
『ラヴリー・リタ』監督 ジェシカ・ハウスナー インタビュー
『ラヴリー・リタ』監督 ジェシカ・ハウスナー インタビューby 樋口泰人
スチール写真に写った主人公リタの表情やそのタイトルから、80年代の日本のある種の少女漫画を思い起こしてしまう。不機嫌な女子高生が家族や先生だけでなくクラスメートたちとも折り合い悪く、居場所を欠き、傍目にはその場限りの単独行動を繰り返す。そんな物語だけを追うなら、まさに洗練を欠いた少女漫画とも言えるのだが、そこにちりばめられたさまざまな要素の反復とズレとその共鳴の内に浮かび上がる風景は、そこでは実際に語られなかったもう一つの物語といったようなものを作り出す。この映画にとって、そこに映されなかったものだけが大切なものではないかと、そんなことさえも思わせる。映されず語られなかった物語に目を凝らし耳を澄ますための幽かな入り口、ちょっとした躊躇と躓きの石として、この映画は作られているように思えた。 監督は72年、オーストリア生まれのジェシカ・ハウスナー。これが最初の長編である。DV撮影によって作られたこの映画は、その質感、ロケーションを含め、すべてがその入り口の向こう側に向けて開けている、それゆえに、こちら側にとっては幽かでぶっきらぼうなものに過ぎないこの映画について、メールによる質問を試みる機会を得た。不機嫌かつ無愛想な映画についてのとりあえずの手探りのようなものだが、そこでは語られていない世界への第一歩の記録として、ここに掲載する。 なお、映画の具体的な内容に関しては、「インビテーション」4月号(3月10日発売)、「スタジオボイス」4月号(4月1日発売)のレビューを参照して欲しい。
--例えば、物語の初めの方にある学校の朝礼でリタがセーターを脱ぐシーンが、バスの運転手に声をかけるためにセーターを忘れるシーンへとつながったり、家での食事シーンと英語劇での食事シーン、それからリタがクラスメートの衣装を着て本番の舞台に上がるところと最後の方で彼女の家に行って彼女の上着を着て外に出て行ってしまう所、あるいは、隣家の少年と初めて会った日に裏山を歩き、少年の喘息の発作が起きてぜいぜいしているところと入院した少年を連れ出して走って逃げるところなどなど、後から出てくるエピソードが以前のエピソードのモチーフを引き継いでいくような構成がこの映画ではとられています。こういった構成は、最初から想定されていたものだったのでしょうか?
JH この映画ではプロットやキャラクターよりも構成が重要です。繰り返し現れるいくつかのエレメント、失われてしまうものもありますが。このやり方で私は特別な物語、登場人物の心理描写より、現状(現在)と人間の行動について語ることをしています。通常のレベルで、プロットや心理描写とは別の、物事のエッセンスを語ることに集中しようと思うのです。
--上記のモチーフの反復の多くは、例えば、舞台の練習と本番、射撃練習とリタによる銃撃、隣家の少年とのセックス未遂とバス運転手との本番、というように、レッスンと本番という組み合わせになっています。しかも「本番」部分には、「完成」ではなく「失敗」の要素が付け加えられているように思える。つまり、レッスンを経て完成へと向かう一つの道筋が、しかし結局はうまく行かないことで逆に道が開けていくような構成になっているのではないかと思えたのですが、そういった構成にどんな思いを込めたのでしょう? 例えば、幼年期(レッスン)から成年期(本番)への移行についての考察を、ここに見ることも出来るのですが。
JH いいえ。リハーサルから成功への移行についての考察ではありません。私にとって、人生における秘密のひとつは、人生は常に秘密を持ち続けるということです。釈明、そういうものは、私は信じません。予想できない物事の側面、何の続きもない出来事の方が信じられるのです。つじつまを合わせるための解釈は人の欲望に過ぎません。自然だけが存在します。人生にはある種の構成があるのは確かです、が、それは何かを練習したり、達成したりすることではなく、展開と停止です。それは1枚のメダルの裏表です。1たす1は3なのです。
--上記の具体的なシーンの例として、リタによる父親殺しのシーンを思い浮かべてみると、銃は2度撃たれ、1度目は弾は出ず、2度目に発射される。ただ、リタの顔つきやしぐさは1度目のほうが真剣で、2度目のほうは何故か「間違って」指を動かしてしまったとも思えるようなすごく曖昧な表情を浮かべます。このとき、演技についてのどのような指示をリタ役のバーバラ・オシカに出したのでしょう? 監督自身はこのときのリタの表情としぐさについて、どのように思いますか?
