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黒沢清×万田邦敏×篠崎誠によるドン・シーゲル鼎談!

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●『ガンファイターの最後』
万田:じつは僕、『ガンファイターの最後』は初めて見たんですよ。奇妙な映画でしたね。単なるニューシネマウエスタンとも違うし。

黒沢:僕も初めて見ましたけど、異様ですよね。主人公のリチャード・ウィドマークは何かにこだわっているようなんだけど、何にこだわっているのかよく分からない。町全体と激しく対立しているようなんだけれど、いったい何がどう対立しているのか。そして最後は何もかも思うようにならぬまま抹殺される。こんなものをよく撮ったなあ、と。ほんの数年しか違わないんだけど、『ドラブル』や『突破口!』なんかとはずいぶんちがう。

篠崎:『ガンファイターの最後』、僕はけっこう感動しましたよ。途中で監督がロバート・トッテンからドン・シーゲルに交代して、ご存知のアレン・スミシー名義で世に出た作品で、正直に言うとそれほど期待してなかったんですけど。でも、見てみると、ふたりが監督したことが、かえってリチャード・ウィドマークを底の知れないキャラクターにしているような気がしました。中盤でリチャード・ウィドマークが彼を慕っている青年と釣りに行くシーンがすごくいい。まるで小津安二郎の『父ありき』(42)みたい。釣りをしながら青年が「女の人を見てるとどうしたらいいかわからなくなる」って言うと、ウィドマークが「じゃあ井戸水をかぶれ」と。「そうすると治るの?」って訊くと、「いや俺の場合は効かないけど」とか言ってすごく無責任な忠告をのんびりと楽しそうにしているわけですね(笑)。そういうのどかなところに、遠くで犬の鳴き声がきこえて、ふっとウィドマークが視線を向けると、橋を渡って保安官を辞めさせようとする人たちが集まって来るのがみえる。ああいう目線のなんてことないつなぎがすごくいいんですよね。登場人物たちの眼差しがある部分で物語を進めていく。いろんな人たちに見つめられることで、どんどんリチャード・ウィドマークが孤独になっていくんですね。

黒沢:でも、なんで彼はあんなに嫌われてるの? 彼が町のみんなの過去を知っているということらしいんだけど、それが何なのかはわからない。いったい何がこの人たちの過去に……。

篠崎:彼は昔から保安官をやっているから、町の人たちの弱みを握っている、と。だから邪魔になるということなんでしょうけど、たしかに有力者たちの反応が過剰なんですよ。

万田:それもそうなんだけど、すでに自分が時代遅れの存在であることを何となく自分でもわかっているようなのに、辞職を勧められてなぜあそこまでそれを拒否し続けるのか、それが物語上、一番わかんないんですよ。時代も変わったし俺の出番も終わったか、って立ち去っていってもいいんですけど、なぜかウィドマークにはそれができない。そういう弱気が彼にはない。というか、強気と弱気に引き裂かれているような感じ。それに辞職の勧告をしに行く町のお偉方がみんな彼を怖がっているんだけど、その怖がり方が尋常でない。よくわからないですよね。

黒沢:暴力が支配しているとは言え、いったい何がこの人たちの過去に……。

篠崎:誰か共謀して人を殺したとか…。それにしても極端ですよ、行動が。とりあえず会いに行って話してみて、ダメなら殺すって……。めちゃくちゃですよね。殺す前にもう一歩段階がないのか。

黒沢:それに殺すなら、もうちょっと隠れてこっそり殺しゃいいのに。堂々と狙って撃つ。そんなことしていいのかって。変な映画なんだよね。

万田:ものすごく抽象的なラストシーンですよね、あれは。だいたいこれはどういう経緯でアラン・スミシーになったんですか?

篠崎:まだ日本語には翻訳されていないんだけど、「a Siegel Film」っていうシーゲルが自分の全作品について語った自伝があるんですが、もともとシーゲルがトッテンをテレビ・シリーズの監督として抜擢して、彼ならば大丈夫だろうと監督として推薦したんだけど、うまくいかなかったらしいんですよね。ウィドマークが「これ以上ロバート・トッテンが監督するんだったら、芝居できない」とまで言い出して、それでしょうがなく残務処理のためにドン・シーゲルが出てきた。さっそくこれまで撮影した分のラッシュをまず見たらしいのですが、出来も決して悪くなかったってシーゲルはいってます。正直、25日分も撮影して今になってトッテンを解雇する理由がわらかないと。結局11日間の追加撮影を行って編集した結果、ほぼ半々くらいがシーゲルの撮影したものになったようです。まあ、シーゲルとすればロバート・トッテンを立てようとしたところもあって、自分はクレジットを出さなかった。だけどロバート・トッテンまでが自分のクレジットを下げたということで、アレン・スミシー名義になったようです。冒頭とラストの駅のシーンはシーゲルが撮ったって公言していますね。

万田:ああ、あそこは凝ってたね。棺桶を一つ載せて列車が駅を出ていく。ものすごく寂しい感じの映像なんだけど、ワンカットのままパンしていくとにぎやかな街の様子になる。同時に時制も過去になっているんだけど、最初見て、それに気付かなかった。おしまいまで見てから、もう一度オープニングを見直しちゃいました(笑)。

篠崎:ラストで汽車に女性が乗り込むところ、なぜかスローモーションになってますよね。なんであんなことしたんだろう。面白いことは面白いんですが。それと途中でもう一回汽車が来るところがいいんですよ。柵の前にいっぱいいる牛が列車に驚いて急にワーって逃げる。西部劇でこういうカットって今まで見たことがない。そういう細部がおもしろかったし、あとはやっぱりアクションの始まりの早さ。馬小屋の2階に隠れた男が馬上のウィドマークを狙って銃を撃つところなんかも、モンタージュもしてるんですけど、最初に背後から撃ち始めて落馬したウィドマークが物陰に隠れる瞬間とか、反撃して相手が地面に落ちるまでの決定的な瞬間はワンカット。そういう決定的なアクションの起こる瞬間がとにかく早い。それから、室内シーンの照明が素晴らしかったですね。すごく陰影の濃い映像で。サルーンに瀕死の男が担ぎ込まれる場面でも、部屋の奥のほうでは娼婦の女が飯をガツガツ食っていたり。密談しているときに人々の顔がアップになると、みんなアルドリッチの映画みたいに汗かいていたのがよかった。強烈な構図のローアングルが一瞬入ってきたり。アルドリッチの『傷だらけの挽歌』(71)をちょっと思い出しました。あれはトッテンの趣味なのか、シーゲルの趣味なのかはわからないんだけど。

万田:そうそう、あの汗の感じ、よかったなあ。それと、あの娼婦はちょっと怖くなかったですか? まるで幽霊みたいで。

黒沢:メイクの厚塗、あれはたしかに異様な感じがしましたね。

万田:そう、メイクが妙に暗くてね。ほとんど死人ですよ。

篠崎:あの娼婦が出てくるシーンはちょっとマリオ・バーヴァっぽいというか、ウィドマークが馬に乗って画面の奥からカメラの手前を歩いていくと、奥の方で女が髪の毛をいじっているのが見えて、そこへ急にキャメラがピョーンと寄るんですよ。そこでカメラが室内に切り替るとちゃんと髪の毛をブラシで整えてるアクションで繋いで撮ってるんです。しかし、非常に意味ありげに出てきた割りにあの女はリチャード・ウィドマークにまったく絡んではこないんですよ(笑)。

