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追悼 清水俊彦   

終わりのない冒険にむけて
 
 
大里俊晴×水木康文
 大里俊晴:横浜国立大学教授・『AA』インタヴュアー
 水木康文:青土社編集者・『ジャズ・アヴァンギャルド』『ジャズ・オルタナティヴ』を編集

 
 
大里:『AA』の仕事も含め、わずか1,2回のインタヴューでお会いしたような自分に、清水俊彦さんを語る資格は全くないのですが、今日は長い間編集者として清水さんと関わってきた水木さんにお話を伺おうと思うのです。清水さんに関しては、その人がどの時代に出会ったかによってその印象はかなり違うと思うんですが、元はといえばアーティストなわけですよね。

水木:そうですね。詩人でかつヴィジュアル・アーティスト、具体的には写真やコラージュといった創作に打ち込んでおられたようです。

大里:ご本人からうかがって初めて気づいたのですが、なんとスティーヴ・レイシーが日本で富樫雅彦らと吹き込んだ『ワイヤー』というアルバム、ジャケットのコラージュを清水さんがしておられるんですね。唇をあしらった、ちょっとエロチックなやつ。ですので「詩人」という部分もそもそも北園克衛が主宰していた『VOU』から出てきた人だから、字っていうか、詩っていうのをおそらくヴィジュアルなものとしてとらえていたはずだと思うんです。『現代詩手帖』だったかな、ヴィジュアル・ポエムの特集か何かがあったんですが、そこで清水さんの話 が結構出てくるんですよ。

水木:たしかに、藤富保男や高橋昭八郎といった名前と一緒に出ていたように思います。僕自身はその辺の事情には疎くて、実際にお会いしてお付き合いし始めたのは88年か89年くらいからでした。それまではジャズ評論家という印象が99%でしたから。本を作ろうということになって、つまり『ジャズ・アヴァンギャルド』のことですが、そこからお付き合いが始まったので、僕の見た清水さん像もある一面なんだと思います。やはり厳密には僕も語る資格はない口ですが。

大里:その『ジャズ・アヴァンギャルド』が出た辺りから、若い世代から注目を集め始めたわけじゃないですか。そこから読み始めた人っていうのもずいぶんいると思うんです。

水木:先日、「清水俊彦 追悼」でネット検索してみたら、たとえば座間裕子さんも追悼文を書いてられて(http://d.hatena.ne.jp/yukoz/20070529)、そこではやはり、『ジャズ・オルタナティヴ』と『ジャズ・アヴァンギャルド』を読んでこの世界に目覚めたとある。当時の若い人たちにもそういう人がある程度いたことは確かかもしれませんね。

大里:清水さんの一番すごいところって、たとえばジョン・ゾーンのような当時の最先端にもすぐに反応してしまう部分だと思うんです。その頃はすでに若くはないわけですよね。でも、ジョン・ゾーンにも反応する。その若々しさ。あと、党派性がなかったというのは清水さんの一番すごかったところじゃないですか? 間章について書こうが、高柳昌行について書こうが、あるいは他の人について書こうが、清水先生だったらってことで周囲が納得していく。それはすごいことだと思います。まったく敵がいない人というか。

水木:あらゆる人に分け隔てなくやさしく接するし、心配りする方でしたね。

大里:ある意味で隠居、というか世俗を超えた雰囲気があって、僕から見るとそういった面でもちょっと憧れの人だったんです。たとえば植草甚一が書いてたんですが、「清水俊彦さんが帽子をかぶっていないのを見たのは今日が初めてだ」と(笑)。清水さんて意外とダンディなところがあったでしょ。

水木:それは意外ではなくて、まさしくダンディなんですよ。それが自然に身についているという感じでしょうか。だから逆に「意外」に思えるのかもしれませんが。

大里:面白かったのは青山真治さんの話をしていた時に、「青山さん最近女優さんと結婚なさって」って言ったら、清水先生がなんておっしゃったかっていうと「それはうらやましい」って(笑)。「それはうらやましい」っていうのはいい反応だなぁと思ってね。僕、勝手にイメージしているんですが、隠居して小汚いっていうんでは全くなくて、粋で理想的な隠遁生活者みたいな印象がありますね。なんていうか謎の人なんだけど、皆が憧れるような謎の人っていうか。常にいろんなところから新しいものを見ていて、しかも表に出てこない。そういった存在の仕方というのは、間章とは真逆だと思う。フラットな目で、偏在していていろんなところを眺めてるっていう感じが清水さんの印象なんですね。

水木:そうですね、確かに、清水さんの在り方、視線の持ち方というのは、本当に面白い。だからこそ、先ほどの「敵がいない」ということになるんだと思います。
 
 
 
スピリチュアル・ユニティ?

