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黒沢清『アカルイミライ」インタビュー Vol.1

東京 - デジタル・イメージ  黒沢清インタビュー Vol.1

インタヴュアー  樋口泰人 梅本洋一 志賀謙太


ビデオで撮ること

樋口  『アカルイミライ』と『ドッペルゲンガー』、ビデオでの撮影作品が続きましたよね。『ドッペルゲンガー』の方は一目ではビデオ撮影だとほとんど分からないものになっていて、『アカルイミライ』はどちらかというとビデオで撮影されたことも含めて、画面構成がされていた。2本を続けて見ると、やはりビデオで撮影するということに対して、黒沢さんの中で、何がしかの決断があったのではないかと思ったのですが。

黒沢  いや、そんなに強い決断をしたわけではなく、ビデオで撮ること自体は、前からやっていたので、できあがる映像がフィルムとそう大きくは変質するものではないということはわかっていました。それで24Pハイヴィジョンが最近どうも流行っているぞというのは知っていたので、「使ってみたいな」と。僕はこう見えてわりと新し物好きなんですよ(笑)。新しいものはまず使ってみたい。CGですとか、古くはステディカムですとかね。だから一大決心をしたというよりは、チャンスがあったから24Pを使ってみたということですねえ。ただ、よく言われるのですが制作費は安くなるわけではない。フィルムと変わらない。下手するとフィルムよりも高くなる。『アカルイミライ』ももっと凝ったことをしようとすると、フィルムよりも高くなったかもしれません。だから今のところ、どうせ完成版がフィルムであるなら、フィルムでやるよりちょっと贅沢かもしれないなという気がしています。

注  24Pハイヴィジョン・カメラ
通常のビデオは、日本やアメリカのNTSC方式の場合1秒間が約30フレームで構成される。これだと、1秒間に24コマのフィルムに変換する場合、ビデオ→フィルムだとフレーム数が余り、逆だと足りなくなるということになる。技術的には難易度の高いその調整の中で、画質が落ちたり、微妙なズレが生じたりすることがあった。フィルム変換することをあらかじめ予定されて作られた24Pカメラで撮影すると、撮影の段階で1秒間24フレームとなるから、フィルム変換はより容易な作業となる。既に『スターウォーズ エピソード2』『マイノリティ・リポート』など、CGを多用する多くの作品で使われている

樋口  以前、撮影直後だったと思うのですが、ビデオ撮影だと黒がおもっきり出せるということをおっしゃっていましたよね。

黒沢  それは最初から狙ったわけではないんです。24Pを使えるとなってから、色々調べていくと結構面白い事ができると。で簡単に言いますと、ビデオですからあまり照明をたかなくても映る、という利点があるわけです。だから照明は最小限にしたのですが、ただそうすると、明暗がはっきりしなくなる。下手するとぼんやりとした画面になってしまう。そこで24Pはデジタルの……僕は詳しくはないんですけど(笑)。明暗が標されたゼロから幾つかの曲線がありまして、その中で、下の方のある数値以下は全部ゼロにしてしまう作業をすると、照明をたかなくてもちょっとした露出の差がものすごくはっきりした明暗となって映像にあらわれるわけです。やりすぎるとあからさまにエフェクトをかけたような画面になってしまうんですけどね。そのギリギリのところの数値以下を全部切り捨てるという処理で陰影をかなりはっきりつけることができたということです。いや、フィルムでもいつも「陰影をつけたいな、つけたいな」と思ってはいるのですが、なかなかね、技術的にできずにいたんですけど。今回はそれができるというので、かなり大胆にやってみましたね。

注  明暗が標された曲線
カメラに入力された光の量を横軸にカメラがテープに出力する光の量を縦軸に持った曲線。例えばある光量以下の出力を0に設定すると、それ以下の光量で入力された部分は、全部真っ黒になる。ある光量以上の出力を最大限に上げると、設定された光量以上の光の部分は全部白く飛んでしまう。また、中間の光量の出力を上下することで、画面自体の明るさを調整することなどができる。

