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『天が許し給うすべてのもの』

ダグラス・サーク!   大寺眞輔
 『天が許し給うすべてのもの』 監督:ダグラス・サーク 
All That Heaven Allows (1955年/89分) DVD (THE CRITERION COLLECTION)


ソファに横たわるロック・ハドソンと、それを見つめるジェーン・ワイマン。壁一面を覆う巨大な窓の外では、二人の姿を見守るように一匹の鹿が佇んでいる。そして、そこに重ねられる「THE END」の文字。おそらく、80年代の東京でシネフィル生活を送った者の多くがこのシークェンスを見たことだと思われるし、そしてまたその体験は、彼ら彼女らにとって現在でも忘れがたい映画体験の一つとなっているに違いないとも思う。

これは、ダグラス・サークの55年度作品『天が許し給うすべてのもの』のラストショットであり、同時にダニエル・シュミットによる『人生の幻影』Douglas Sirk - Mirage de la Vie (84)のオープニングショットでもあるのだが、おそらく、80年代にシネフィルであった多くの者にとって、それは『人生の幻影』というフィルムによってのみ記憶されていることだろう。言い換えるならば、このサークの傑作は、長らく日本のスクリーンで上映される機会を持つことがなかった。

もちろん、サークが重要な作家であることを否定する者は今日では殆どいないであろうし、彼が映画史から忘却されてしまった訳でもない。ゴダールによる絶賛(サークの映画に美しさを見なかった人たちは、何も見なかったか、あるいは美しさというものについて何も知らないかのどちらかだ)を除き、同時代的な批評には全く恵まれなかったサークが、70年前後のファスビンダーらによる再評価を通じて、初めて映画史にその名前を刻み込まれて以来、今日に至るまでその評価が変わる事は一度もなかったと言って良いだろう。ただ、それが日本でスクリーンに上映される機会だけは殆どなかったということなのだが、そうした貧困な状況をいきなり不意打ちするかのように、80年代からの日本のシネフィルの多くにとっても幻であったこの作品『天が許し給うすべてのもの』が、DVDでリリースされることになった。

ユニヴァーサル製メロドラマの一本として企画されたこの作品にとって、物語はきわめて単純である。大学生にまで育った2人の子供を持つ裕福な未亡人(ジェーン・ワイマン)が、若くてハンサムな庭師(ロック・ハドソン)と恋に落ちるが、社交界からの冷たい仕打ちと子供たちの猛烈な反対によって、やがて凡庸で退屈だが安定していた未亡人というかつての自らの地位に戻らざるを得なくなる。しかし、ある事故でハドソンが重傷を負ったのをきっかけに、ワイマンは彼の元に再び戻り、自分自身の人生を生きていくことを決意する、というのが、そこで語られる物語の全てだと言って良いだろう。

だが、この映画にとって真に重要なのは、物語ではなく、その語り口であり、演出であり、スタイルである。例えば、この映画の冒頭で、ワイマン家に遊びに来た社交界の友人が彼女の庭の手入れの行き届いた庭木を褒めるという、物語的には何と言うこともないシーンがあるのだが、そこで、ワイマン家の庭木と同様、2人の女性の会話のための舞台装置として、背景として機能していた人物が、ふとスクリーンにその正面像を向ける瞬間が訪れる。この人物こそ、無論、庭師の役を演じるロック・ハドソンであるのだが、街の遠景を映したオープニングに続く冒頭のショットからスクリーンにその姿を示し、そこに存在していたにも関わらず、後ろ姿のみを見せることによって、2人の女性の会話内容を裏付ける舞台装置のようなものとしてのみ機能していた彼が、スクリーンに顔を向けるという、ただそれだけの仕草によって、にわかに重要な登場人物として背景から浮き上がり、自らの存在を主張し始めるのだ。実際、ワイマンはこの瞬間から、この庭師にある種特別な好意を向けているように見えるのであるが、それが如何なる理由によるものだったのか、物語的には殆ど理解できないし、それを説明するような場面も一切登場しない。しかし、この庭師という背景がハドソンであったという事実によってそれが前景に引き出されてくる、その同じ瞬間に、ワイマンもハドソンに対して恋に落ちているのは、疑いようのない事実であり、同時にそれを見つめる観客もまた、何の抵抗も疑問もなく、そこで愛が生まれたことを受け入れるのだ。