大里:水木さんは当時の青土社内で、どういった経緯であの本を担当することになったんですか? 企画はどういう形で出てきたんでしょう?

水木:あの時は確か、「そういう音楽が好きだったら清水俊彦さんに声を掛けてみたらどうか」って、社内の先輩にサジェスチョンされたんですね。で、まず紹介されたのが諸岡敏行さんなんですね。諸岡さんというのは、60年代末くらいから清水俊彦さんの活動や執筆を陰に陽にバックアップされていた方なんです。ビクターからシリーズで出たデレク・ベイリー等のカンパニーの日本盤に清水さんがライナーを書くときも、諸岡さんが助言していて、要するにライナーをばらばらに書くんじゃなくて、続き物になっているように書いていつか本にしようという作戦だったらしいんですね。

大里:諸岡さんも、結局『AA』の撮影では捕まえられなかった人のひとりですよね。

水木:彼はシャイっていうよりも、「私ごときが・・・」って、いつも引かれてしまう方なんですよ。間章とも学生時代からの付き合いだったらしくて、柏書房からでた間の2冊の本、『僕はランチにでかける』と『この旅には終わりはない』も彼の仕掛けでした。あまりばらすと、万一絶交されても困るのでこれくらいにしたいですが。

大里:あの方は本当に重要な人なんだけど、結局『AA』には出演していただくことができなかった。大変心残りなことなんですが、実はそういう方はたくさんいらっしゃいます。で、その諸岡さんを通して清水さんに会いに行ったということですか?

水木:そうですね、相談や仲立ちをしていただきました。88年くらいのことだったと思います。

大里:それで『ジャズ・アヴァンギャルド』が出たのが?

水木:90年の夏前ですね。89年に企画が通って。僕は単に、預かった原稿の交通整理というか、あとはタイトルを考えたり、見出しを考えたり、推敲を頼んだりと、すでに諸岡さんと清水さんの間で出来ていたおおまかな構想に乗って進めたという感じでしたね。その後に出る『ジャズ・オルタナティヴ』は、まだしもこちらに任せていただいた部分が比較的大きいですが、大体2冊ともそんな感じで作ったので、諸岡さんがいなかったら成立しなかった本ですね。

大里:外側から見ると、その頃から青土社で精力的に書き始めているっていう印象だったんですが、よく考えたらその前から清水さんはずっと書いているわけじゃないですか。それらの文章っていうのは、本を作るということで初めて集められたんでしょうか?

水木:諸岡さんの戦略もあって、70年代に書いたAACM系、デレク・ベイリー、ロフト・ジャズなどについてのものはひとつの袋に入ってましたね。それ以外のものとしては、『ジャズ・ライフ』にある時期から短いコラムを――軽いコラムっていう体裁なんだけど、まあ書いているうちに重くなるんですが――連載なさっていて、別のプランとしてそれらがありました。現に晶文社から出た『ジャズ転生』はそういうコラム集路線でしたね。

大里:『ユリイカ』がジャズを特集して、結局単行本になるのって、そのあたりですか?

水木:70年代のことですね。『ジャズは燃えつきたか』と、『ジャズ 感性と肉体の祝祭』の2冊ですが、もとは『ユリイカ』編集長だった故小野好恵さんが編集した特集でしたね。それぞれもとの特集タイトルは「ジャズは燃えつきたか」「ジャズの彼方へ」でした。

大里:そのふたつが後に単行本としてまとまったときの責任編集だったか、編集代表が清水さんなんですよね。そのときも確か、間章は『ユリイカ』の特集に対して、清水さんといくつかの論文を除いてはあんなことはクズだ、みたいなことを書いていたと思います。