万田:女が何回か絡みそうな視線を送りはするんだけどね。

篠崎:何かきっと過去に何かあったんでしょうけどね。あれは撮り直したりカットしたことによるデコボコということになるのかなあ。

黒沢:設定されてる時代は実は結構新しいんですよね。最初の撃ち合いのときに電球が割れるカットがあったから、「ああ、もう電気が来てるんだ」って思った。自動車が走っているカットもあったし、きっともう20世紀に入っているという設定なんでしょうね。この映画が作られた当時、西部劇なんだけど20世紀に入っていて、もう時代遅れになってしまった男の物語みたいなものが、ある種の流行としてあったのかしら。サム・ペキンパーもそういう話を撮ってますよね。

篠崎:『ワイルドバンチ』(69)。セルジオ・レオーネの『ウエスタン』(69)では鉄道の敷設が物語の大事なところに絡んでいました。

黒沢:ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向って撃て』(69)なんかも同じだし。

篠崎:あれも同時期ですね。きっと68年以降の何かがあるんでしょうね。なんとなく古びた映画に見えるんだけど、いきなり着弾とかちゃんと血しぶきが出たりもするし。

黒沢:まあ、そういったことで当てようとした企画なんじゃないかしら。リチャード・ウィドマークが「最後に撃たれて死ぬのなんか嫌だ」とか言いだすと、「いやいや、今これが受けてるんですよ」とか言ったりして……(笑)。

篠崎:あのラストシーンは、とってつけたようで、ものすごく変ですよね。ウィドマークとしてはお葬式に行かなきゃいけないからなのかもしれないけど、なんであんな瀕死の状態で教会へ近づいていくのか。そしてそのときのものすごいクローズアップ。ふつうに考えたら行くまでに撃たれると思うんだけど、でも町の人たちも撃つのをウィドマークが教会から出てくるまで待ってるのもおかしいですよね。ただ、ウィドマークが教会から出てきて、ふっと視線を送ると建物の上やいたるところに狙撃手が隠れているのがわかるあたりの目線による空間の把握ぶりはいいんですよ。そうした古典的なつなぎや演出も随所にあるんですが、いわゆるウェルメイドな映画とは違う気がするんですよ。

万田:ウェルメイドとはほど遠いですよ。古典的な西部劇としてももちろんそうだし、ニューシネマウエスタンとしても『明日に向って撃て』のようなほどよくまとまった感じが全然ない。アラン・スミシーとなったことが関係しているのかいないのか、そのへんのところはわからないけど、すごくいびつですよね。

篠崎:でもおもしろい。70年代のものとは違う過剰さがあって。

万田:いわゆる「テーマの映画」じゃない。70年以降に噴出するニューシネマウェスタンのような予定調和な湿り気も社会告発もない。まあ、だからこそシーゲルの活劇映画はおもしろいわけですけど、その面白さを言葉にして説明するのが難しい。ひとつひとつのシーンを、あの画面がこうだった、ああだったっていうふうにしか語れない。

篠崎:限りなく起こったアクションの説明をするしかないんですよね。


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●『殺人者たち』
黒沢:『殺人者たち』も昔見たときはもう少しストレートな犯罪活劇のように思えたんですけど、相当に変てこりんな映画ですよね。リー・マーヴィンが自分の目的に沿って動いているようでいて、『突破口!』の主人公、ウォルター・マッソーに比べると、確信を持って軽やかに動いてはいない。マーヴィンは、ジョン・カサヴェテスを殺したときに、なぜ彼は平然と撃たれたんだ、っていうことを気にして調べていくんだけど、彼がなぜそのことを気にしているのかはよくわからない。『ガンファイターの最後』のリチャード・ウィドマークほどではないにしても、リー・マーヴィンは意外と複雑で錯綜した感じがありました。最後には結局射殺されてしまうわけだけど、リー・マーヴィンは何をしようとして、何に失敗したのかっていうのがすごく複雑で、見ていておもしろい。原作はヘミングウェイですよね?

篠崎:そう。原作はだいぶ昔に読んだきりでよく覚えていないんですけど、すごく短いものですよ。たしか、ふたりの男が酒場で話をしているだけだったような気がします。ドン・シーゲルの前にも、ロバート・シオドマクが映画化してますよね(『殺人者』(46))。

万田:僕は久々に見直したんだけど、『殺人者たち』は異様におもしろかったなあ。リー・マーヴィンとクルー・ギャラガーのコンビすごくよかったということもあるんだけど、冒頭カサヴェテスを殺しにいくあたりの流れからして、エキストラの配し方から何からものすごく考えられているというか。盲学校の看板が映って、杖をついている老人とすれ違うようにふたりが乗り込んでくる。この、「乗り込んできたぞ」って感じがよくでてる。ふたりはずんずんと建物の中に入っていって、盲目の事務長か何かのおばさんの部屋に入る。それで、カサヴェテスがどこにいるかをそのおばさんに訊くんだけど、そのときにギャラガーが花瓶の花を抜いておばさんのデスクの上に水をサラサラって流すでしょう。あ、おばさんはその音を必死に聞こうとしているな、尋常じゃないことが起ってるな、っていうことを耳で必死に探ろうとしているな、っていうことがひしひしと伝わってくるでしょう。目の見えないおばさんが、異様な者たちが来たことに怖がってるってことがものすごくよく伝わる。デスクの上に花瓶の水をサラサラっと流すだけなのに、それがおばさんにとってはものすごい恐怖の対象になっている。その怖さが一発で出ている。おろおろするだけで要領を得ないおばさんに、しびれを切らしたかのようにリー・マーヴィンがおばさんを痛めつけちゃうんだけど、直接的な暴力の行使は唐突で、一気にアクションがあるんですよね。もう、のっけからこんなにすごかったんだと思ってね。

篠崎:盲学校って設定がいいんでしょうね。その後、リー・マーヴィンたちがカサヴェテスのところに行ったら、彼は生徒たちと研修をしているんだけど、誰かが来るのを察知したカサヴェテスが「今日の授業はこれまで」って言ってみんなを追い出すじゃないですか。僕はそうやって生徒たちが出て行くタイミングがもっと早かったように思い込んでいたんです。みんなを巻き添えにしないようにあらかじめ追い出しておいて、ガランとした部屋の中で逃げもせず殺し屋がくるのを待っている。そんな風に記憶してたんですが。見直してみたら「いやいや、まだ周りに人がいっぱいいるよ」って状態で銃を撃っちゃうんですよね。こんなところで撃たなくても、みんな目が見えないんだからもうちょい待てばいいじゃないって思うんだけど、それはやはり映画の経済原則から言って1秒でも早く撃たなくちゃいけないってことなんでしょうね。