2人のブルジョワ女性にとって、庭で働く庭師の存在は、特に視線を引きつけることのない、単なる背景に過ぎないだろう。それと同様に、スクリーンを見つめる私たちにとっても、それは単なる背景の役割を担うに過ぎず、とりわけ繊細な注意がそこに払われることはないに違いない。しかし、その人物がロック・ハドソンというスターであるという認識が為された瞬間、その単なる庭師は全く別の意味と物語的な役割を担った対象としてそこで存在し始めることになる。こうした、ブルジョワ社会とスターシステムを2重に重ね合わせたような権力装置の機能ぶりを明かし立てつつ、物語の演出として見事に示しだしているのが、ここでのサークの試みであるのだ。これは、ドイツ時代にはブレヒトの「三文オペラ」の演出家としても名を馳せたサークらしい、きわめてクレバーな演出ぶりだと言って良いだろう。

彼の作品を特徴づける小道具としてしばしば指摘される鏡もまた、重要な映画的記号として、この作品にも導入されている。映画の前半で、子供たちに囲まれる幸せそうなワイマンの姿を鏡の反映としてとらえた映像は、後半、子供たちがそれぞれ自立して行き、それまで自分には興味がないと拒否し続けていたテレビジョンが置かれた居間の中で、ただ一人、そのブラウン管の反映として映し出されるワイマンの姿へと直接的に反響していくことになるだろう。また、ハドソンがワイマンの為に改修したガラス張りの家の、意図的な装飾過多と悪趣味ぶりは、ファスビンダーやシュミットといった後の作家に強い影響を与える源泉となったことも改めて思い出しておくべきだろう。大怪我を負い、かろうじて命だけは取り留めたもののベッドに横たわることしかできないハドソンを見守るワイマンの姿は、愛を遂げようとする女性の決意の姿として、凡庸な物語的記号としてそこにあることは間違いないものの、一方で、実のところ映画の前半から状況が殆ど変わっていないこともまた事実であると共に、ベッドに不能者として横たわる若い男性と、それを見守る年上のブルジョワ女性といった、きわめて倒錯的なニュアンスを暗に込めたイメージとなっていることも見逃せないのではないだろうか。(これは、ほぼ象徴的去勢のイメージそのものであると言って良く、ここで映像は、それが本来語るべき物語を裏切っている。)『人生の幻影』の中で、サーク自身によって語られた、円環を描くように走りつづける死者のイメージをここで思い出すべきだろう。「ハッピーエンドとは、一つの締めくくりだ。もう、先はない。逃げ道はない。一巻の終わりだ。ハッピーであろうとなかろうと」。サークは、映画史上最もペシミスティックな映画作家の一人であったのだ。

残念ながら、このDVDは、CRITERION COLLECTIONの一本として、アメリカでリリースされたものである。したがって、リージョン・コードという愚かな制度のため、日本で購入できる家庭用のDVDプレイヤーの殆どでそれを再生することは出来ない。が、しかし、あきらめる必要は全くない。まず、たとえば「Amazaon.com」のような通販業者を利用すれば、誰でも簡単にこのDVDを入手することが出来る訳であるし、リージョン・コードによるプロテクトも、「Google」などのサーチエンジンなどで検索すれば、比較的容易にその対応策を知ることが出来る。要は、個人の知恵と情熱だ。パリやニューヨークなどに行くことに比べれば、あるいは、80年代にバカ高い海外ビデオを個人輸入で購入したことに比べても、それはあまりにあっけない作業に過ぎないだろう。もちろん、このあっけなさと世界からの距離感の消失が、逆に、誰にでも容易にアクセスできるものへの興味と情熱を削いでしまうということもあるかもしれない。しかし、『天が許し給うすべてのもの』のような幻の傑作が、DVDというメディアを通じてとは言え、比較的簡単に誰でも見ることが出来るのだ。その事実に驚き、熱狂しない者に対しては、はじめからなにを言っても無駄だとも言えるだろう。


大寺眞輔:
■映画批評、現代文化論。
■ホームページ:Dravidian Drugstore
■いよいよ次節はスペイン・ダービー!リヴァウドやロベルト・カルロスが出場せず、バルサにはペップがおらず、ジダンを獲得した今季のレアルがいまいち不調だったとしても、そんなこととは何の関係もなく、スペイン・ダービーはスペイン・ダービーなのだ。絶対に見逃すな!