樋口  フィルムだと現場で強い照明を当てて陰影をつけるわけですよね。一方今回のような作業だと現場ではなく、後からの操作で陰影をつけていたと。

黒沢  いえ、実は現場ですでに処理してたんです。現場でいじってました。

樋口  あ、現場で明暗の数値をいじっていたんですか。

黒沢  そうです。それは、僕たちもまだまた思考錯誤中だったので、撮る時はまったく何もせず、後から処理すべきか、あるいは現場でやるべきかは判断に苦しんだのですが。しかし技術スタッフが「本気でやるなら現場でやった方がいい、後からだと限界がある」と言うのを聞いて、思いきって撮る時からやってみたんです。

樋口  そういう時に演出の点で変化はありませんでしたか。

黒沢  演出という点ではそんなに変わらないですが、カメラマンの柴主さんがモニターの波形を見ながら、肉眼ではよくわからない、非常に細かい外光の調整をしていました。だから意外と時間がかかったんですけどね。照明はいっさい当てないところが多かったのですが、ちょっとした明暗の差でそこが真っ黒に落ちるか落ちないかの瀬戸際になるので、「ドアを15センチ開けとけ」「いや開け過ぎだ。10センチにしてみよう」とか、「窓を隠すのにカーテンだとやり過ぎだから、布のようなものをちょっとたらそう」とか、あるいはそのたらし具合を微妙に変えるとか、そういう細かい作業をして、真っ黒に落ちてしまうラインを探っていました。

樋口  それはフィルムの時ではあり得ないような細かさでやっていたわけですか。

黒沢  フィルムだとやはり微妙なところは微妙なまま出ますからね。もちろんいじろうと思えばフィルムでもいじれるんですけど。ただ今回はある数値以下はゼロになってしまうということで、ちょっと薄暗いところは真っ暗になってしまう。そこは何も映らない。そこに重要なものを置いても、映像としては見えないわけです。
 そう、しかしたむらまさきというカメラマンだけは、全然微妙なことをやらないにも関わらず、フィルムで全く照明もたかずに、そんな微調整しているとも思えないのに、かなりはっきりとした陰影を撮ってはいたんですよ。あれどうやってたのか全然わかんないんだけど。たむらまさきは結構やってましたね。それはフィルムでもある程度できるようです。普通はそうはならないんですけどね。

樋口  (笑)たむらさんも青山真治の音楽ドキュメンタリー(りんけんバンドのボーカリスト、上原知子のドキュメンタリー『あじまぁのウタ』)では24Pを使ったんですよ。ただドキュメンタリーということもあったんで現場では細かい処理はできなかったらしいですが、ポストプロダクションの段階で色を変化させたりだとか、いろんな処理をすごく細かくやったみたいですけどね。その作業のことをとても嬉しそうに話してましたよ。

黒沢  そうですか。だから24Pハイヴィジョンはまだまだ未知の領域ではあるのですが、撮ってる時もその後も色々いじることはできるようなので、うまくいくと思わぬ画質が得られることがあるようですねぇ。まあいじりゃいいってものでもないですけど。

樋口  画質をいじるというのは、ある種の想定されたイメージに合わせていくという作業になるわけですか。

黒沢  いや、まあ想定されたイメージというほどの強いイメージがあったわけではないんですが、今回は全く初めてだったんで何度かテストはしてみたんです。それで室内は微調整でなんとかなると思っていました。しかし外ですね、どうせいつも通り東京のその辺で撮るので、そこをなんとかしたい。太陽がいい具合に照ってれば良いんですが、そうそうそれも狙えない。ぼんやり曇っていても東京のよく見る街をどう撮るんだという問題を、何度かテストしました。やってみると面白いように何でもないその辺の街が、ちょっとずつ違って見えるんですね、いじりようによって。これにはちょっと興奮しました。

樋口  それは編集時にも何か処理をしたわけですか?