黒沢:あと女でも平気で殴るよね。そういう部分も画期的なことだったのかな。

万田:痛めつける相手に差別はないっていうね。

篠崎:暴力に差別はない(笑)。リー・マーヴィンってそもそもそういう位置付けで強烈な印象を残した人ですよね。フリッツ・ラングの『復讐は俺に任せろ』(53)でも煮えたぎるコーヒーを女の顔に引っかけてましたから。いずれにしても、暴力に差別はないっていう高らかな宣言がなされていると(笑)。『刑事マディガン』でもウィドマークの刑事がいきなり重要参考人と思われる男の秘書のおばさんの机を持ち上げて威すんですよ。ちょっと中学生かよって攻撃なんですが、本気ぶりにおばさんが慌てふためくんです。

黒沢:ただ、あれは笑ったけどね。銀行強盗をするときに、ロナルド・レーガンが、「俺が図面を書いてきた」って図面を出して説明しだすでしょう。「ここに郵便局の車が来て……」とか言って。それが別に見せるほどの図面じゃないんだよね(笑)。

篠崎:そうそう、あれは絶対ありえないですよ。あれじゃ距離感とかまったくわかんないもの(笑)。幼稚園児か長学生が書いたような図面ですよ。ドン・シーゲルともあろうものが、どうしちゃったんですかね。

黒沢:やっぱりロナルド・レーガンが嫌な奴だったんじゃないの? それで嫌がらせでギャグでも入れてやろうかって思ったんじゃない(笑)?

篠崎:ちょっとバカにしてやるかってね。美術部が忘れちゃったんですかね。あるいはその場でレーガンが地図がいるんじゃないかっていいだして。で、面倒くさいなって助監督あたりがその場で描いたりして(笑)。でもフリーハンドで書いた小学生の落書きみたいなものをあんなに大事そうに出してきて、それを誰も笑わないで見てるのはかなりおかしいですよ(笑)。

黒沢:計画自体も案外まぬけなんだよね。車を何秒で追い越せるかなんて綿密にやってるわりに、最後は結局力づくで金を奪うことになってるし。

篠崎:意外と詰めは甘いですよね。あと、よくわからなかったのが、なんでアンジー・ディキンソンが心変わりしたのか。

黒沢:そこはね、わかんないの。アンジー・ディキンソンは何度も裏切るんだけど、どこに本心があるのかと言うと……どうなんだろうね?

篠崎:冷静に考えてストーリーを追っていくと、金を強奪したあとに何かがあったってことなんでしょうけど、でもその経緯は描かれていない。まさにディキンソンは裏切る女として出てくるだけですよね。そのわりには彼女も詰めが甘くて、カサヴェテスに瀕死の重傷を負わせておきながら、彼を見失うとさっさと帰ってしまう。おいおい、カサヴェテスはすぐ近くの茂みに伏せてるじゃないかって。

万田:ディキンソンに最後の最後で裏切られたと知ったときのカサヴェテスの顔はいいですよね。あそこでもう彼は死んだんですよね。

篠崎:そこですでに心は殺されてる。そこが冒頭のカサヴェテスが殺害されるシーンに呼応してるんですよね。『突破口!』もファーストカットでも「チャーリー・バリック」ってタイトルが出てメラメラと一瞬燃える感じがあって、「何だろう?」って思っているとラストでその意味がわかる仕組みになっている。『ガンファイターの最後』も最初と最後が繋がっている。撮り直しを命じられた結果とはいえ、『ボディ・スナッチャー』の冒頭のラストもそうですし、何か円環的な構成にこだわっているんですかね。それで思い出すのはカサヴェテスなんです。『アメリカの影』(59)や『ラヴ・ストリームス』なんかを何回か見直していて気づいたんですけど、カサヴェテスもそういう円環的な繋げ方をやってるんですよ。必ずしも冒頭とラストみたいにわかりやすい形ではなくって、物語の中盤で時制が戻るというか歪むんです。『アメリカの影』ならば、あの冒頭のシーンは、時系列的には中盤にある黒人の兄弟が喧嘩して出ていく直後に位置するはずで、流れてる音楽がまったく同じなんです。『ラヴ・ストリームス』の子供を抱きながら出てくるカサヴェテスの冒頭の一連の場面も、時間軸で言ったら、酔っ払って階段から転げ落ちたあとの場面です。よくみると鼻の傷が出来てるんでわかる。明らかに傷のメイクをしています。カサヴェテスの映画って必ずそういうところがあって、明らかに編集の段階でそういうふうにいじってるんですけど、そういう部分はやっぱり師匠であるドン・シーゲルから無意識的に受けた影響なのかもしれない。でもタランティーノのように、物語を劇的にみせるための編集とはちょっと違うんです。


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●『突破口!』

篠崎:『突破口!』はフィルムで見てる気がするんです。名画座ですね。たぶん『ダーティハリー』(71)なんかと同時期に見たような気がします。まだ『ダーティハリー』のボロボロのフィルムが回ってました。『キングコング』が77年の正月映画で、その前の『ジョーズ』(75)とか、『タワーリング・インフェルノ』(74)とか、そのへんの映画ではじめて全国で何百館スタートっていうのをやるようになったんですよ。そうすると今度は倉庫がいっぱいになってきて、そのぶん古いフィルムを急にジャンクし始めちゃったんですよ、70年代の後半から。『突破口!』を観たのは、ちょうどそういった時期だったと思います。「ああ、『ダーティハリー』と同じ人が撮ってるんだ」なんて思いながら観ていましたね。

黒沢:でも、最初に派手な銀行強盗があって、「よしよし、『ダーティハリー』と一緒だ」と思っていると、すぐに拳銃を橋の上から投げ捨てちゃいますよね。初めてこの映画を見たときには、「あれ? 捨てちゃうの」って拍子抜けしました(笑)。てっきりドンパチやるものだとばかり思ってたんで。ドンパチは最初だけで、その後二度と拳銃を出さないっていうのには意表をつかれました。

篠崎:なにしろ最後は、ウォルター・マッソーの抱擁攻撃ですからね(笑)。ハグが最もすごい凶器になるっていう映画は他にないんじゃないですかね。ウォルター・マッソーが「やあ、やあ」ってハグしてきて、ジョン・ヴァーノンも「よせよ」って感じで笑ってるじゃないですか。それを見てジョン・ヴァーノンがウォルター・マッソーと通じていたと勘違いして怒り狂ったジョー・ドン・ベイカーが車で突っ込んでくるんだけど、車が突っ込んでくる本当にギリギリのところまでヴァーノンの顔が笑ったままなんですよね。あれがものすごいリアル。

黒沢:あれはすごいよね。一か八かの攻撃だと思うんだけど、なぜかうまくいくんだ。そのあとにウォルター・マッソーが飛行機で逃げようとするんだけど、飛行機がバッタンと仰向けに倒れて、逆さまになった操縦席からブラーンって(笑)。その状態のまま、爆弾を仕掛けた車のトランクをジョー・ドン・ベイカーに開けさせようとするわけじゃない。あれもうまくいったからいいようなものの、もしこちらの思い通りに動いてくれなかったら一体どうするんだよってことですよね。でもそれがころっとうまくいく。そのあたりが映画のおもしろいところでね。