水木:この話は『AA』にも収録されているかもしれませんが、清水さんの思い出話でときおり聞かされたのは、75年にスティーヴ・レイシーを呼ぶときに、間章とその仲間や、さらに支援するマスコミや評論家の方たちが清水さんの家に集まって、招聘のための事務所代わりにしていたそうです。そのグループの名前を「スピリチュアル・ユニティ」と名付けてたんだっていうところで、清水さんがいつも大笑いをされるんですよ。アイラーのタイトルから取った、その名前がおかしいって思われているようなんですね。でもこちらは、もともとレイシー招聘自体すごいシリアスなプロジェクトだったと思って聞いているわけですから、「スピリチュアル・ユニティ」でも違和感はなくて、そんなに笑われる清水さんにつられて笑うけど、何がそんなにおかしいのかよく分からないんですよ。清水さんとしては、すごい大仰な名前を当時自分たちは付けてしまった、おかしいでしょって笑ってらっしゃるんですね。

大里:確か清水さん、その話はされています。そこに確か、『ユリイカ』のジャズ特集のときに間章がかみついた鍵谷幸信も来てたんですよね。清水俊彦というワン・クッションがあるだけで、とにかく人が一応まとまってしまう。そういう点で本当に偉大な人ですよね。本人自身はオーガナイザーじゃないのに、なぜか周りに人が集まり、オーガナイズされてしまうという。

水木:人をまとめて差配する力とか資質はあまりないような気がするんですけど。

大里:だからかえって人が集まってくるんでしょうね。

水木:スピリチュアル・ユニティって、結局、清水さんの人徳のことだったかもしれないですね(笑)。
 
 
 
いわば音楽と対応した詩を作り上げている

大里:清水さんの文章なんですが、これはおそらく詩人として日本語の硬質な言葉の物質性に向き合って、そこで培われた言葉で書かれていると思うんです。だから日本語として奇妙でしょ。

水木:たしかにその印象はありました。原稿を受け取って、最初はこちらも一瞬「どうしようかな?」と戸惑うことがありました。全編これでいくとどうなるんだろう、どこまで介入したらいいのかなって思うんです。単行本のために外部校正を頼んだとき、その校正者もちょっと困っていました。「これは直した方がいいんですか?」って聞いてくるんですが、それはたとえば句読点の位置とかが微妙に違う印象なんです。なぜかここで切らないでつなげるのか、とか。ここで切った方が普通の読者にはリズム的に入ってきやすいには違いないんだけど、何か別のリズム感覚があったんだと思います。あと、よく言われるのは翻訳調という形容でしょうね。

大里:それは確かに、完全にそうですね。

水木:海外の、英語やフランス語の文献を熱心に読んでいて、それを頭の中で置き換えることばかりしているので、日本語の文章までどこか独特のリズムができてしまっているんじゃないかって。

大里:結局、単行本のときは水木さんは介入はしなかったんですか?

水木:ほとんどしませんでした。

大里:でも、それがよかったですよね。

水木:やっぱり最終的にはできないです。それは著者の持っている文体ですから。ミクロに見れば「あれ?」ていうところは確かにあったかもしれませんが、文章全体を通して読むとやはり介入できない世界がありますから。僕がやったのは、たとえばライナーノーツとして書かれたもののうち、内容が重複している部分などをどういうふうに削っていただくかとか、そういう文章の整理でした。

大里:清水さんの場合、とにかくまずあの文体ですよね。あれはやっぱりすごい。思い出すのはレイシーのソロ・アルバムだったかのライナーで、そのテキストそのものがほとんど詩みたいになっている。そこに書かれているのは、「レイシーは楽曲を鑿みたいなものできちんと削り上げて、でもあるときに真っ二つに割ってしまう。すると、今度はそれを後悔したかのようにきちんと貼り合わせ始めるのだ・・・」、みたいなことなんですね。それってまったく楽曲分析ではない。ただ、鑑賞する側としてはものすごく美しくて腑に落ちる見方っていう。そういう書き方で音楽を語った人って本当にいなかったと思う。レイシーが音楽でやっていることに対して、自分がどういう硬質な言葉で拮抗できるかっていうことを、清水さんは考えていたと思うんです。解説しようとしていたわけではない。