黒沢  それは全部撮っている時にやりましたね。ホントにさっき言いましたように、あるレベル以下を全部カットする、そのレベルをどこに設定するか。晴れてる日、曇りの日、曇りにも色々ありますし、あとは場所。狭い路地やら非常に広いところやら色々あって、その様々なパターンの中であるレベル以下を切るとどう見えてくるのかと。だから切るレベルは一定ではないんです。場所と天候によって微妙に変えるわけですよ。

画面分割

樋口  陰影をつけるのは現場でということですが、画面分割は編集時ですよね。これみよがしに『アカルミライ』『ドッペルゲンガー』両方でやってましたけど。

黒沢  これはもうとにかく、思い起こせば30年ぐらい前から絶対やりたいと思っていたことなんですよ。

(笑)

黒沢  高校生ぐらいの時から「絶対やりたいんだよね」とわけもなく思っていて。ただ画面分割をフィルムでやるのは本当にたいへんなんですね。で今回はビデオなのでわけもなくできました。いやフィルムでもできなくはないですよ、かつてはフィルムでやっていたわけですから。あの人たちはよくあんなことをやってたよなと感心します。僕はせめてビデオで撮る時は絶対やると決めてましたね。まあテレビではやろうとは思わないんですけど、横長の画面でやりたいと。ですから『アカルイミライ』も『ドッペルゲンガー』も基本的にはビスタサイズなんですけど、分割画面になるとなぜかシネスコサイズになっている(笑)。いや、実は『アカルイミライ』もシネスコでやろうかという意見がかなり出てたんです。柴主さんも「いやあ、この映画はシネスコだなあ」と言ったんですが、『アカルイミライ』は上映館がシネ・アミューズでほぼ決まりだった。あそこでシネスコでやるということは横に広がるんではなくて、単に上下がどんどん切れていくだけなので(笑)。シネスコは時期尚早ということで諦めたんですけど。分割画面だけはシネスコ気分でした。

樋口  おもしろいなと思ったのは、ビデオで撮る場合青山は「オーバーラップ」って言うんですよ。『名前のない森』のテレビ版では画面分割で遊んでいましたが。一方黒沢さんの場合は「分割画面」と言う。重ねる方と分ける方、見事にタイプが別れる。これは不思議だなあと。

黒沢  オーバーラップは全然考えないですね。そりゃ分割でしょ、まずはっていう。

(笑)

黒沢  オーバーラップはフィルムでもできる。いや、分割もできるんですけど、まあ分割は……。いや、これは深い意図のあることではなく、全く個人的なことですが、分割場面が出てきた時の衝撃と興奮はオーバーラップの比ではなかろうと(笑)。そういう単純な好みもあるんですけど。

梅本  分割画面はどんな映画で驚いたんですか。

黒沢  それは高校の時にテレビで見た『絞殺魔』ですね。それ以降流行りましたよね。

樋口  デ・パルマ……。

黒沢  デ・パルマやりましたし、オルドリッチもやりましたし、ペキンパーの『砂漠の流れ者』の冒頭部分も分割だ、とこれはまあ一時の流行ではあるんですけど、一映画ファンとして夢だったんです……。

樋口  (笑)『アカルイミライ』では車に乗っている時が分割画面ですよね。両方の画面で角度が微妙に違うように見えました。

黒沢  ええ、今はしゃいで色々言いましたが、『アカルイミライ』は車をどう撮るというのをかなり悩みました。僕の映画だと車はしょっちゅう出てきて、これまでの映画で僕が車を出す時は、それまでバラバラだった人が同じ方向に向かって走り出す時、つまり運転席と助手席で接近して座りますよね。そこで物語上もこの後この人たちは同じ運命を共にするというか、その後バラバラになったりもしますが、共通の目的を持ってしまったような時が多かった。今回は全然それと変えたいというのはありましたね。むしろ車で隣りあって、同じ方向を向いているにもかかわらず、全然隣りあってなくて同じ方向も向いていない、という撮り方はないだろうか。そういうところから分割画面を発想しました。だから向いている方向が微妙に違っていて、隣り合ってるんだけど離れてるんですね。文字通り離した。その最大の目的は、今までの僕の映画の車と違えたい、それは物語上の意味だけではなくて、撮り方も違えたい、というのがあった。

樋口  その関係性の微妙さというのは、藤竜也とオダギリジョーの関係の微妙さでもありますよね。

黒沢  そうですね。物語上ものすごいことが起こるという話でもないのですが、ほっとくとあのふたりは非常に親密で、ウェットな部分で繋がれているというのを表現する気はなくてもしてしまいそうで。どうもほのぼのとしてしまう。実際そのように見えるところも多々あるんですけどね、だから車に乗るとほのぼのとしない、冷淡に切り離したかったというのはありますね。