篠崎:冒頭の銀行強盗のシーンも何回も見直すんですけど、いいですよね。今だったら全部説明的に描いちゃうんでしょうけど、たとえばウォルター・マッソーの奥さんが撃たれたってことは後からわかるじゃないですか。バーンって車のドアに撃たれた穴が空くカットがあるだけで、しばらく間を置いて、警察を巻いて助かったってところで、ようやく車がヨロヨロし出すっていう。それから奥さんが死んだとき、ウォルター・マッソーが最後にキスをするんだけど、その後情け容赦なく爆弾を仕掛けていくでしょう。でも、ウォルター・マッソーは死んだ奥さんをずーっと引きずってるように見えるわけです。で、結婚指輪を外す。あの口づけひとつで、このふたりに深い夫婦関係があったんだなってことが見えてくる。ああいう描写のあり方ですよね。今あれをやるとなると、それこそ幸せだった過去のシーンでも入れなきゃ伝わらないのかもしれないけれど。

黒沢:あの奥さんが死んでからも、彼女が裏側から映画全体を支えてるんだよね。“Charley Varrick”と書かれたパイロット・スーツ、たぶん奥さんと一緒にやっていたであろう曲芸飛行のスーツを焼いて、映画は終わるんだけど、“Charley Varrick”って、ウォルター・マッソーの役名でもあると同時にこの映画のタイトルでもあって、冒頭のタイトル・シーンでも焼かれているパイロット・スーツが出てくる。最後になって分かるのは、ああやってパイロット・スーツを燃やすことで自分を死んだことに見せかけようと仕組んでるんだよね。つまり、奥さんの死があって自分自身の仮の死があって、そのふたつによって自分は生きているという物語がそこから生まれてくる。あるいは『ドラブル』も、なんだか国家に大変なことが起こっているようなんだけど、マイケル・ケインの行動がいたってプライヴェートで、彼の行動は逐一子どもを助けるためだけのもので、助けて終わりっていう感じ。これは70年代の映画に共通する感覚なんでしょうか。きわめて個人的な物語だけがそこで語られていて、でもその裏側には計り知れない絶望と諦念が広がっている。

万田:自分の行動の拠り所とか正当性を、心理にも社会にも求められないっていう状況があったんじゃないかなあ。だからといって、それを心情として解消しようとはしない。うじうじ悩んだりしない。ひたすら行動する。行動するしかないっていう感じ。だから行動がむき出しになるし、エスカレートもする。それが暴力に関わると、その暴力性が際立つ。たとえばこの映画では車イスの銃器店の店主に対する暴力がそうだし、『殺人者たち』では盲目のおばさんを痛めつけることにもなる。そのことの酷さっていうか、その暴力の極みがね……。でも同時に、不謹慎かもしれないけど、それは面白いんですよね。痛快でもあるんですよね。常識的にいえばひどい奴らだし、怖い奴らなんだけど。でも彼らは何かに絶望したからそうしているわけじゃなくて、つまり「絶望」とか「諦念」なんかで自分の暴力性を正当化しようなんてぜんぜん思ってもいない。

黒沢:でも明るくは作ってないよね。

万田:ええ、明るくは作ってない。たとえば『ダーティハリー』でも、ハリーってすごく暗い人だなとは思ってたんですよ。アンディ・ロビンソン演じるサソリを最終的には殺すっていう、本来ならば気分がスカッとしていい話がなんでこんなに暗いんだろうって。結局、彼が自ら辞職することが、ストーリー的には重要なテーマになっているんですよね。つまり、ハリーは結局のところ敗北している。「絶望」と「諦念」を味わってしまっている。そのことのテーマがものすごく重く見えたんです。異様に暗く、地味な映画に見えた。

篠崎:今のとにかく撃ちまくって派手に壊すっていうアクションの流れっていうのはやはり『ダイ・ハード』以降ってことになるんでしょうかね。たとえば20~30年前の映画のチラシには、必ず「巨大な11大見せ場」とか「何分に1回のアクション」みたいなころが宣伝文句として書かれていましたけど、今だとそれが宣伝文句にはならない。今はみんな、始まっちゃえば延々と壊しまくって、それぞれのアクションもどうカウントすればいいか分からないようなものになってますよね。

黒沢:最近、僕も『ダーティハリー』を見直したんですよ。ただ、万田の印象とは違い、DVDで観る限り、そんなに暗いとは思わなかった。やっぱり面白いなあ、と思いましたよ。でも、あの巨大な拳銃を両手で握って撃つっていうのは、よろしくない流行をそのあと作っちゃいましたよね。そういう意味で功罪ともにあると思います。不必要に強力な火器を持ってアクション・シーンが始まるっていう。今はそれが行き着くとこまで行ってるんでしょうね。その傾向は、ひょっとすると『ダーティハリー』から始まったのかもしれない。まだ『殺人者たち』ではサイレンサーなんかがついていて、ピストルは殺しの道具として使われてるんですけど、『ダーティハリー』では撃って人を殺すだけではなく、車に穴を空けて横転させるは、何か破裂させるはという。

万田:そう。そういう派手な部分は公開当時のウリでしたからね。でも、ハリー的な暗さは、他のシーゲルの映画にもずっと漂ってますね。『ドラブル』にしても、主人公は奥さんとうまくいってないし、『刑事マディガン』(67)もそうだし、『殺人者たち』のリー・マーヴィンもカサヴェテスに妙な引っ掛かりを持つわけですよね。

篠崎:そうそう。黒沢さんが言うように、『殺人者たち』でも物語上は、リー・マーヴィンがなんでそんなこだわるのか説明されてはいないんですよ。だけどカサヴェテスの表情に張り付いていた何かに、彼は気がついちゃったわけでしょ。気がつかなければ、あんなにこだわらないですもんね。リー・マーヴィンだって、初老を迎えているし、このヤマで最後にする、みたいなことを言うじゃないですか。そういう自分の状況とカサヴェテスの諦めが複雑に絡み合ってるんですよね。あれだけ暴力の限りを尽くしながら……。それで物語は、変な方に、変な方に進んでいく。『突破口!』のウォルター・マッソーはそういったものを確実に引きずってますよね。



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●『ドラブル』

万田:『突破口!』の次作の『ドラブル』は、主人公がマイケル・ケインで、この時期マイケル・ケインの出てる映画で、リチャード・フライシャーの『アシャンティ』(78)があって、『ドラブル』では誘拐された子供を必死に助けようとするけど、『アシャンティ』では奥さんがやっぱり誘拐されるでしょ。それと『テレフォン』(77)にも出てるドナルド・プレゼンス。で、『テレフォン』にはチャールズ・ブロンソンが出てますけど、それでいうとフライシャーの『マジェスティック』(74)がある。これは個人的な印象なんですが、シーゲルとフライシャーの似たような映画がこのあたりにゴチャゴチャっとある。なんかいっしょになるんだな、これらが。