水木:自分は今、このレコードの事実関係を解説紹介してるんだっていう前提があって書いているところはもちろんありますが、でもそこは深入りしないで、確実に自分の文章に持ってきますよね。

大里:でもそれは、印象批評じゃない。そこがポイントだと思う。普通にそういうことをやろうとするとどうしても印象批評になってしまうところを、清水さんの場合はそうはならず、そこから、いわば音楽と対応した詩を作り上げているんですね。そこが他の人が真似できなかったところだと思います。

水木:駆け出しのライターだと、まず編集者に受け入れられないといけないという問題もあるでしょう。その点でおそらく、間章は例外だったんでしょうけど、リスナー代表で書き始めた人たちって、どんなふうに書くとリスナーは分かりやすいかというサーヴィス精神で考えちゃうだろうし。

大里:清水さんの文章は、そういうところから全然離れていました。

水木:元々が音楽業界の人ではないし、詩やアートの世界から来たってことも大きかったのかもしれません。さらに言うと東大の物理学科にいらした。

大里:理系的な思考っていうのを持っていた方ですよね。それがあの硬質な言葉に繋がっていく。でもああいう文体というのはすらすらとは出ないものなんでしょう。

水木:遅筆ですね。迷うし逡巡するし、いろいろ書きたいものはあるけど今の力では書けないといって断念していたのがたくさんあるみたいです。特に新しいもの、90年代以降のものに関しては。「いろいろ書きたいけど、もう頭がぼけてしまって僕には書けない」とかおっしゃって。もちろん謙遜も入っていたとは思いますが。

大里:やっぱり苦しんで書いていらしたんですね。

水木:苦しんでられましたね。朝からビール飲まないと書けないとか(笑)。

大里:新しい知識を得ることは喜びだけど、それを自分なりの表現にするということは相当の苦しみの連続だったと思うんです。だから、繊細な人は酒でも飲まないとやってられないっていうふうになるんでしょうね。その辺が植草甚一とは違うんじゃないか。植草甚一の文体ってなんであんなに読みやすいのかというと、映画評論をやっている時代に、改行を増やせばページ数を稼げる。つまり原稿料に繋がるので、そうやって口語体で書き飛ばしていたらそれが独特の気持ちいい文体を生んだという話なんですね。そういう意味では清水さんはものすごく損をしている。なにしろあの硬質でぎちぎちに詰まった文章ですから。それは詩人の性でしょうね。

水木:そうですね、たとえば当時原稿用紙1枚1000円くらいの原稿を10枚、20枚とか書く前に、いつのまにかレコードを何十枚と取り寄せているし、雑誌や本は買うし読むし、いわゆる投資コストでいうと相当なものになっていたかもしれませんね。

大里:清水さんにとって、文章を書くには言葉を本当に磨きこむことをすることが大切で、書き飛ばすってことはできなかったんですね。ずいぶん推敲の跡とか見られるんですか?

水木:ええ。まとめてバッテンしてあって次にまとめて書いてあるとか。でも無茶苦茶ぐちゃぐちゃっていうことはない。編集者に渡すものは、清書しなおしたりしてましたね。
大里:もちろん原稿って手書きですよね?

水木:もちろんです。当時ワープロが出始めの時代でしたし、結局ワープロ、パソコンは導入しないままでした。最後まで独特の筆圧の高い字でしっかり書いていらっしゃいました。丁寧でしたね。

大里:その時代の人ですね。植草甚一なんて間違うとちゃんとそのマス目を切り取って原稿用紙のマス目を貼りなおしたって話ですから。ところで、考えてみると、植草甚一に代表されるような、ある文化圏みたいなものがあって、僕は清水さんもその中の名前のひとつだと思っていたんです。

水木:それは確かに当たっていると思います。60年代から70年代にかけて、翻訳文化の大きな需要があって、海外の最新の情報を整理して我々に提供してくれる窓口みたいな人が常に各ジャンルにいたように思いますね。海外のジャズ近辺では植草さんが一番ポピュラーで、その少しそばに清水さんたちがおられる、という状況だったのでしょうか。間章もそういう面はなくはないけど、やっぱりちょっと特殊で変な人?がいるっていう。清水さんの文体に話をもどすと、そういう海外の文化や資料に深入りしていく中で、ある種独特の感性が育まれていく、そういうことがあったのでしょうね。

大里:その意味で僕の中では、植草甚一みたいな資料を持っている人に対する憧れっていうのがものすごく育ってしまった。清水さんも資料の人ではあるんじゃないですか?