梅本  ああやって撮ると、いわゆる切り返し使って撮るのとほとんど同じ効果ですよね。

黒沢  たぶんそうなんでしょうね。

梅本  藤竜也が息子と会うシーンがあったじゃないですか。そこが切り返しだったんだけど、視線が全然合わないし、車乗ってるのと同じ感じですよね。

黒沢  そうですよね。不思議なもので、分割場面とはいえ同一画面にいるんですけど、ふたつのものに、単純に「これ」と「これ」というふうにはなりますよね。それができたのもビデオだったからです。

女性

樋口  オダギリジョーの妹は出てきますが、女の人があまりでてきませんよね。

黒沢 出てこないんですよねぇ。そうなんですよねぇ。出てこないことがさも狙いであるように見えるのですが、最初っから女性はほとんど出てこないと考えていたわけではないんです。ただメインの人物を考えていくとどうしても男になってしまう。それ以外に女性を無理に出してくる必要もないということでいなくなってしまったんですけど。これは、たぶんに僕の性格とか好みに依っているんだと思いますね。
 やっぱり恋愛の要素がわずらわしいんです。特に今回わずらわしく感じて、女性が出てきたからといって恋愛をしなきゃいけないという理由はどこにもないはずなんですが、少なくとも男が主人公で、重要なポジションに女性がいると、なんか恋愛問題が持ちあがりますよね。しないなら「なんでしないんだ」とか言われてね。持ちあがってきちゃう。持ちあげなくてもいいんだけど。それで僕が混乱しそうで。「夫婦」だとまだ混乱しなくてすむのですが。こりゃなんでか自分でもわからない。

樋口  不思議なのは、女の人が出てこない映画はいっぱいあるじゃないですか。男たちだけの映画って平気であるんですが、『アカルイミライ』はなぜか女性がいないのが気になる。それが不思議だったんですよ。3人の関係が恋愛感情を含んでの関係だったからなのかなあ。

黒沢  『アカルイミライ』は特に男だというのが重要になっているわけではないんですよね。しかし脚本を書いている途中からプロデューサーも「こんなに男だけだったら、ずばり全員ゲイにしたらどうか」なーんて言ってたんですよ。それは僕は「絶対嫌だ」と拒否をして。そしたら「ゲイにしなくてもいいから、浅野忠信のシャワーシーンとか入れない」とか言われて。

(笑)

黒沢  「冗談じゃない」って。僕自身は彼らの関係を恋愛だと考えたことはないのですが、まあわからないです。結果的には男同志の愛の関係と言う人がいたらいたでしょうがない、と。別にシャワーシーンはないんだけれども。だから強い狙いではないんです、自然にこうなってしまったという。

クラゲ

樋口  クラゲが出てくるじゃないですか。クラゲは単性生殖で分裂していくんで、クラゲと画面分割というのが妙に繋がって見えました。

黒沢  そこまでの狙いはなかったんですが。まあ、ひとりひとりバラバラで、孤立していて、そのぶん勝手に自由にしている、一見家族のようでも家族じゃないというのは僕の今までの映画でもあったのですが、今回も車のところでは特に単体なのだ、とはっきり見せてしまいましたね。

樋口  クラゲっていうのは、最初から想定されていたんですか。

黒沢  ええ、わりと初期の段階から、まだ物語をどうしていいかわからない段階から、あることはありました。
ただこれも、いろいろないきさつがありまして、『アカルイミライ』の企画がスタートする時に、プロデューサーサイドからジャンルものではないもの、僕が今まで撮った中でいうと『ニンゲン合格』に近いものにしたいという要請があったんです。自分自身もホラー物がたて続いたせいもあって、「じゃあそれでいきましょう」と。それで東京で撮るというのも最初からありましたね。じゃあ東京に住んでいる人間模様を淡々と撮るのかっていうと、それはやだって思いがあった。どのみち東京に住む人々の人間模様にはなるんですが、彼らの日常の中でカタがつくような物語にしたくない。つまり変なものを出したかったわけですよ(笑)。そこで幽霊とか出てくると、これは又ホラーとなるわけですね。そういうものじゃなくて、何かちょっと変なものを出したいな、出した上でそれが中心にならなくてもそこから物語を考えていこうっていう発想でした。
何の脈絡もなく最初に思いついたイメージは、主人公がアパートで、夜中目を覚ますと壁が崩れ落ちる、するといままで全然気付かなかった路地がそこにある、でそこになにかがいきなり通っている。で何がいいんだろうと。最初はトラとか思ったんですけど、トラが通ってたら、これ違う映画だなって。あとはそんな変なものではないのですが、通ってたら衝撃的だと思ったのは、クリント・イーストウッド。