JH 彼女の行動の独断性がこの映画のメイン要素であることは確かでしょう。このシーンは人間の意志と運命の不思議な交錯を見せています。意思、感情、人生の目的、こういうものは私にもありますが、それらが結果的にどうなるかは別の話です。そういう意味で、私は、解釈されないコンテクスト、慈愛、モラル、目的などが存在しない、唯一あるのは展開し、構成を持たすためのリズムだけの、説明のつかない状態の中で人間を表現するのです。 バーバラ・オシカは天性の才能の持ち主ですね。私たちは多くを話し合うということはしなかった、彼女は私の想像どおりの演技をしてくれました。難しかったのは彼女を見つけるまで、であとは成り行きのままでした。
--物語の構成の仕方、モチーフの反復とその影響関係のあり方や配置の仕方について、サイケデリック・ミュージック、テクノ・ミュージックなどの音楽から影響はあるでしょうか?
JH 個人的には影響を受けたと思っていません。が、親しみはありますね。今の人はロマンティシズムに閉口しているのではないですか。今、ハッピー・エンドは求められていません、嘘の答えを与えられるより、疑問を持って生きることを学ぶべきです。
--具体的な選曲に関して、特にこだわった曲はありますか? リタと隣家の少年がダンスをするシーンは非常に印象的なのだけど。 JH 流儀を持たないというのが私の流儀です。音楽は偶然見つけました。Mobyの歌はある友人が教えてくれましたし、ディスコ・ミュージックも偶然です。こういうやり方が私は気にいっています、時々うまくいかない事もありますが、たいていはOKです。 --当たり前のことですが、この映画の風景は、物語の内容と深く関わりあっていると思います。一つ一つの家族や集団の孤立した存在の仕方が際立つような、雪に埋もれたあのような場所は、元々イメージしていたのでしょうか? また、実際に撮影場所を決めるとき、決断のポイントになった場所、風景は何でしょう?
JH 私自身が場所に入り込むのです。普通は、事前にあれこれ想像し、ロケ場所を探している途中ですべてが変わったりします、まるで私の内側の絵が外側の絵と出会ったようで、それらを一致させ、あるいは第三のビジョンとして確立するまでは長いリサーチになります。こういう風な進め方が私には自然ですし、現実の流れを私は受け入れます。
--フィルム変換されたDV映像は、ほとんどのシーンではフィルム撮影されたもののようで、しかし時々ビデオ的なノイズがちらつきドキッとさせられます。その二つの世界の見え方が、まさにリタの存在する世界のあり方のようにも見えました。撮影にDVを使用したのは経済的な理由からだけでしょうか? 映画の内容自体がDVの使用を決めさせたというようなことはありませんでしたか? あるいは、DVの使用を決めてから、映画の内容を変更したようなことは?
JH DVの使用は芸術的な決定でしたが、結果的には経済的救済になりました・・。映画に使われなかったマテリアルもたくさん撮影しましたし、それぞれのシーンは20回は繰り返されましたね。 DVを使いたかった理由は、表面の冷たさです。フィルムには、リアリズムとスタイルの間のコントラストがあります。DVでは、プロフェッショナルでない俳優もリアリティの感触を喚起できる。スタイリッシュな装置と鮮明な色がこのリアリズムを際立たせる。観客に感じてほしいと思うのは、深い曖昧さです。映画の言語という意味においても。答えを教えてくれるという安心を差し出さない世界について、です。 神は休暇中で、彼は出発前にこれがどういうことなのか、私たちに話し忘れてしまったのです。
--最後に具体的な質問ですが、使用したカメラ、および、フィルム変換時に特に気をつけたこと(現像所や現像方法など)を教えてください。
JH デジタル・ベータ・カメラを使いました。照明はセルロイド・フィルムで使うようなものを使用しました。ビデオの荒れた画面を強調したかったわけではなく、冷たさを出したかったのです。色には気をつかいました、時間もだいぶかかりましたね、最初のプリントは色もコントラストもとても弱くて、私はその両方を強調したつもりです。
(インタビュー協力:ビターズ・エンド/翻訳:安斎儒理)
3月27日より渋谷シネ・アミューズにてレイトショー公開
2001年/ドイツ、オーストリア合作/80分/1:1.66
Jessica Hausner 72年オーストリア、ウィーン生まれ。映画学校の卒業制作「Inter-View」(99年、48分)がカンヌ映画祭シネフォンダシオン部門の特別賞を受賞。『ラヴリー・リタ』は、初の長編作品。現在、長編2作目となる「HOTEL」を製作中。