篠崎:『マジェスティック』は農家のおっさんの話ですよね。スイカを割られて復讐に立ち上がる、ってすごい話(笑)。今そんな企画通らないよ。一生懸命丹誠込めて作ったスイカをこんなにしやがって、おまえらみんな殺してやる、って……。いやいや違うよ、それ(笑)。大胆って言えば大胆ですよね。マイケル・ウィナーもこの頃、ブロンソンと組んで『狼よさらば』とか『メカニック』とか撮ってますよね。『狼~』は、もう20年以上見直してないんですが、『メカニック』をつい最近見直したら、撮影がフライシャー組のリチャード・H・クラインなんですよね。でも演出力があまりに違って。ああ、同じ俳優やスタッフなのにやっぱりこんなもんかって感じでした。ウィナーってちょっと捨て難いところもあるんですけどね、この間フランクフルトの映画祭に参加して何故かイギリス人相手にマイケル・ウィナーを擁護する羽目になったんです。どうでもいいんですが(笑)。

万田:『ドラブル』も何だかおかしな物語で、冒頭はやたら複雑な設定があるんだけど、その設定に関する話はもう1/3ぐらいで終わって、残る2/3はホントに子どもを助けるだけ。

篠崎:一応、諜報部員のくせに、とにかく子どもが大事だからって言い続ける(笑)。

万田:いまだに冒頭の部分がよくわからないんだけど、最初はジョン・ヴァーノンのところへ潜入捜査か何かするつもりで接触したんですよね?

黒沢:どっちなのかね。彼がジョン・ヴァーノンの家に行くシーンですよね。あそこでジョン・ヴァーノンの家に入る前に、靴を階段に擦りつけるのを見た瞬間は、汚れた靴を拭いてるのかな、と思うんだけど。あれはきれいな靴を汚してるんだよね、たぶん。

万田:僕は『ダーティハリー』のサソリが、同じように靴を拭いたのを思い出しただけなんだけど。そう言われると確かに汚してるね。

黒沢:いやまあ。どうでもいいんだけど。結局は極秘に潜入したようでいて、実はそこでマイケル・ケインがジョン・ヴァーノンの側に写真を撮られているっていう複雑な設定にはなっていた。ただ、だんだんまあどうでもいいかって思えてくる(笑)。

万田:今の映画だったら絶対許されないような、物語上でのものすごい省略が随所にありますよね。物語上重要な事件が起こって、次のシーンで「この人はそのことを知ってんのかな?」なんて思っていると、もう完全に知っていたってことで話が先へ進んでるとか。おちおちしてると置いていかれてしまうくらい。

黒沢:マイケル・ケインが息子を誘拐されるんだけど、大変なことが起こっているわりにまったく感情が乱れないからっていう理由で、逆に彼が自分で誘拐したんじゃないかって疑われてしまう。それに対してマイケル・ケインが「そういうふうに訓練されましたから」って言うんだよね(笑)。スパイとして感情を抑制する訓練をしたばっかりに疑われるっていう。

万田:結局そういうところが奥さんとの不仲の要因でもあるわけだよね。

篠崎:ただそこまで自分を殺して感情を出さない人が、息子が大事だって言いはるのは何故なのか。そんなこと言うと、余計に立場が悪くなるんじゃないかって思うんですけどね。

黒沢:途中で笑いそうになったんだけど、マイケル・ケインが息子を助けに行く前に、10秒くらいまったく感情を表さないで、ただじーっと座っていて、「こいつ何を考えてるんだろう? もうそろそろ息子を助けに行かないとマズいんじゃないのか」って思ってると、いきなりサッと立ち上がって助けに行く(笑)。

篠崎:この男は感情を表に決してださないのだという堂々たる描写(笑)。

万田:そういうふうに訓練されてるんですよ(笑)。

黒沢:観客には読めないですよ(笑)。まあキャラクターが立っていて、マイケル・ケインらしいなあと思いましたけど。

万田:あと、鞄の新兵器みたいなのがあったでしょう。

篠崎:ああ、ジェームズ・ボンドばりの。

万田:あれがどう活躍するのかと思ったら、蹴つまずいた隙に思わず発射しちゃう。それで樽に命中してワインがバーッて出てくる。

篠崎:あれだけ緊迫した場面でね。「こう来たか!」っていう。

万田:子どもが目の前にいるかもしれないと思ったせいなのか、あそこはさすがにマイケル・ケインもちょっと冷静さを失いますよね。

篠崎:そうそう、あのちょっと前に、ジョン・ヴァーノンが絶妙な距離に体を引くんですよ。ちょっと脇にずれて一応マイケル・ケインの目の端にいるところで、「お父さんが来たよ」みたいに言うから、マイケル・ケインも子どもがいるってつい信じちゃうんだよね。

万田:でも、あの子どもは本当にひどい目にあったんだろうね。

篠崎:そうなんですよ。『The Lineup』(54)っていう50年代のモノクロ映画があるんです。10年くらい前にアメリカのリンカーン・センターでシーゲルの回顧展をやっていときに見ることができたんですけど、その映画の中にスケートリンクが出てくるんだけど、そこに高い塔があるんです。その塔の上から車イスに乗ったままの障害者をワンカットで蹴っ飛ばすんですよ。これがすごい。さっき暴力に差別はないと言いましたが、基本的に女に対してもハンディキャップを背負った人に対しても男たちは本当に情け容赦ないですよね。邪魔な人は全員平等に痛めつける。子どもだってそう。『ダーティハリー』では黒人の子供がサソリに射殺されてしまうし、誘拐された少女も土管に埋めらたまま殺されちゃいますよね。ドン・シーゲルの映画には、そういう不条理なまでにどんな人も巻き込んでしまう暴力が一貫してるんですよ。

万田:『ドラブル』の中では直接そういうシーンは出てこないけど、脅迫電話のシーンがあるじゃないですか。あのとき、電話から聞こえてくる子供の叫び声は、本当に痛くて叫んでるんだよ。最後にマイケル・ケインに助けられたときも、かなり悲惨な感じで、相当酷いことされてたように見える。

篠崎:そうそう、途中で救われる男の子の怯えぶりを見てると、単なる肉体的な暴力だけではなくて、それこそイーストウッドの『ミスティック・リバー』(03)みたいな性的な暴力を加えられたんじゃないか、って思わせるような壊れ方ですよね。そういうことがあるから果たしてマイケル・ケインの子供は本当に生きてるのかしら?って不安が持続する。

万田:そういう意味では『ドラブル』で子どもを最後まで監禁している意味が僕には分からなかった。もう途中でダイヤの受け渡しはなされちゃうじゃない。そのあとが長い。なんで子供はあそこにいたの? さっさと始末して、みんなも逃げればいいじゃない。

篠崎:その気はなかったんですかねえ……。

万田:ほんと分からなかった。解放するなら解放するし、殺すなら殺せばいいのに。最初見たときは気づかなかったけど、今回見直して「あれっ?」と思ったな。

篠崎:その前にひとり釈放してるわけですからね。ただ目的のためだけだったなら、用が済めば殺しちゃってもいいわけですもんね。

黒沢:そういった謎というか、曖昧さは、『突破口!』と共通する何かを感じますね。



●60年代/70年代

篠崎:『ガンファイターの最後』『殺人者たち』の2本と、『ドラブル』『突破口!』の2本では10年くらいの間がありますけど、前者の2本は60年代、後者の2本は70年代ですが、その年月による変化のようなものは感じられます? 