水木:そうですね、植草さんほど徹底していなかったかもしれないけど、僕が知る範囲では欧米のジャズ、音楽関係の雑誌は常に取り寄せていて、『Wire Magazine』とか、かなり初期から取っていたようだし、それ以外にも『CODA Magazine』『Jazz Hot』とかいろいろ。少なくとも4、5冊は取っていて、常に目を通していたみたいです。ただ僕が出会ったころはすでにそれなりのお歳になっていたためもあって、全部を完全に把握してるっていう感じではなかったと思います。

大里:でも一応は取っていたんでしょ?

水木:ええ、実際大事なところはちゃんと読みこんでるし。

大里:それですよね、驚くべきは。ずいぶんの高齢で、もう海外の雑誌をわざわざ取り寄せて読むことなんて止めても全然問題ないわけじゃないですか。でも、それは止めないし、大切なことはちゃんと読んでいる。
僕らが取材でお会いしたのは5年前のことなので、入退院を繰り返されているころだったんですが、水木さんが最初にあったころは、当然もっと元気だったんですよね。

水木:もうちょっと、くらいですけど。

――『AA』の撮影のときって、清水さんは何歳でしたか?

大里:あ、それで、これこそダンディな話につながるんだけど、清水先生、年齢詐称されてたんですよね(笑)。

水木:詩人としてデビューする頃に、少しでも若い方がインパクトがあると思ってそうしたんだと聞きました。別に芸能人でもアイドルでもないのに、と不思議な気もしましたが。

大里:あれ、『AA』でうかがったときには、確か、前衛を語るときに、年寄りが書いてたんじゃ、若者に信用されないでしょうからってなことをおっしゃったような気がするんですが(笑)。

水木:単行本のプロフィールには1929年生まれって書いてあって確かそれより5歳上だと聞いたはずなのですが、僕も散々酒を飲まされて、酔っ払っていていた時に聞かされた話なので記憶があいまいで、葬儀の時に享年がおいくつかだったか、身内の方に聞いてみた。そうしたら、81で、もうじき82歳の誕生日を迎えるところでしたと。計算しなおしたら3歳若く公表していたんですね。だから『AA』撮影のときは77歳くらいでしょうか。最初に自分が公表したのがそのまま通ってしまい、訂正するタイミングを逸してしまったって、ご本人はおっしゃっていました。

大里:いずれにせよ、その辺のダンディズムっていうか、お茶目じゃないですか。かわいいですよ。

水木:かわいいっていう表現は失礼かもしれないけど当たってる面がありますね。
 
 
 
否定的なものがない

水木:『ジャズ・アヴァンギャルド』というタイトルは、明らかに晶文社から出ていた『ジャズ・フリー』からの本歌取りです。しかし『ジャズ・フリー』よりずっと詳細に追いかけ掘り下げていて、あれを凌駕しているのでは、という自負みたいなものもありました。現に刊行後しばらくして、スミソニアンのライブラリーか何かに『ジャズ・アヴァンギャルド』が収蔵されることになった、と清水さんから教えられて、えっ!と驚いたことがありました。しかし刊行前は、そういう自負がまたタイトルを決めるときのこだわりに繋がり、さらに「アヴァンギャルド」という語が、現在にふさわしいのかという問いも重なっていろいろ難航しました。
『ジャズ・オルタナティヴ』のときは、ニューヨーク新即興派およびそれ以降が射程の中心でしたから、明らかに従来の前衛観とは違うもの、しかし通ずるもの、というニュアンスが欲しかったのです。あれこれ別案も含めて相談しているうちに、結局これが一番いいだろうとなったのですが、一方で「オルタナティヴ」っていう語感が読者にどのように受け止められるか、ということがしばらくひっかかっていました。清水さんにも躊躇がありましたし、僕の方にもありましたね。当時オルタナティヴ・ロックっていう言葉が、ジャンル名としてどんどん広がっていた頃だったので、既存のイメージがまとわりつかないかとか。その頃、『イーター』という雑誌があって、その3号に大友良英さんのインタヴューが載っていたんですね。その中に「オルタナティヴ」という言葉についての定義のようなくだりが出てきまして、それを清水さんに見せたら「分かりました。このタイトルでいきましょう」ってことになったんです。大友さんへの信頼感・期待感が清水さんの中にあったからだと思いますが、本書の「あとがき」にも大友さんの名前が出てますね。しかしいま思うと、なんだか虎の威を借るこざかしい編集者ですね。

