
『ピストルオペラ』
深さを排した、シンプルなアクションの律動 古谷利裕
『ピストルオペラ』 監督:鈴木清順 (2001年 /112分)
鈴木清順の新作に、何か新しい刺激を求めることは出来ない。鈴木清順はただ鈴木清順を反復するだけだろうから。『ピストルオペラ』は、こういう言い方が、作家に対しても、映画に対しても、そして世界に対しても、何と傲慢な態度なのだろうか、ということを改めて思い知らせてくれるような映画だ。ここに見られるのは確かに「清順美学」であり、鈴木清順の「スタイル」でしかないな訳だが、しかしにもかかわらず明らかに2001年に撮影された「新作」であるのだ、と言える「何か」が写りこんでいる。このような作品を作り得る存在こそが作家と呼ばれるのだし、このような作品を可能にするものが「映画」なのだ。いや、『ピストルオペラ』は単純に面白いし、楽しいし、浮き浮きする映画なのだ。
この映画はとても単純に、ほとんど単調とスレスレくらいにシンプルに演出されている。たしかに、セットや美術や衣装は、いかにも「清順美学」っぽく凝ったつくりになっているけど、この映画には本当はそんなものは必要がない。幾何学的な骨組みだけのようなセットと、いくつかの色彩があればそれで充分なのだ。ちょっとやり過ぎだと思えるような「清順美学」的なものの方ばかりに目がいってしまうような人は、この映画の生命とも言える、アクションのシンプルな律動を取り逃がしてしまうだろう。この映画を生きたものにしているものは、アクションの連鎖がかたちづくる生き生きした律動にこそあるのだ。
鈴木清順の映画において、ショットとショットを繋ぐものは、空間の同一性ではなくて、アクションの連続性であり、テキストの連続性である。鈴木清順の映画では、空間というものにほとんど意味がない。スクリーンは文字どおり平べったく平面的なもので、奥行きもなければ、後ろ側もない。
(だが、何故か「裏側」はあるのだ。どんでん返しや回転舞台によって「裏側」が表に露呈される。そして回転するものという主題は、樹木希林の廻す石うすに引き継がれる。さらに「主題論的」な饒舌をしばらくつづけるならば、回転する丸い石うすは、冒頭近くの大仏の顔から樹木希林の丸い顔への繋がりから始まり、提灯や切り落とされた首、回転する自動車や車椅子の車輪、江角が懐から取り出す鏡や目玉等へと連続する「丸いもの」という主題の連鎖とも関係している。丸い顔の樹木希林が丸い石うすを回転させるという終盤のこのシーンでは、「回転するもの」と「丸いもの」という2つの主題が交錯しながら、いちおうの終点をみることになる。そして「丸いもの」の連鎖という主題は、当然のごとく「四角いもの=矩形」の連鎖という、もう一つの主題を対位法的に呼び込むことになる。窓枠、ピストルを納める箱、写真、ポケットティッシュ、屏風、棺桶、等々。スタンダードサイズというサイズの選択は、「丸いもの」と「四角いもの」という主題の対位法的な交錯が最もピッタリと納まるサイズだからではないのだろうか。さらに付け加えれば、回転することで裏表が入れ替わるというどんでん返しの主題は、「背中合わせの人物」という重要な変奏も産み出すだろう。これらの主題の戯れは、鈴木清順ファンにはお馴染みのものであり、浅はかにも思えるほどにあからさまに示されいて、あくまで表面的=視覚的な次元で緊密なネットワークを形づくることで、アクションと同様のリズムを刻んでいるのであって、すこしの深さ=象徴性も帯びてはいないということは確認しておかなければならないだろう。)