(笑)

黒沢  これは結構衝撃的だな。不可能だよなとかですね。そんなことを思っていたのですが、壁は止めて床になって、床を剥がすと水があってそこに15メーターのホオジロザメが泳いでたらどうだろう。いや、これは又違う映画だ。という思考錯誤を経てクラゲになったんです。

樋口  ではあの床を剥がすという行為が最初にあったということですか。クラゲではなく。

黒沢  そうです。床を剥がすと、水がある、何かいる、クラゲ、と。それが物語のどこかにあるというのが最初の発想だったんですよ。僕ってそういうとところからしか映画を発想できないんです。緻密に人間関係を構築するというのではなく、何か思いつきの荒唐無稽なイメージから、じゃあそれは誰なんだ、なんでそこにクラゲがいるんだとか、そういうところから話ができていく。

樋口  クラゲは、水の中をぼんやり光っているという見た目からきているわけですか。

黒沢  そうなんですね。思い起こせば『ニンゲン合格』の時も、主人公が朝起きたらいきなり馬がいるというイメージがかなり早い段階あったんです。

梅本  最初浅野忠信の部屋でクラゲが遠くにぼんやりいるじゃないですか。印象的ですよね。

東京

梅本  浅野忠信の部屋とオダギリジョーの部屋って全然違うじゃないですか。どうしてああいうインテリアにしたんですか。

黒沢  基本コンセプトとしては場所も含めて、衣装、インテリアも、「貧乏」というのをキーワードにしたんです。で「貧乏」と言っても色んな貧乏がいるだろう。だから東京で若い男がひとりで住んでる部屋ってどんなのと、たくさん見ましたね。で色々見た挙句、わりと両極端のふたつを選びました。つまり浅野忠信の部屋は実に無機的、ほぼ家具も何もなく、がらんとしてほとんどくらげ飼育室に近いところ。でも、いまどき流行りのフローリングはぜったい嫌だと。浅野忠信の部屋も古い部屋なんですが、いま古い部屋も床だけリフォームしてあの嘘臭いフローリングがはってあったりするんですよね。「あれは絶対嫌よ」と言って。選んだのは絨毯の部屋なんです。
 一方オダギリジョーの部屋は木造の古い日本家屋。少なくともオダギリジョーの部屋は床がバリッと剥がせなきゃいけないから、コンクリだとまずい。であの部屋は畳だったんですが、畳を剥がしてもいきなり水は無いわけですよね。畳の下には床がある。だから敷いてある畳をを全部どかしましたね。

樋口  映っている風景は家も含め、部分部分で見ると「ああ東京のここらへんか」とわかるような風景なんですけど、全体がどういう街なのかわからないようにつくってありますよね。

黒沢  これはね、しかしわからせようがないんですよ。「東京で撮る」って選んだ時点で。まあひじょうに限定して、歌舞伎町とかね、東京の中で限定した場所を感じさせるのはできるんだけど、表参道もあり、新宿もあり、実際埼玉も混じってたりするんですけど、その継ぎ接ぎが東京だということです。もっと限定した撮り方もあるんですが、それは逆につまらない気がしますね。よほどストーリー上の要請があればそういうこともするんですが、ここって限定しちゃうと東京ってあんまり面白くない気がする。だから、ああなっちゃったんですけど。

梅本  黒沢さんはどんな風景が欲しかったのかしら。見れば「ああここ初台じゃん」とかわかるわけですよ。で、樋口君が言ってたようなこともわかるんだけど、しかしそれぞれどこの風景も同質なような気がしたんです。

