
『ギャラクシー・クエスト』
サングラスとファスナー 樋口泰人
『ギャラクシー・クエスト』 監督:ディーン・パリソット
GALAXY QUEST (1999年/102分)
ロバート・アルドリッチの「カリフォルニア・ドールス」で、今でも記憶に残っているのは、ピーター・フォークがバットで車のフロントグラスをたたき割るシーンである。とはいえ前後の文脈はほとんど忘れてしまっている。確かプロモーターだか、相手チームのマネージャーだかに理不尽な要求をされた後のシーンだったはずだ。その要求はそれまで彼がやってきたことや彼が今生きていることをそっくりひっくり返してしまうような要求で、当然彼としては受け入れがたいものではあったのだが、しかし彼と彼のドールスはそれを受け入れざるを得ないところまで追いつめられている。彼はその時、自分の生きる信念を曲げて生き延びるか、いやそれくらいならもう生きるのをやめた方がましか、という選択を迫られていたはずである。そこで彼がどんな決断をしたのだったか、まるで記憶にないのだが、どちらを選んだにしても彼にとっては最悪の事態であったと思う。とにかく彼は、何らかの決断を下し、ドールスとともに駐車場にやってきた。すると彼は、確か自分たちの車のトランクからバットを取り出し、相手の車に殴りかかるのだが、その前に、サングラスを取り出すのである。もはや夜。駐車場の薄ぼんやりした明かりの中で、サングラスをかける理由は何一つないのだが、彼はサングラスをかける。サングラスをかけた彼の顔に、一瞬ほほえみのようなものが浮かんだようにも見えたが定かではない。それはまるで、どちらにしても彼の人生を根こそぎ否定してしまう決断を迫った相手に対して苦渋の決断しかできなかった自分とはまるで違う可能性を、サングラスをかけることによってようやく見ることができる、そんな可能性の中の彼の姿とも言えるものであった。
その時のサングラスは、現実の彼と可能世界の彼とを入れ替えるスイッチのようなものだと言えばいいだろうか。サングラスをかけることによって、あり得たかもしれない彼が現実の彼に重なり合うのだ。もちろんそれは、単に彼の決意を示す意思表示のサインでもあるだろう。彼の中の内的な何かが、そのような形になって外に現れたのだとも、言えるかもしれない。おそらく彼は、その何十年かの人生のうちで、数々の映画を見てきたのだろう。その中で、何人ものヒーローたちがサングラスをかけて、彼の人生より大きな何かに立ち向かっていったはずだ。彼はそんな映画の中のヒーローたちに、一瞬だけ自分を同化させたかったのかもしれない。いずれにしてもそのサングラスは、彼の内的な欲望と、外的なシステムの発動との交差点として機能していた。つまりそれは、映画の核そのものであった。
かつての人気テレビSFシリーズの登場人物たちが、彼らのことを本物の宇宙船乗組員だと信じて疑わない宇宙人たちに助けを求められるという設定の「ギャラクシー・クエスト」にも、そのサングラスとよく似た機能を見ることができる。宇宙怪獣に襲われ、絶体絶命の危機に落ちた宇宙船の艦長(つまりテレビ俳優)を救うため、瞬間移動装置を使って艦長を宇宙船内に移そうとするシーン。この装置はまだ人間を移動させたことはなく、動物の場合はすべて失敗していたと、本物の宇宙人たちから説明がある。テレビの中の「ギャラクシー・クエスト」では、当然、何の問題もなく作動していたもので、宇宙人たちはそれをまねてこの装置も宇宙船も作ったのだが、テレビの中の乗組員たちにとって、いくらテレビの中と同じものでも、実際にそれらを操作できるわけではない。だから、番組の中では瞬間移動装置の操作担当の乗組員の男も、艦長の正視を左右する現実の状況では、ただ青ざめるばかりで、宇宙人たちの期待や他の乗組員たちの要請に応えることはできない。それは男にとってまったく未知の領域へ足を踏み出すことであり、同時に仲間の運命を決めてしまう行為であるからだ。そんなことができるはずはない、と、男だけでなく、男の正体を知る観客の誰もがそう思うだろう。しかし男がやらねば艦長は怪獣に殺されてしまうのだ。だから当然、男はそれをやらねばならないのだが、その行為自体は男の存在を遥かに越えた行為である。その行為の果てしなさに、男は脅えている。だがその時、操作担当の男の前にひとりの女性(に扮した)宇宙人が現れる。と、その男の態度ががらっと変わる。男はその女性宇宙人に一目惚れしていたのだ。
その時男の中でどんな心境の変化があったのか、具体的に説明されるわけではない。ただ男は、女性宇宙人の顔を見た瞬間に、背筋を伸ばし、あごを上げ、ボディ・スーツのファスナーを一番上まで上げる。このとき周囲の物音は消され、ファスナーを上げる音だけが強くはっきりと聞こえてくる。おそらく通常のレベルより大きめに、音がつけられているはずだ。この強い音。それは彼の決断を示しているとも言えるし、また、この音によってこそ彼の次の行動のスイッチが入れられたとも言えるような、男の人生の結節点を示す音であった。その後男は、当たり前のようにその装置を動かし、艦長を無事助ける。つまりファスナーを閉めたその時、男は本当に宇宙船の乗組員になったのであり、テレビ番組の中の彼が、現実の彼にぴったりと重なり合ったのだ。ファスナーが、現実の彼と可能性の中の彼とをしっかりと結びつけたのである。
登場人物たちが自らを実際の彼ら以上のものへとリフォームする物語である「ギャラクシー・クエスト」という映画にあって、このファスナーは、ひとりの男の人生を決める一瞬の物語であると同時に、映画全体の物語すべてでもある。この騒々しくあわただしい物語の中で、ファスナーを閉める音だけが画面に響くその一瞬、この映画自体も、可能性の中のこの映画とがっちりと結びついたと言えるだろう。つまりそのファスナーの音には、乗組員たちに憧れ尊敬のまなざしを向ける宇宙人たちと同じような、愛と敬意が込められている。この映画の登場人物やこの映画そのものに対して向けられたその真摯なまなざしは、スクリーンを見つめる観客のまなざしと一瞬交差するだろう。それはおそらく、観客である我々が、可能性の中の我々へとリフォームする、一瞬の契機となるはずだ。
「ゴダールのリア王」の中で、フィルム編集をするウディ・アレンが、縫い物用の針と糸を使ってフィルムを繋いでいたシーンが思い浮かぶ。ゴダールはそのシーンで何が言いたかったのかは分からないが、多分、フィルム編集とはそのようなものなのだ。何かと何かが強く結びつけられなくてはならない。映画も又、それ自身がそのような存在となるべきだろう。
樋口泰人:
■映画批評、音楽批評。
■12月9日に吉祥寺バウスシアターのジョン ・カサヴェテス特集のイヴェントに出席します。篠崎誠、松田広子との鼎談。
■これ以外の近況については、「boid日記」を参照してください。