
『キプールの記憶』
フィルムの一人称性を貫く「体験」の重さ 梅本洋一
『キプールの記憶』 監督アモス・ギタイ
KIPPUR (2000年 / 118分) シャンテシネにて2002年正月より公開予定
冒頭の映像。白さの上に何重も色が塗られ、まだ乾かぬ絵の具の上でボディ・ペインティングさながら裸体の男女が抱き合う。「融合」──色彩の融合、男女の融合──、多様な意味の「融合」が示唆されている冒頭の映像を、パレスティナとイスラエルの融合の象徴などと考えてはならない。それは絵の具の多彩な色に過ぎず、その色彩を身体に塗った裸体の男と女に過ぎない。
その件から続く、ふたりの男が白い中古車で戦地に赴く映像を見て、『カラビニエ』を想起しない者はいないだろう。ミケランジュとユリシーズが総動員令に応じて戦地に赴く、「戦争」の構造そのものを異化したゴダールの傑作と、アモス・ギタイの「戦争映画」『キプールの記憶』は確かに似ている。ほとんど人がいない広大な荒れ地然り。荒れ地としての戦場を走る戦車然り。映像としてのこの2本は確かに似ている。だが、『カラビニエ』と『キプール』とを決定的に隔てているのは、『カラビニエ』がいかに「戦争」を倫理的、知的に再構成したものであっても。それはあくまで「寓話」であり、ブレヒトの教訓をゴダールが生きたものであるのに対して、『キプール』は、「寓話」などではなく、他の誰でもないアモス・ギタイ自身の体験を示したものであることだ。見る者にとって、それが表象でしかあり得ないにしても、「体験」はそれを語る本人にとって「現実」と交換しうる。つまり、いかにそれが「寓話」に似ていようと、アモス・ギタイは、「いいですか、これは私の体験したことなのであって、つまりは事実に他ならない」と自らの「体験」を披露するのだ。『カラビニエ』と『キプール』がかすかに触れ合う地点があるとすれば、前者が「戦争についての思考」を、後者が「戦争の個人的な体験」を示しているという意味において、「戦争」という一語のみである。
もちろん『キプール』にしても一本のフィルムであり、そのフィルムが「戦争」を映し出す限り「戦争映画」というジャンルへと思考を誘うのは当然だろう。だが、このフィルムの一人称性は、映画とジャンルの関係についての思考を絶対的に拒んでもいる。『キプール』は、だから『地獄の黙示録』とも『プライベート・ライアン』とも一切関係がない。もちろん個人的な「体験」が語られる限り、このフィルムにも「物語」はしっかり存在している。冒頭とラストにある主人公と女性との遭遇は、明瞭に枠物語としてのこのフィルムの構造を示しているだろう。戦争から帰還した主人公は冒頭の女性と再会することになる、という物語がそこにはある。だが、枠物語を取り払った「戦争」の「体験」は物語を語る行為からは極めて遠い場所にあるだろう。その「体験」を構成するのは、戦争という「状況」だけだ。基地にたどり着き、救援隊が組織され、ヘリコプターに乗り込み、負傷した兵士をヘリに乗せ、乗せられなかったものを置き去りにし、また同じ任務を反復する。ある日、突然、ミサイル──映像を見ている私たちにはそれがミサイルであることは判らない──がヘリに命中し、機内はパニックになり、不時着する。見えるものは、そうした行為とそれらの行為の間の待機状態だけだ。反復は、倦怠を生む。戦争が始まった当初、どこかで感じられた高揚感は単に忘れられていく。私たちは、かつてアモス・ギタイ自身が「戦争が終わるのは単に当事者たちの徒労のためだ」と語ってくれたのを思い出す。彼の「体験」を構成する各々のエピソードを映像と音声で見聞きするにつれ、私たちは、その「体験」の重さを次第に理解しはじめ、「体験」が「現実」と交換可能であることを深く納得する。映画の冒頭で感じた「異和」が薄められ、それこそ「現実」の重さであると納得する過程こそ、『キプール』を見ることに他ならない。『キプール』がギタイの個人的な「体験」である限り、その「体験」がいかに深く戦争と関わっているにせよ、その「体験」を構成するどんなエピソードもギタイ自身の眼差しと聴覚とに写し取られたものだ。
このフィルムが日本円にして8億円という巨費を投じて作られたフィクションであることは私も知っている。だが、戦車の轍が何本もついた雨後のゴラン高原はフィクションではない。普段は砂埃があがる荒れ地もまたフィクションではない。同時に私たちはまたアモス・ギタイは常に多様な境界を彷徨うことで映画を撮り続けてきた人であることも知っている。彼の個人的な「体験」は、何本も轍の走るゴラン高原を映し出すとき、アモス・ギタイという固有名を越えて、よりユニヴァーサルなものに移行している。
ところで、このフィルムの中程に、兵士のひとりが新聞を読むシーンがある。「非常事態宣言によって、政府は炭酸飲料の輸入量を減らした」と男の声で新聞の見だしが読み上げられるのだ。眼前に広がる戦場であるゴラン高原にいてもなお、戦争は見えない。私たちが毎晩見ているカブールやペシャワールの映像と同じように、戦争は見えない。
梅本洋一:
■批評家。翻訳家。「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」前編集代表。
■著書として、「映画が生まれる瞬間」(勁草書房)「映画をつなぎとめるために」(同)、「サッシャ・ギトリ 都市・演劇・映画」(同)、「視線と劇場」(弘文堂)、「料理生活、ロードムーヴィー風 」(洋泉社)など。訳書として、「歪形するフレーム 絵画と映画の比較考察」(勁草書房)、「不屈の精神」(フィルムアート社)、「監督ハワード・ホークス〈映画〉を語る」(青土社)など多数。
■東京大学教養学部の自主ゼミ「映画・作家へのコミッタンス」にて講師を務めている。ゲストとして黒沢清(10/25)、青山真治(11/01)を招いた。参照:「ラブレター フロム 彼方」