この映画がピストルを主題にしているのは、映画においてピストルは、距離や空間という概念を無化する小道具であるからだ。誰かがピストルを撃つショットがあり、それにつづいて誰かが倒れるショットがあれば、2つのショットはスムースに繋がる。決して画面には見えていない不可視の銃弾によって、空間の不連続性はいとも簡単に乗り越えられる。だから鈴木清順には決して時代劇は撮ることが出来ないだろう。刀による勝負とは「間合い」の勝負であり、次第にジリジリと近づいてゆく距離が、ある瞬間に不意に零になるまでの駆け引きなのだから。(つまりそこにあるのはメロドラマ的な空間の伸縮の劇なのだ。)この映画においては、アクションやテキストが、ピストルの弾と同じような役割を持っている。例えば、ほとんど単調という印象を与えかねないくらいに執拗に繰り返される、空間的には繋がらない切り返しが、いとも簡単に繋がってしまうのは、そこで全く異なった背景の前に立たされている2人の人物の「会話」が平然と成り立ってしまっているという事実からなのだ。「小寺醤油店」の前にすくっと立っている江角マキコと、鉄柱の立ち並ぶ境の前のソファーに横になっている山口小夜子は、全く異なる空間に属していながらも、会話が通じているからには「向かい合って」もいる、という訳だ。そして、言葉が行き交うことかできるのだから、時おり、相手の陣地へもう一方の人物が無限の距離を踏破して不意に割り込んだとしても不思議はないのだ。ここでの2人の距離は、無限に隔たっているか、もしくは不意に密着しているかのどちらかであって、緊張感を孕んだ距離が、伸びたり縮んだりすることはない。ここで鈴木清順は何も特別なことをやっている訳ではない。映画における「切り返し」とはそういうものなのだ。鈴木清順は、むしろ何の技巧もなしにそのことを露呈させているだけだ。だからここでは「不連続性」そのものが重要な訳ではない。(ちなみに、「百目」とは遍在する視線、つまり観客の視線そのもののことであり、不連続な空間を繋ぐ、どこから飛んでくるか分らない、それ自体は不可視である「銃弾」というのも、観客の視線のことであるのだ。つまり、バラバラに分裂している空間=ショットを繋いでいるのは、実は観客による「見る」という「労働」だという訳だ。)それよりも、江角マキコのすっとした立ち姿と、山口小夜子のしんなりした横たわり姿の対比や、江角の後ろに見える紫がかったエンジ色への布の質感と、山口の後ろに見えるトゲトゲと尖った鉄柱の対比、江角のアクションや声と山口のそれの対比と融合、それらを交錯させるリズムなどが、そのリズム感そのものがアクションとしてたちあらわれる、そのアクションの律動を感受する事の方がずっと重要であるはずなのだ。つまり、『ピストルオペラ』は原初的といってもいい程シンプルなアクション映画なのだ。
ところで、ピストルというのは、あからさまにファロサントリズムの象徴である訳なのだが、この映画に登場する男たちは誰も十全なファルスを所有していない。江角は、マスターベーション好きの女、つまり男を必要としない自己完結した存在であり(江角には、他者を誘惑する装置としての「足」があり、他者に触れる装置としての「手」があるのだが、しきりに自らの「手」に触れたがる江角の仕種は、明らかに自己愛=マスターベーションを表している)、彼女が唯一惹かれ、接触をもつ男である永瀬正敏は、口唇的存在であって、ファルスの象徴である「鼻」を病んでいる。(鼻の「穴」にいつもノズルを「挿入」している、という意味では、永瀬もまた江角と同様にマスターベーション好きの「女」である、と読むことさえできる。)もう1人の男である平幹二郎は、衰弱したファルスを意味するとも言える松葉づえを手放さない。つまり、江角が男を必要としていないように見えたのは、この映画に登場する男は皆不能で「男」ではなく、ただ桐の箱に詰められてギルドから送られてくる「ピストル」のみが十全な「男=ファルス」だからなのだ。(唯一、「無痛の外科医」がもっていたナイフのみが、中途半端なファルスの代用品であった。)だとすると江角は自己完結しているどころか、いつも「ピストル=男」を求めている色情狂ということになり、この映画は、「ピストル=ファルス=男」を巡る世代の異なる女たち(韓英恵、江角マキコ、山口小夜子)の争いという風にまとめられることになってしまい、しかも「ピストル=ファルス=男」は「死=逝くこと」と直結していると言う、全く詰らない「俗流精神分析」のようになってしまう。