
『カンダハール』
ブルカの暗がりから覗き見る視線 坂原樹麗
『カンダハール』 監督:モフセン・マフマルバフ
Kandahar (2001年 / 85分)
11月19日、TOKYO FILMeXにおいてモフセン・マフマルバフ監督作品『カンダハール』が公開された。本作が傑出した作品であることに間違いはない。ここ数年のうちに恐らく何本もの映画がアフガニスタンを舞台に撮られることになるだろう。しかし、『カンダハール』を超える作品が易々と撮られるとは到底思えない。
既にboid reviewでも紹介した通り、マフマルバフは『カンダハール』の撮影を終えた2001年3月、深刻な飢餓・内戦に苦しむアフガニスタンの窮状を訴えるレポートを作成している(全訳が現代企画室から出版されている)。このレポートは朝日新聞の天声人語(10月10日)でも取り上げられ、10月25日発行の『現代思想』10月臨時増刊号で抄訳が紹介されているので読まれた方も多いだろう。当日会場を埋め尽くした観客の大部分もやはり、多かれ少なかれこのレポートでも描き出される「事件」前のアフガニスタンの状況に対する「社会派的」関心に後押しされ会場に駆け付けたはずである。『カンダハール』はしかし、このような関心に生真面目に応える道を周到に回避する。
確かにここには「社会派的」な関心・好奇心を適度に満たす「現実」を映し出すアイテムが揃ってはいる。冒頭近くの難民キャンプのシーンでは人形に仕込まれた地雷を避ける訓練を受ける難民の少女達が映し出されるし、タリバンの神学校では飢えから逃れるため入校し読めもしないコーランを暗唱するふりをする少年の姿が映し出されもする。あるいはアフガニスタンを構成する全ての民族の女性を妻に持つことになる、と自分の多妻ぶりを誇らし気に披露する老人や、ブルカの下で化粧をするその妻たち、そして地雷によって奪われた足にあう義足を求め、松葉杖を巧みに操り褐色の大地を行き来する国内非難民の姿も映し出されるだろう。中には彼女らの全身を覆い尽くすブルカにアフガニスタン女性の捕われている「牢獄」を見、足を失った男たちの求める義足に難民たちから奪われている「自由」を見る観客もいるかもしれない。しかし、この程度の凡庸なイメージを消費するためであれば何も本作を見る必要などない。豊富な画像資料に彩られ読みやすく編集された印刷物に目を通し、毎日途切れることなく現地から届けられる最新の映像を手早くまとめた各種報道番組を目にすれば十分だろう。むしろわたしたちは、難民キャンプのシーンにおいて恐らく手持ちキャメラ(ビデオであったかもしれない)によると思われる意図的に選択されたとは思えない手ブレの目立つ画面の中に少女たちが収められる瞬間に、アフガニスタンの1つの「現実」が比類ない生々しさをもって立ち現れる事実に意識的でなければならない。
アフガニスタンの「現実」とはなにより、マフマルバフ自身も強調している通り、メディアから無視され、忘却され続けてきた現実であり、更にタリバンの治世下で撮影そのものを厳しく制限されてきた現実である。先の難民キャンプでの少女達の映像も、恐らくは限られた滞在期間中にかろうじて撮ることができた数少ない映像の1つであるに違いない。その困難がブレとしてフィルムに刻印されているのだ。そもそもカンダハールという地名を題名に持つ本作は、一度としてカンダハールの地を映像に収めることがない。それは単に、撮影が許可されなかったことによるだろう。ここにも1つの「現実」が刻印されている。女性の顔を見ずに済ませるため医師を患者から分け隔てる幕に穿たれた診察用のあの小さな穴、あるいは色鮮やかなブルカの中から辛うじて外を伺うことができる程度に開かれたメッシュによる最小限の隙間、これらの覗き窓から辛うじて目にすることができた映像、それが『カンダハール』という作品であり、それが本作の至る所に刻み込まれている不可視性という「現実」である。メモあるいは手紙の代替手段として声を記録し続けてきたテープレコーダーがその目的を達することなく呆気無く捨て去られることになるのは、従って物語的な修辞などではなく、声による記録の不可能性を示すことでこの不可視性を律儀に変奏しているに過ぎない。ここでカンダハールは、不在の中心として浮き彫りにされる。
見えないものを垣間見ようとする『カンダハール』において、全ての視線が覗き見趣味的な嫌らしさを帯びるのも、従って必然的な成り行きである。実際本作は、女性の目や口、耳を小さな穴越しに凝視する(似非)医師の視線や、ブルカの中から不意に露にされる顔を吟味する子供の視線、そしてたくし上げられたブルカの裾の中の薄暗がりで顔を確認して廻る兵士の視線など、文字どおり窃視の淫猥さを色濃く帯びた視線に溢れている。これらの場面において画面を見つめる観客は、自身の窃視者としての欲望を適度に満たしつつ観察者としての自分の立場を一瞬たりとも疑うことなく確保することができる。ところが、例えば例外なく地雷で手足をもがれた難民たちが我先にと義足に群がる光景は、見るべきではないものを見てしまったかのような戸惑いを観客に与える。マフマルバフはまるで、適度に温度管理された居心地よい映画館の客席からスクリーンに好奇の眼差しを向け、「酷い現実だ」と呟くだけで何か良いことでもしたかのように錯覚する観客の「良心」を剥ぎ取り、あなたの見たいものはフリーク・ショーでしょ? とその「良心」の名の下に隠蔽された観客の視線の無自覚な淫猥さを白日の下に曝し出すかのようだ。これは、眠気から閉ざされそうになる瞳をマッチ棒で無理矢理こじ開けてまでペダルを漕ぎ続ける『サイクリスト』のアフガン難民の姿の滑稽さや、憐憫の情よりむしろ嫌悪感をしか喚起しない『行商人』の第一の挿話に登場する異形であるが故に捨て去られた孤児達の泣き声の禍々しさを演出する姿勢に直結する態度である。
マフマルバフはそして、この覗き見趣味的嫌らしさを恐らく否定しない。むしろそれを楽しみ、この嫌らしさこそ映画的快楽の本質であると開き直っているようですらある。実際、松葉杖をもつれさせ時に転倒さえしながら、足を失った難民らが砂漠をあちこち動き回る姿は、嬉々としていたとは言えないまでも生命力に漲ってはいなかったか? 自身手を失いながら、地雷で片足を失った妻のために2足もの義足をあの手この手で入手しようとする難民の姿の滑稽さは、この嫌らしさを引き受けた者でなければ味わえない可笑しさだ。本作に付きまとう不思議な爽快さは恐らくこのマフマルバフの姿勢からもたらされるものだろう。「フリーク」たちの異形振りを過度に誇張し、決して道徳的とは言えないその行動を通じかえって彼らを輝かせて見せるマフマルバフの手捌きは、例えば非道徳的な行いを含めすべてを包容するルノワール的なおおらかさに通じるものであると言えよう。『カンダハール』は、安易な「社会派的」関心が悲惨な被害者という画一化した貧しいイメージに貶めがちな「フリーク」たちを、多彩な表情のもとに描き出すことに成功している希有な作品なのだ。
現在タリバンが撤退したカブールにおいてメディアは、タリバン統治下に経験した空白を埋めることがあたかも可能であるかのようにタリバンの痕跡を求め、こぞってあちらこちらにキャメラを向けて廻っている。『カンダハール』は、このような無邪気な楽天性が隠蔽しその忘却を助長しさえする「現実」を浮き彫りにする。
坂原樹麗:
■経済学。経済理論、オークション理論を専攻。
■ホームページ:irik arahakas