黒沢  そうですね。さっき言った24Pをいじって撮ったというのも関係していると思いますが。しかし今回はいつも嫌って撮らないものを撮ったっていうのはあった。ひとつは看板。もうひとつは電柱。看板や電柱あるいは車ですね、いつもはうるさいなあと思うんです。道と建物だけでいい。でも道と建物だけあってあとは何もないという風景は、東京にはないんですよ。アンゲロプロスなんて見ると、「ギリシャ何もないじゃん!」(笑)。「なんでああ看板も車もない道が何百メーターも続いてるんだ、ギリシャでは」と思ったりして。実際には知らないですけど。でも東京はそうもいかない。後ろに車がんがん通ってます、看板が込み入って立ってます、電柱や電線があちこちに張り巡らされてます、だから道とか建物はそれに隠れてよく見えません。だから今回はそういう風景を積極的に、というかあったらそのまま撮っちゃえと実行しました。たぶんそれらのことでイマイチどこだかわかりにくくなっているという気はします。そこでポンと高層ビルがあったり、パンと道が一本通ってたりすると、その場所がはっきりするんですけど、その前に電線があり、電柱があり、車が走ってたりすると、そこがどこかってことが希薄になってくる気がしますけどね。

樋口  藤竜也の電気屋さんの横で、電柱越しに下を見下ろすシーンがありましたよね。「電柱の頭が見えるところにカメラを置くなんて」と驚いたんですよ。あの位置から電柱を見下ろすような俯瞰って、今まで映画の中であっただろうかと。ひとつはこんな位置から見下ろすショットをいままで見たことがない。あそこの視線は誰が見ているんだろうと。

黒沢  あのショットはかなり狙ったんです。あの場所も散々色んなところを見た。藤さんの工場みたいなところがあって、電柱があって、そのすぐ近くに、カメラを置くに絶好の高いマンションがあるんですよ。「ここだ、あそこから撮れる」と。たまたまああいう建物があったからなんです。これも深い意図があったわけではなくて、電柱ごと撮りたいという欲望だけですね。今までも汚い工場は散々撮ってきたんですが、それを電柱ごと撮りたいんだっていう。その欲望に突き動かされてあの場所を選んだという感じですね。だから、誰が見ているんでしょうね。

樋口  手前に何かあって、それ越しに何かが見えるショットというのは、それを見ている主体というのがどうしても気になるんですよ。

黒沢  いままでは邪魔なものを排除していたんですよね。建物がポーンと建ってていて、それを誰が見ているのでもないひじょうに客観的なショットで撮りたいと。実は建物の周りに様々なものがあるのですが、それをできるだけ排除して、客観的なショットが撮れる場所を探してた。それを今回は止めた。誰が見ているのかということを物語上では言えないのですが、しいて無理やり言えば、普段僕たちが見ている東京ってこう見える。まあ電柱を上から見ることはあまりないかもしれないけど、建物がポンっと見えることはほとんどないんです。だいたいなにか越しに見えてるんです。かならず手前に走っている車越し、看板越しに見える。頭の中の風景はそれを排除しているかもしれないけど。だからそれは普段僕らが見ている東京なんです。そうとしか言えないですねぇ。

梅本  確かにそう。僕の自宅のバルコニーから見ると東京の景色ってきれいなんです。で僕の家は話題の建物なんで雑誌の取材がたくさん来るんですよ。その時カメラマンがバルコニーから風景撮りたいって言うんだけど、目の前の電線と電柱が邪魔になって風景は半分しか映らない(笑)。ホントに黒沢さんの言う通りの風景しかない。もうひとつは僕がオリヴェエ・アサイヤスのロケハンにずっとつきあってた時も、この風景が欲しいと言う時に、絶対看板、電柱が邪魔してる。その時彼は電柱そのままでいいから看板全部変えようって、看板を全部欲しいものに変えるんです。

黒沢  そうなんですよね。それが良いも悪いもなくて、東京はそういうところなんだと。これまで無理をして、そうじゃないところそうじゃないところと、ぬけのいい風景探しまくっていたのを、いちど止めて、無理しない、今回は撮れるままを撮ろうとした。まあその決断ができたのも今回多少画質をいじれるっていうのがあったからなんですけどね。

表参道

梅本  最後はなんで表参道にしたの?