(見方をかえれば、ファルス=ピストルを媒介としない、江角と永瀬との口唇的な接触こそが、唯一の他者との生々しい接触なのだ、と読むことも可能なのだが、永瀬の存在感がイマイチなので、画面からはなかなかそのようには伝わらない。)しかし、と言うか、だから、と言うべきなのだが、このようないかにも「読み込め」と誘っているような精神分析的な記号の数々は、老練な清順氏によって仕掛けられた罠であり、このような罠にある程度はハマってみるのも清順映画の楽しみであることも事実ではあるが、ここでは深入りしないで、あえてシンプルに表面のみを滑ってゆくことにする。
この映画におけるアクションは「平面的=表面的」なものとして構築されている。つまり画面の左から右へ、右から左へ、そして上から下へ、下から上へ、というアクションであって、画面の手前から奥へ、奥から手前へ、というものではない。なにしろ江角は何度も「左から右へ」と口にするし、画面はしばしば全く奥行きを欠いた、文字どおり「影絵」のようにさえなる。そのことを最も端的にあらわしているのが、何の意味もなく画面を左から右へと横切る電車の車両だろう。(この電車の何とも「のろい」間の抜けたスピード感は素晴らしい。)そういえば、唐突にあらわれる「犬」も、画面の左から右へと駆け抜けてゆく。(この「犬」の登場は、「野良猫」と呼ばれる江角マキコの顔が、実は猫よりも犬に似ていることから、正当化されるだろう。)この、アクションの平面性には、全く何の謎もないし、別に美学的な「様式性」を狙ったものでもなく、この映画が基本的に空間の連続性というものを徹底して軽視していることから必然的に導かれたことに過ぎない。この映画では「距離」は、具体的に目に見える横への「幅」としてしか表象されない。(平面的な「折り重ね」は多用されるが、それは「深さ」を構成しない。)しかしもちろん、この映画にいわゆる「縦の構図」が一切使用されていないという訳ではない。この映画では、画面の手前から奥へという奥行き(深さ)は、いつも「衰弱した者」のために与えられている。だからそこには衰弱したアクションしかない。すでに技術が衰え、プロとしての技量を持っていないにも関わらず、いつまでもランキングという幻想に囚われている殺し屋である平幹二郎の登場するシーンに、縦の構図が多く用いられているのがその証拠と言えるだろう。床にワインの入ったグラスをいくつも並べ、それを画面奥から撃ち抜こうとする平が、画面の一番手前のグラスを撃ちそこねてしまうシーンに、それは最も顕著にあらわれている。だから、江角と山口の撃ち合いのシーンで、江角が山口を、画面の奥から撃ち倒した時に、観客は既に江角が衰弱していて、「死」に向かっているのだということが自然に理解されるだろう。
『ピストルオペラ』を構成するほとんどの要素は、『ツィゴイネルワイゼン』や『陽炎座』を観れば既にそこにあるものばかりだし、作品の完成度や密度からいっても、それらの作品には及ばないかもしれない。しかし『ピストルオペラ』にはそれらの作品には欠けていた、アクションの生き生きとした律動があり、俳優たちの身体所作や身のこなしの浮き浮きするような流れがある。生きて、動いている俳優の身体的な律動が、フィルムに写り込み、映画のリズムを決定し、活気づけている。特にこの映画での江角マキコは素晴らしい。どのようなニュアンスにも、深さにも頼らずに、純粋に表面的な、美しさ、立ち振る舞い、アクション、のみで勝負している。鈴木清順は、江角マキコという存在によって俄然「本気」になったのではないだろうか。
古谷利裕:
■画家。
■ホームページ:「無名アーティストのWILDLIFE」
■来年の3月に、上野の森美術館で開催される「VOCA・2002」展に出品する予定です。