黒沢:これはドン・シーゲルの変化ということではないけれど、『殺人者たち』や『ガンファイターの最後は』あたりはきっとかなりセットを使ってると思う。地味なデラックス感があるんですよ。焚いてる照明の量が違うとかね。それが『ドラブル』になってくると、本当の地下鉄とかほとんど実際にある場所で撮っている。その辺から予算的なことで一気にロケが増えて、本当の街で撮るっていうのが主流になっていったんでしょうね。だから、たとえば『刑事マディガン』(67)と『ダーティハリー』って、話は似ているんだけど、数年の差でだいぶ違う感じがしますね。『ガンファイターの最後』を見ると、西部劇というジャンル自体もそうなんですけど、60年代最後の方まである種のスタジオシステムっていうのがぎりぎり残ってたんだろうなって思う。

篠崎:室内シーンは明らかにセットを使って、ちゃんとデザイン的にもシネスコの両端がうまく埋まるように、いろんな物が配置されていますよね。セットじゃないとできないようなアクションが成立している。

黒沢:『刑事マディガン』だとそれなりにある街の設定はあるものの、その街の設定っていうのはいくつかの風景で見えるぐらいですよね。でも『ダーティハリー』になるとサンフランシスコだとか、『突破口!』はどこだか知りませんけど、アメリカのどこそこっていうのはモロに出ています。『ドラブル』では、そのまんまヨーロッパの雰囲気が出ているし。

篠崎:たしかに観光名所的な見せ方はしませんけども、ただ、『マディガン』にはコニー・アイランドのあたりが出てきますし、『マンタッハン無宿』もビリヤード場や警察のシーンを除けばロケーションが多いですよ。

万田:たとえば『突破口!』でジョン・ヴァーノンが牧場の柵の上に座って、びくびくした銀行の頭取に対峙するシーン。あの感じは他の映画ではちょっと見られないですよね。

篠崎:あそこなんかもふつうだったら牧場じゃなくてもどこか密室でやったっていいわけですもんね。それをああいう広いところでやるのが面白い。

黒沢:それこそ蓮實重彦先生のいう「宙吊り」ってやつなのかもしれないけど。

万田:文字通りそれだよね。なぜかジョン・ヴァーノンが柵の上の不安定なところに座って、かつジョン・ヴァーノンをなめて下にいる男を撮っている。いかにジョン・ヴァーノンが変なところにいるか強調されてるんだよね。

黒沢:ただ、『突破口!』を見直してみたときに昔の印象とだいぶ違ったんですよ。かつては、50年代までの90分の端正な感じと比べ主人公の行動なんかがはっきりしなくて、なんだかダラダラしていると思ってたんですね。ダラダラというのは、『ガンファイターの最後』のときに篠崎が取り上げた釣りのシーンもそうだし、今の牧場のシーンのような時間感覚でもあるんですが、再見するとたしかにそういうシーンもありつつも、しかし意外にシンプルな感じがしたんですね。すごく変な状況で変なことをやりつつ、でも一応ある線に沿ってこの人たちは着々とやっているんだな、と。

篠崎:歯医者でカルテを入れ替えるシーンあたりからの、一連の行動のことですね。

黒沢:そう。漠然と観ていると一体彼は何をやっているのかわからないけど、あとから振り返ってみると、さっき話した「一か八か」の計画を着々と進めていたという。たとえばそれを現代の東京でやると、こっちは着々のつもりでもなんだか紆余曲折して昔のような分かりやすい活劇にはぜんぜんなってくれず、すごく錯綜しているように思われるんですよ。あるラストに向って確実に進んでいるはずなんだけど 、おかしいなって。どうも現代という時代は、シンプルなはずのものをそのように見せてくれない。そのようには人に伝わらないんだなあ、と自分でも実感しているんです。だから『突破口!』の頃のドン・シーゲルも、ひょっとしてそんなふうに思いながら映画を作っていたのかもしれない。昔だったら分かりやすい物語になったことを、その時代のなかで、それこそスタジオではなくほとんどがロケで、撮影日数も少なかったんでしょう、丹念に丁寧に見せていくと、どうしても第一印象は錯綜したものになるのかなあと、そんなふうに思いました。

篠崎:僕が最初に見たドン・シーゲルって、たぶんテレビでやっていた『突撃隊』(61)なんですよ。そのころのドン・シーゲルは、50年代の作家のように、いかに無駄のないカッティングと少ない画面構成だけで、出来事をシンプルかつ効果的に見せるかっていうことをやっていたんだと思います。アルドリッチやペキンパー以上に、いきなりアクションが始まって、それは画面が切り替わって、つまり最近のハリウッド映画みたいにカットをやたらに細かく割って、それで何かアクションが起こってるらしいぞと派手にみせかけるんじゃなくって、ひとつの画面でずーっとあるアクションなり動きなりが持続しているなかで、いきなり登場人物が走り出したりだとか別のアクションに移行するということです。その移行がすごく早い。しかも早いのに、「宙吊り」って言っていいのかわからないけれど、普通だったら「こんなのなくてもいいんじゃないの?」と思えるようなカットなり時間の流れ方が一方にある。そういう部分は、60年代後半以降カラーになって画面も大きくなって、シーゲルが獲得した歪みなのかもしれませんね。やっぱり昔テレビで見たっきりだった『グランド・キャニオンの対決』をリンカーン・センターの大きなスクリーンで観たのですが、あの映画も描写はあっけないんですが、ある種の歪みを感じました。『マディガン』と『マンハッタン無宿』は主人公と女の絡みがちょっとくどいんですよね。ラブ関係はいいから、サッサとアクションにいってくれと思わないでもない。



●ドン・シーゲルからの影響

篠崎:黒沢さんの『暴力教師・白昼大殺戮』(75)は『ダーティハリー』ですよね。

黒沢:あっ、『暴力教師』ね。そうですねえ……。まあ突然ピストルでバーンと撃って、そこからもう取り返しがつかなくなってしまうというようなことはずっと好きですね。そういうことが好きになったのにはドン・シーゲルの影響があるんだと思います。でもピストルの撃ち合いと言えば、今や篠崎でしょう。