黒沢  あれも迷いに迷ったんです。とにかく延々移動するから何もない場所がいいんだって言い続けてて。じゃあ湾岸あたりかって言うと、それはぜったい嫌だって。最後の最後まであれをどこにするのか決まらない。助監督が言い出したのかな、「こうなったら表参道どうですか、いっそのこと」。そんなこと可能なのかと思ったんですが、「可能か不可能かやって見ましょう」と言われてほとんどやけくそのような気分でした。というのも、僕は表参道を撮影対象としてはなっから眼中になかった。あんなところで撮影するのはめんどくさい、それに表参道ったって、あの表参道だろ?(笑)という程度で、いままで東京で撮ったっていっても、ああいうところは最初から排除してたんですね。どうせろくなもん映ってこないだろうという先入観で。しかし距離としてはある程度長い距離を取れる。確かにいままで撮ってこなかったんだよね、じゃあ撮れるものかやってみようと。

梅本  表参道は両サイドありますよね。どうして同潤会サイドにしたんですか。

黒沢  や、あれは……、なんでああしたのかな? 同潤会アパートが狙いだったわけではないんですけど。……そう、上り坂なんですね、車に乗ってカメラを回すと。

梅本  確かにそうですね。

黒沢  逆サイドだと下り道でとることになる。でどっちがやりやすいか。車は気をつけないと歩くより速度出ちゃうんで、ゆっくりゆっくり歩く速度に合わせていくには上り坂の方がやりやすいという判断だったと思います。下り坂だとブレーキかけながらになるから。

梅本  いや、なんでそんなこと聞くかっていうと、映画に映る同潤会アパートはおそらく『アカルイミライ』が最後だよね。

黒沢  ああ、それはそうでしょうね。

梅本  壊しちゃうから。だからあのシーンを見た時に、ジャック・リヴェットの『北の橋』みたいだなって。壊しちゃうとこばっかりって(笑)。

黒沢  それは僕も撮ってから思いましたね。もうないんだよね、撮ろうと思ってもって。

樋口  『アカルイミライ』は藤竜也があんな職業だから余計に「壊しちゃうものばっかり」と思いますよね。

梅本  でもそれはオダギリジョーも浅野忠信も一緒じゃない。彼らは布のリサイクルをやっているわけだから。

樋口  みんなリサイクル(笑)。

黒沢  いや、そうなんですよね。

労働

梅本  なんでオダギリジョーと浅野忠信の職業をあんな綿密に撮ったんですか。あれを見て、「おしぼりってこういうふうにリサイクルされるんだ」と僕は初めて思ったんですけど。岩波の科学映画みたい(笑)。

黒沢  最初は僕というより妻の発想だったんです。「いままで物語に深く絡んでない労働の風景って撮ってないよね」と。「労働」って言葉もなんですけど、若い男が主役だったらまずは彼らが労働しているところから入る、「まずはそこから始めない?」という妻のアイデアがありまして。最初は水産加工工場とかね、食品関係を狙っていたんです。だから肉体労働でもなく、あんまり人工的なものでもなく、野菜とか肉とか魚とかそういう生のものを扱う労働の姿を見せたいと。で様々な食品工場に行ったんですが、実際の食品工場は清潔を第一に考えていて、とてもじゃないけど撮影させてくれないんですよ。まあ当然ですよね。商品に問題があったらたいへんなことになるので。どこも断られて。で食品はあきらめて、工業製品の工場とも違う、なにか単純労働の現場を探していた。そうしたら「おしぼり工場があるよ」と言われて、「どんな工場?」と見に行ったら結構面白い場所だったんです。やっている作業というより場所自体が。それで即そこに決めたという経緯がありました。

梅本  カウリスマキの『罪と罰』ってあるでしょ。最初そっくりじゃない?

黒沢  『罪と罰』は見てないですねぇ。

梅本  いや、『マッチ工場』でもいいんですが。確かにおっしゃる通り、『キューポラのある街』とかああいう労働賛美映画は別にして、労働しているところって日本映画についぞ出てきたことがない。

黒沢  そうなんですよね。僕も言われると意図的に排除しようと思ったわけではなく、そういうシーンが最初から浮かばない。もともとそういうシーンがないかのような発想をしていた。だから今回やってみたんです。単純作業をがしゃがしゃ撮るというのは、やってみて面白かったですけどね。そこに何のドラマがあるわけでもなく、物語上重要な意味を持つわけでもない。でも労働している風景というのはそれはそれで見られるものなんだなって思いましたね。