大里:いい話じゃないですか。そうなってくると、問題は、じゃあ、今、清水さんの追悼をまとめて載せられる媒体がありうるかっていうことですね。

水木:ウェブマガジンの「JAZZ TOKYO」では追悼をやると聞きましたが、従来の紙媒体の音楽誌ではどうでしょうか?

大里:間章が再び書き始めたときのジャズ雑誌の出方って、ちょっと異常なくらいだったって思うんですよね。アングラからいろんなものが出てきて、それを誰かが次々に文章にして、皆がそれを読んで聴いていた時代。その中で間章のような突出した文章を読んでいると、それに導かれて行き当たるのが清水俊彦さんだったという気がします。間章がこれだけリスペクトしている人っていうのはどういう人だろうって、僕なんかはそういう目で見てましたね。僕よりもっと上の、50代60代くらいの『スイングジャーナル』時代から読んでいる人にとっての清水さんは、ちょっと異端者みたいな感じだったんじゃないかと思うんですよ。確か『スイングジャーナル』で、オーネット・コールマンの『ジャズ来るべきもの』を特集したときに、4人くらいの論者があのアルバムを評論したんです。その中のひとりが清水さんだったと思います。大橋巨泉もまだジャズ批評を書いていて、こんな醜い音楽はないって散々だった。ところが清水さんは最大限の評価を与えるわけです。ジャズ批評は『スイングジャーナル』しかないっていう時代の、そのトップの前衛は清水さんだったっていう印象なんですよね。

水木:そうでしょうね。『スイングジャーナル』で思い出しましたが、確か『ジャズ・アヴァンギャルド』が出た少し後くらいまでだったかと思うのですが、清水さんは『スイングジャーナル』の年間ベスト・アンケートを書いてられました。その頃の記憶ですが、その年間ベストのコメント欄で「自分は前衛的なものが大好きだが、ジャズ・ヴォーカルなど他のさまざまなものも好きだ」って意味のことを書いてられて、僕自身もまだ若かったから「せっかく『ジャズ・アヴァンギャルド』みたいな本を作ったばかりなのに」って、直接言ってしまったことがある。若気の至りで恥ずかしい話なんですが。むしろそうだからこそより広くジャズの素晴らしさに接し続けていきたい、という意思表示のはずだったのでしょう。けれどその頃から、清水さんも妙に覚悟を決められたような印象があります。

大里:ということは、晶文社から出た『ジャズ・ノート』、『ジャズ転生』、そして青土社から『ジャズ・アヴァンギャルド』があり、その辺りから“前衛しか聞かない人”みたいなイメージを我々がつくりあげちゃった、ということでもあるんですね。

水木:そうかもしれませんね。僕自身も『ジャズ・アヴァンギャルド』の元原稿を読みながら、この人はやっぱりすごいと思って、その思い入れで清水さんを押し出してしまった面もなくはないですね。

大里:アヴァンギャルドに押し込めてしまうには惜しい方だった。

水木:いろんなアート、詩、文学にも明るかった人ですしね。音楽だけにかぎってもいろんなテイストというか感性というんでしょうか、そういうものが自然につかみ取れる人だったと思います。

大里:けれども最前衛のジョン・ゾーンをはずさないっていうことがすごいですよ。

水木:何がすごいとか何が重要だとか、そういったことを嗅ぎ取る、その分かり方というか判断力ですよね。僕は後年、お話を聞きながら感じたことですが、高柳昌行の、段々ノイジーになっていく演奏のすごさ、真骨頂を同時進行的にちゃんと分かっていらっしゃった。その把握力の深さというのが尋常でないというか・・・。