篠崎:無茶なフリですね(笑)。僕はアクションを撮るときにドン・シーゲルとかは見直せないですね。あまり凄いのを見直しちゃったら、きっと撮れないですもん。『殺しのはらわた』(06)に関して言うと、仮想敵は『ダイ・ハード』以降の派手派手アクションですかね。僕が個人的に許せないのがやたらにマシンガン撃つのに全く人に当たらないって描写。ようするに下手クソってことでしょ。『殺しのはらわた』の登場人物は殺し屋ばかりなんですが、特に嶋田久作さん扮する主人公は絶対に無駄な銃弾を撃たないことにしようと。撃ったら必ず当たる。それだけは心がけました。うまくいきはしないんだけど、それでもいつかやりたいなって思うのは、『突破口!』のあの冒頭の銀行強盗の場面の有機的なアクションですね。あの早さ。『殺しのはらわた』でもやりたかったんだけど、時間がないとどうしても切り返しが多くなっちゃうんですよね。本当はひとつの画のなかでアクションをやりたいんですよ。撃つ者と撃たれている者を同じフレームに入れてやるっていうのは、シーゲルなんかを見てるとやりたいなと思いますね。あの早さはなかなかできないですね。いくらカット割りで、<撃った/撃たれた/撃った/撃たれた>っていうのを早くしても、当たり前だけど本当に撃たれているようには見えない。その限界は感じていて、『殺しのはらわた』のときはカメラマンの木暮君と録音の臼井さんを除く現場スタッフが美学校の学生だったんで、毎日機材の積み下ろしで2時間~3時間かかるという感じで(笑)。ひどい時にはカメラ乗せたまま、出演者を迎えにいって無意味に1時間待たされたあげくに霧が出て撮りこぼしとか。もう時間的に押して、「しょうがないからここは切り返しでいっちゃおうか」っていう部分が結構あったんで、いずれちゃんと引きのあるカットワークであるアクションが成立するものがやりたいです。辛うじて黒沢さんが絶命する一連のシーンは必要最低限の切り返しでなんとかなりましたが。

黒沢:あれは自分で出ていていうのもなんだけど、驚いた。現場は正直こんなんで大丈夫なのと思ったけど、ちゃんとなってるんだよ。ところで篠崎は<撃った/撃たれた>っていうカットをスローモーションかハイスピードで撮ったことってある?

篠崎:8ミリで撮っていたときからやりたくてしょうがなかったんだけど、いざ商業映画を撮り始めたらやらないですね。『忘れられぬ人々』のクライマックスの銃撃戦が始まって終わるまで、ベン・ジョンソン(古いな)が百メートル走るよりも早くするって思ってましたし、『殺しのはらわた』も一切ないですね。そのうち気が変わるかも知れませんが。

黒沢:僕も『蜘蛛の瞳』(98)のときに少しやったんだけど、ハイスピードでやると本当に難しいですよ。簡単な話で、本当に撃たれてはいないわけだから撃たれた人って撃たれた芝居しかできない。ノーマルな速度だと、まだ<撃った/撃たれた>ってなんとなくわかるんだけど、それをハイスピードでやると絶対に遅れるのよ。「バーン」って撃って、ちょっとしてから「あーっ」って、すごい時間差がある。ドン・シーゲルは、あの一瞬で撃ったらもう撃たれる感じを出すために、撃たれる人に「バンっとなったら、すぐ倒れて」って言って、「ああ、遅すぎる、遅すぎる」って何度もやってたんじゃないでしょうか。

篠崎:『ガンファイターの最後』の銃撃戦も凄いですよね。ウィドマークがドアを突き破り様に、倒れこみながら洋服に隠れている男を撃つワンカットもよかったですが、圧倒的だったのはクライマックスで途中で抜けようとした男が背後から撃たれるシーン。二カットに分かれてるんですが、バストサイズでバンッって撃たれた瞬間にアクションつなぎで、ローアングルからのフルショットになるんですが、撃たれた男が物凄い勢いでまるで野球の滑り込みみたいな体勢で画面左手のテーブルに激突しながら体を反転させるんですが、ほぼ同時にテーブルの上のチップが床の上に散乱するんです。ワンカットの中で3つくらいのアクションが同時に起きる。

黒沢:万田:そうだっけ?

篠崎:観てみます? 

(DVDを再生する)

黒沢:万田:(爆笑)

黒沢:これはたしかに凄い(笑)。

篠崎:ついでにですね。さきほども話題にのぼりましたが、ラストのリチャード・ウィドマークが射殺される瞬間も実は、銃声より前にウィドマークが苦しむんですよ。銃声が鳴る0.5秒くらい先に「ううっ」って呻いている。

(DVDを再生する)

黒沢:万田 (爆笑)

万田:ほんとだ(笑)。

篠崎:単に効果音を入れるタイミングが数コマ遅い。「銃声をズラしゃあいいじゃん」とか思ったけど、これは『LOFT』(05)の「ガタン」って物音より先に中谷美紀さんが悲鳴をあげるみたいなことでしょうか(笑)。

黒沢:弾が命中する一瞬前にもう撃たれてるみたいなことですね。それが早さのコツかもしれないですねえ……。

篠崎:弾が発射される前に撃たれてるってすごいですよ。そのくらいドン・シーゲルの活劇は早い(笑)。万田さんはどうなんですか? いわゆるジャンルとしての活劇は『逃走の線を引け』(84)以降やってないですけど。

万田:うーん、やりたいことはやりたいんですけどね。アクションというか、犯罪ものを撮りたいなと思うんですけど、なかなかおもしろい話が思いつかない。

篠崎:『接吻』(07)は犯罪なしには成立しない映画じゃないですか。

万田:でも犯罪ものではないですよね。

黒沢:犯罪ものっていうのは、いわゆる銀行強盗とかそういったこと?

万田:そうそう。誘拐でもいいし。

篠崎:『接吻』はちょっとイーストウッド映画の感じはしたけどな。それは何かというと、決定的な決めカットをあえて撮らない。要するに一見するとふつうのカットしかないんだけど、それが積み重なって大変なことが起こってるっていう。やっぱりドン・シーゲルなら決定的なカット、引きで一発決めてる瞬間があるじゃないですか。イーストウッドはちょっと違うんですよね。カット割りの根拠が見えないところがいっぱいあって、なんか変なんですよ。決定的なものがなくてダメな監督っていっぱいいるじゃないですか。たとえばウォルター・ヒルとか、ジョン・マクティアナンとか……

黒沢:そうね、彼らはこれが決定的だって思って間違ったカットを撮ってることがある。確実に決定的じゃないのに、さも決定的であるかのように撮ってるからね。

篠崎:そう。でもイーストウッドはそれとはまた違って独特なんですよね。実はイーストウッドは平気で切り返しを使うし、ドン・シーゲルとは逆に凄く遅い。むしろ「遅さによる活劇」といってもいいくらいなんですが、それはまた別の話ということで…。さきほどの話に戻りますが、万田さんは拳銃のドンパチは今やりたいと思わないんですか?

万田:あんまり思わなくなったね。うーん……ドンパチのためだけにお話をでっち上げて撮りたいとまでは思わないかなあ。

黒沢:ドンパチのない犯罪ものでもいいということ?

