価値のある主題に映画と音楽がどれだけコミットできるか、でしょう。その掘り下げの腕として、初めて映画も音楽も共存するのではないのですか?
『H-story』は、『M/other』同様に議論(もちろんあの低俗な「シナリオありやなしや」の井戸端会議ではなく、ストーリーテリングの不可能性についての)を醸す価値のある映画です。諏訪さんの映画はいつもそうだ。そしてそういう諏訪さんを、私は露骨に批判しつつ敬愛してもいます。しかしそれとの関連であってもなくても構わないだけの議論の必要性を、鈴木さんのこの反論を機に訴えてみたいと思います。もちろん鈴木さんと私の間に留まる必要はありません。映画作家や音楽家の皆さん、あるいは批評家の方々、どなたでも結構、ふるって御参加いただきたい。
とか何とか言ったって、ここでいくら騒いだって「あの人」の映画から「あの作曲家」の音楽を排除する声としては響かないかもしれませんが・・・。まあそんなことは取るに足らない蛇足ですな(笑)。失礼しました。我々は先を急ぎましょう。
ではまた。