大里:間章ってある種の思想的バイアスがかかるから、見えないものがあれこれ出てくるわけです。僕は間信奉者だったから、間が高柳ダメって言うと、そうかダメなのかと思っちゃう。で、その後の高柳をほとんど追いかけなくなってしまう。そういう思いこみってあるんですよ。ところが清水さんはそういうバイアスがかかっていない人なんですね。360度すべて見渡して、どのジャンルでも評価していったというのはすごいことじゃないですか。

水木:バイアスって、要するにエネルギー源でもある。あれじゃなくてこれだって、何かを否定することによって別のものを際立たせていく人も多いはずですが、清水さんの場合、そういったやり方と違うような気がします。もちろんレトリックとしてそういう語り方をすることはありましたが。

大里:そう、否定的なものがない。
 
 
 
やり残したこと、続いていくこと

水木:これは僕の中でも消化しきれてない話なのでうまく言えないかもしれませんが、油井正一さんの思い出話をしたときには、珍しく厳しい口調で、しかし非常に無念そうな感じでお話をされていました。清水さんと油井さんはもちろん年の差もありましたが、昔からお互いに認め合ってやってきていたと言っていい面があったと思うのですが、あるとき、清水さんが油井さんを誘って阿部薫を聴きに連れていったそうなんです。そのとき、油井さんが「だめだこれはわからない」というような反応をした、と。ただ、僕ら後の世代の感覚からすると、阿部薫と油井さんはフィットするだろうか?というか、とにかくライヴに連れていっただけでもすごいと思ってしまうんですが。そのときふと感じたのは、清水さんにとっていくつもの分岐点というか、やはり肯定と否定の分かれ道があって、それを引き受けながら進んできたんだろう、と。その話を聞いたとき、少し気の遠くなるような感覚がありました。

大里:やはり新しいものが出てきたときに、どういう反応を示すことができるか、ということですよね。ブッチ・モリスが出てきたときにも、清水さんはすごい評価していたでしょ。

水木:ああいうことって、どうして分かるんでしょうね?といまさらのように驚くのもへんですが。

大里:そうなんですよ。それで、そういったことは音楽だけではなく、批評の面でも同じことで、清水さんの場合、他人の評論をめちゃめちゃ読んでいて、それでいいところを見つける。僕の文章さえ読んでらした(笑)。

水木:本当に若い人のもちゃんと読んでいて、いいと思ったらすぐにいいって言ってくれますよね。間章に対してもそうだったのでしょうね。これも笑い話みたいに語ってられましたが、初めて間と二人きりで会ったとき「上から下まで黒ずくめの怖そうな人で、僕はどうしようかと思った」とおっしゃってました。

大里:どこか子供っぽさみたいなのがきっとあったんですよ。イノセンスみたいなものがあったと思う。だから、あの硬質な文章を読んだ感じと、実際に会った感じがあまりにも違う。水木さんも最初はそういったギャップってあったでしょ?

水木:いや、僕は周囲の人たちから予めいろんなことを言われていたので、そんなにびっくりはしませんでした。でもそうは言っても、どんな硬質な研ぎ澄まされたオーラの人かと思ったら――好々爺というと言い過ぎかもしれませんが――、僕が最初に会った時はそんなお歳でもありませんでしたが、普通のやさしいおじいさんという印象でした。

大里:たとえば植草甚一に代表される高等遊民みたいな人たちが、海外からの文化移入を支えてきたっていう歴史があって、清水さんの場合もそういった見方はできると思います。だってジャズなんて、しかも外国から来た変なジャズなんて、心のゆとりがないと聴けないですよ。そのことを考えると、当時はある「階級」というのがあったかもしれない。今日我々は、情報を均等に扱っていますが。

水木:清水さんはそういう「階級」に属しちゃうような人じゃない印象がありますが、ただ、そういうものがわかる感性を育んでいったんですよね。それを思うと、インプットが多くてアウトプットが少なかったというのが残念です。それはもちろん、こちらの責任でもあるんですけど。それからさっきから何度か言おうと思って、ありきたりな言い方なので言いづらかったんですが、晩年の清水さんにとって孤独感というのはやはり大きかったのではと思います。昔からずっと聞きつづけ書きつづけてきた過程で、自分の感じていることについて本当の理解者がどれだけいるか、という孤独感と言ったらいいでしょうか。もちろん周囲にはいたのですが、昔はジャズというとある種大衆的な人気もあり最先端でもあったという時代を経験してこられると、なんていうのか、ある種のシーンのような感じで受け入れられたり反論が出たりして、とにかく層としての反応があったと思うんですが、それがある時期から、どうもそういう感じではなくなった・・・。

大里:逆に言えば、『ジャズ・アヴァンギャルド』とか出て以降、むしろ若い人が清水さんに触れて認識をあらたにする、みたいなことはあったんじゃないですか?