万田:そうねえ……。いや、やっぱり撃ちたいですよね(笑)。ドンパチっていうと、「ドン」/「パチ」と返ってくるじゃない。だから「ドン」ですよ。ドン・シーゲルの「ドン」。一方的に「ドン」「バタン」、それはやりたいかな。

篠崎:なんだやっぱりやりたいんじゃない(笑)。撃ち合いじゃない、最近、フライシャーの『ザ・ファミリー』(73)を久しぶりに見直して「やっぱりこれだよなあ」って思いました。ちゃんと着弾もして、血飛沫が飛びながら、撃たれた人がスローモーションなしで、棒のように倒れたり、ものすごく早く後ろに飛んでいく。なんだスピルバーグの『シンドラーのリスト』よりずっと前にやってるんですよね。



●今、活劇を撮るには

万田:でも、撃ち合いでも、同じくフライシャーの『スパイクス・ギャング』(74)のラストの撃ち合い、これはドンパチだけど、壮絶だよね。あの狭いところでね。

篠崎:ああいう感じで興奮させてくれる活劇の人って僕のなかではマイケル・チミノで終わってるんですよね。今話題のタランティーノの『デス・プルーフ』や、万田さんは全然乗れないっておっしゃってましたが、トニー・スコットの最近の映画だって悪くはない。でも幸か不幸か心から本気で興奮できないんです。かろうじてマイケル・チミノには過剰なものが感じられるんですよ。ただ、アクション映画ということになると、今はかなり大きい資本に取り込まれないとやれなくなっちゃってるところがありますよね。だから企画の段階で「クライマックスでハグされるんですよ」なんて言っても、「いや止めろ。バズーカで撃ってくれ」って話にしかならないと思うんですよね。

黒沢:ただ、物語がドン・シーゲル的に流れるアクションは頑張ればできるんですよ。単純な拳銃アクションとかはやれないことはない。だけどある時期から、人が死んだりすることに何か陰惨なものが付随してくるようになったんですね。スカッとはいかない。それは、知らないうちに皆がなんとなく了解している、あるコードだと思うんですよ。「いくら悪い奴であっても殺していいの?」っていうような。「いいんだ」って言ってそれをやると、すごく陰惨な殺戮になってしまう。銀行強盗が逃げるときに警官を撃ったって当然いいだろうって思うんですけど、どこか躊躇するというか。それを思い切ってやったのが篠崎の『殺しのはらわた』(06)だと思います。実際に8ミリで撮っていたときなんかは僕も平気で人を殺してましたけど、そこからなかなか人を殺せない時期があって、Vシネでドンパチやって人を殺していいということになったときも、殺すたびに「わー、これは陰惨だ。殺人を犯している」って思いがどこかにありましたよね。「まあそれでいいんだ」っていうどこか開き直った表現になってしまいましたね。だから、さっき万田が言っていたように、『ダーティハリー』も今見直すと実は陰惨。見た当時はそんなに思わなかったけど、今はあのひとつひとつの殺人が陰惨なことだと見られてしまうのかもしれないですね。

篠崎:塩田明彦さんなんか『どろろ』(06)ですごく苦しんでやってたんじゃないですかね。妖怪同士がやっつけ合って死ぬのはいいんだろうけど、人間が血を噴くのとかはやっちゃいけないとか。ドン・シーゲルの映画みたいに、子どもを撃ったり、弱い人をとことんやっつけてはいけない。

万田:テレビ局が絡むと、テレビでオンエアできるかどうかっていう制約がかかってくるしね。でも、それとは別に、やっぱり生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる人を主人公にする話を、「そんなのウソだ」っていうふうにみんなが思うようになっちゃったってこともあると思う。活劇って、その瀬戸際でどんな選択をして自分が生き残るかっていうことじゃないですか。今そういう主人公を立てづらいんですよね。「今どきそんな人いないよ」ってことになっちゃう。アクションの主人公ってどこか愚かな人たちですからね。

篠崎:『ドラブル』のマイケル・ケインだって、あれだけ感情を抑える訓練をしておいて、肝心なところでぶち切れちゃう。でもそのおかげで息子を救えるって話だし。

万田:「なにも体を張らなくたって、もう少しうまく立ち回れば物事いい方向に運ぶんじゃないの?」っていう状況で、敢えて体を張ってやろうとする、体を張っちゃう、それがアクション映画のストーリーなんですよ。今その設定を考えるのは難しい。

篠崎:そのわりにもっと大手の映画は、そりゃないでしょって大嘘つくじゃないですか。

万田:いや、いや、活劇って同時にリアリズムでなくては成立しないじゃないですか。それができないから逆に大嘘にして、相手が宇宙人になったりお化けになったりする。主人公も超人になってしまう。武器もどんどん大袈裟になっていく。破壊力も漫画チックになる。地道なリアリズムの活劇っていうのはどんどんやりづらくなってるんじゃないのかな。

篠崎:やっぱり70年代の映画って再現できない何かがあって、真似しようと思ってもできないんですよ。で、もちろん、それを再現すべきだって言ってるわけじゃなくって、ようは70年代の映画が体現してたようなある力というか強さに太刀打ちできるような何かが21世紀にもなっても実現できていない。アクションに限らずホラーでもいいんですが、どうでもいいような70年代の映画を観ていてリアルな何かに触れちゃったような感じが最近の映画を観ていてもしない。僕が単に歳をとっただけなのかと思って、最近よくその頃作られた映画を見直すんのですが、やはり突き刺さってくるんです。これは断じてノスタルジーではない。今見直すと風化したものもあります。もちろん、時代も状況も変わっているのは百も承知しているのですが、でも、かつてあったものの再現を目指すんではなく、それと同等の何かが充分に捉えられたとは思えない。

黒沢:でも、ドン・シーゲルとはぜんぜん比較にならないんだけど、たとえばデヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』(06)はたまたま時代設定も70年前後ですけど、70年代の映画のテイストを感じました。尺は長いし、話自体は錯綜してるんだけど、ここぞという暴力シーンは意外に端正で、結構知恵を使ってやっていて好感が持てましたね。あと去年のスピルバーグの『ミュンヘン』(05)も、物語はドン・シーゲルのものとはまったく違うし、素早さもないんだけど、ここぞというときにドンパチがあって、ドンパチが終わると一方で必ずベッドシーンがあるっていう……。『突破口!』なんかは意外とベッドシーンがあるんですよね、「えっ、こんな簡単に?」っていうくらい。そういう意味でも、ほのかに70年代の香りは漂っていた。まあスピルバーグなんかはモロにその頃からやってた人ではあるんだけど、もう一度そういった『突破口!』などの70年代の映画にあったテイストを、ぜんぜん違う物語の中にでも出していこうとしているんじゃないかと思います。あと、これもはるかにドン・シーゲルから離れますが、マーティン・スコセッシの『ディパーテッド』(06)は、ワンカットで頭を撃たれるってことを律儀にやっていて、その点は割とおもしろかった。急に頭を撃って即死させる、っていうことを徹底してやっていました。今の派手な活劇とは違うものを作ろうという意気込みは感じましたね。

篠崎:黒沢さんも、前に会ったときに、「暴力映画をやりたい」って言ってましたよね。

黒沢:それはやりたい。まあ万田が言うように、切羽詰まったところに立たされる人間の物語を、そうそう思いつけないんだけどね。でもやりたい。もう相手が宇宙人でもいいからやりたい(笑)。

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