水木:ええ、コンサートに行ってそういった若い人たちをはじめいろんな人と交流する中で、楽しんではいたと思いますけどね。ただ、僕は単行本の担当だったから、やはり本というのがひとつ指標としてあって、きっと清水さんの中にもあったと思う。さらにもう一冊作りたいというような気持ちですね。『ジャズ・オルタナティヴ』以降、僕の方も、是非にと言いながらうまくまとめられないし、清水さんもそれだけの材料はすぐに提出できないしっていう焦りがあったと思います。次の大きなテーマというか主題が完全には浮上しきっていなかったということもありますが。いろんな人々と言葉を交わす中で、お互いに理解が通じているとか、同じものを見てお互いにいいと思っているという共有感はあっても、本当にしっかりしたものを書いて、それをしっかり受け止めてもらえる、そういう場が自分でも作れないし、周りからもできてこないという焦燥感と孤独感ですね。それはとりもなおさず編集者としてそれを作れなかった、ということなんですが。

大里:でもあの2冊の単行本があったおかげで、我々は清水さんの仕事をまとめて読めたんです。

水木:ただ、昔のものをまとめるんじゃなくて、現在進行形のものをどんどん書きつつ、同時に単行本を作っていければ一番よかったという思いは残りますね。清水さんの仕事のペースだとなかなかそうもいかないので、贅沢な希望といえばそうかもしれませんが。しかし、おそらく清水さん自身の中にも、何かやり残したという気持ちが本当はあったんじゃないかと。こんなことのうのうと言えた義理じゃないけど、正直言うとそういう怖れのようなものはまだ残っています。

大里:清水さんは間章よりずっと長生きしたわけだけど、やり残したという思いはあるんでしょうね。常に音楽の第一線でいようとしていたし、実際にそうだった。だって考えてみると、間章はジョン・ゾーン知らなかったんですよ。でも清水さんは知っていた。ちょっと不思議ですね。
今日は、若輩で全く語る権利のない僕などが、推測で色々喋ってしまって反省しているんですが、まあ僕とか、僕から下の世代から見た清水さんの印象って大体こうかな、ということで許していただきたいと思います。
健康上の理由もあって、周囲からは反対の声もあったんですが、それでも『AA』でインタヴューできて、僕は本当に嬉しかったですね。体調が優れなくて苦しかったと思うのですが、「私なんか」と謙遜しながらも一生懸命話してくださった。こうやって、あの緻密で硬質な文体と、非常に柔らかなお人柄のギャップを知ることができたのは本当に貴重でした。青山監督も感銘を受けていましたよ。
つい先日、詩人の吉増剛造さんにお会いして、清水さんが亡くなられた話をしたらご存じなくて、ショックを受けていらした。ぽつりと「ひとつの時代が終わったね」と仰っていたのが印象的でした。

水木:そうですか。確かに「ひとつの時代」ですね。けれど、清水さんの場合、あの眼差しの奥から、いつも前方を、誰よりもはるか前方を見ようとされていた印象があって、これから何が来るのか、何が起きるのか、絶えず見定めようとされていて・・・。だから今後、もし今、清水さんが生きてられたら、どう感じられるのだろう?って、きっといつもそんなことを心のどこかで指標のようにしてしまう気がします。そういう意味では、終わったようでいて、まだ続いているような、不思議な感覚ですね。
『ジャズ・アヴァンギャルド』の中のスティーヴ・レイシーを論じた文の見出しに「ジャズを終わりのない冒険にむけて研ぎすましつづけること」というのがありましたが、清水さんご自身も不断に研ぎすましつづけてきたし、その意思だけは今でも続いているんだ、つながっているんだという、不思議な感覚が残っています。

2007年6月3日、大里俊晴宅にて収録/再構成