
黒沢清インタビュー 存在そのものとの対峙
黒沢清インタビュー インタビュアー:大寺眞輔
環七の風景
大寺 非常に個人的な話なのですが、ぼくは一時環七沿いに住んでいたことがあるんですけど、そのころ毎日見ていた風景というか、東京の西の方風土性というか、においというか、そういうものが『回路』を見ていて、まず最初に気になりました。まあ、それほど記憶が染みついているような街並みではなくて、たとえばストローブ&ユイレの映画にでてくるような昔からの記憶のあるような風土性はないんですが、ゴチャゴチャした中に大きいものがドーンと出てきてたりとか、大きな道がはしってたり幹線がはしってたりする中にマンションがポツポツあったりとか、そういうものを『回路』を見ていて最初に感じたんですが、そういう「場所」ということで少しお伺いしたいと思います。
黒沢 まああの、『回路』に限らないんですけど、まず、日本ではどこでも撮影できるわけではないという大前提があるわけですね。理由のひとつとしては、もちろん、あんまり遠くへは行けないと、つまり東京近郊からはずれてしまうと、撮影の合間にやるべき準備ができなくなる。それと、宿泊になったりするとお金がかかるので、やはり東京近郊で場所を探さざるを得ないということもあります。じゃあ渋谷のど真ん中ではどうだというと、ほぼ撮影許可が下りない。仮に許可が下りたとしても人がたくさんいてですね、あるいは車がたくさん通っていて、そこに俳優さんなどを連れてこようものなら、大変なことになるっていう、様々な制約がまずあるので、自然と、西か東か、北か南かは別にして、東京の中心ではない、ちょっとはずれだけれども、まさに仰るように環七あたりを境にしてですね、東京の周辺部といったところで撮影せざるを得ないんですね。ですから、殺風景な住宅地ではあるんですけど、遠くには高層ビルがぽつんと建っていたり、あるいは高層マンションのようなものがあったりする、一方で、道の反対側にはまだちょっと古い戦後すぐのような家がなくはないと。そういう場所を積極的に選びたいと思わなくても、そういうとこになってしまう、ということがあります。たぶん、これはぼくの映画に限らないんですね。東京を起点にして撮影をする場合、ほとんどの映画がですね、現代の場合、多分こういうもっとも東京らしい風景で撮らざるを得ないんでしょうね。で、ある種のちょっと派手なシーンは、だいたい廃墟、廃工場とかになってしまう。よく言われるんですよ、「なぜ廃工場とか好きなんですか」、と。いや、好きも嫌いもああいうところでしか撮れないのって。そりゃあぼくだって、新宿のど真ん中でやっていいならやってみたいですけど、やれない。北海道の奥地まで行けるのなら行ってみたいけど、行けないので。千葉とか、湾岸地帯とか、そういったところの崩れかかった工場でしか撮影行為ができない、派手なシーンはね。そういう現代日本映画の一つの特徴だと思いますよ。
大 そういったときに、例えば、より場所的な虚構性のようなものを強めて、無国籍映画風に撮るという試みもあり得るのかも知れません。
黒 その無国籍性っていうのをどれだけ意識するかでしょうね。ある種の冗談としてですね、まあひょっとすると三池崇さんなんかやってらっしゃるかもしれませんが、一種の冗談として、ゴダールの『アルファビル』のようにですね、横浜だかなんだかに行って、撮って、これが未来のパリだとか言っちゃうというのもなくはないですけどね。まあ、『大いなる幻影』というのは多少それに近いことをしたんだけれども。ただ、真の無国籍性って何かわかんないけども、ほんとに「これどこだか分かんない」っていう場所って事実上不可能ですよね。森の中とか行ってしまえば多少はそうなるけど、それとてね、単なる森の中ですからね。横浜へ行ったって多分、ああ横浜だっていう。全部コンピューターグラフィックで作っちゃうとか、まあアニメーションですよね、ローマをスタジオで撮ったフェリーニのようにですね、そういうやり方をすればできますが、あくまで街中で、さっきも言いましたが、東京近郊で実写で撮るといったときに無国籍性はほとんど無理ですね。映っちゃいますね。
大 その「映っちゃう」事実に対して開かれている、ということが『回路』という映画にはあるように感じます。例えばトリュフォーがパリのエッフェル塔が見えるところで撮りたいと言ったということを思い出したりもしますが、実際に画面を見ていて感じるのは、高層ビルが見えて、ランドマークがあって、しかも古い家並みもちょっとあって、どうもいびつな感じの不思議さというか、そういうにおいみたいなもの、それが、ぼくなんかは東京の西の方の風景だなと思ったんですけど。
黒 そうですね。ぼく自身は見慣れてはいるんですけど、まあ、東京以外の人とか、あるいは海外の人にとっては、これはこれで、奇妙な、独特な風景のようですね。逆に渋谷のど真ん中とかで撮っちゃうと、まあ、ファッションとかは独特かもしれないけれども、街としては単なる無個性の都会にしか見えない。そういうまさに、環七の外側とかですね、そういうところで撮ると、僕らの目から見るとあまりにもありふれた東京なんだけれども、海外の人から見ると、これは台湾でもない、香港でもない、中国でもない、東京なんだろうなあ、きっとなあ、ってことはあるでしょう。 ただ、ヨーロッパみたいに、街じゅうほんとに古いものが残ってると、国籍みたいなものや時代性が、けっこう簡単に曖昧になったりするんですね。そこにいやでも歴史的な意味が込められちゃったりするっていう。ヨーロッパの人にとっては、それがうるさいっていう見方もあるんでしょうけど。例えば、テオ・アンゲロプロスのある種の映画のように、どこだか分からないギリシャの街中を歩いているうちに時代が20年経ってしまいましたと。日本でやれないですね。20年経ったら、全然風景が変わるから。向こうは多分ね、何百年単位で風景が一緒だから、ちょっとした看板をはずしたり、車をどけたりするだけで、一気にね、僕らの目から見たらですよ、ある種の歴史性を獲得してしまうんですよ、街がね。200,300年前の建物が平然とあるんですよね。日本だと、京都とか、特殊なところに行かない限りそんな風景ないんで、江戸時代からワンカットで現代までって、それは一種の冗談以外では街が許さないんですね。衣装も許さないけど。そのへんは、東京のそういうところであると同時に、そこで撮るということは、イヤになるぐらい現代、自分にとっての今という風に見えてしまいます。
ジオグラフィー
大 もう少し大きな意味での「場所」というか、ジオグラフィーのようなことをお伺いしたいと思います。『回路』に関するインタビューで、『未知との遭遇』のタイトルを黒沢さんが出されていたと思うんですけど、あの映画って、世界各地のいろんな場所で出来事が起こって、上に UFOが出たみたいなことがあった後に、どんどん話が収斂していきますね。一つの場所のイメージのようなものが提示されると共に、方向性ができてくると思うんですが、『回路』という映画も最初東京の西の方で出来事が起こるんですが、東の銀座の方に最後移動して行きますね。それから、あれは、東京湾ってことでよろしいんでしょうか?
黒 ええ、東京湾です。そんなによく分からないと思いますけれども、あれは晴海よりもうちょい東なんですけれども、でも銀座から車で走って、行っておかしくないよねっていう場所です。
大 それで、最後にそこから、モーターボートに乗って、大きな船にどこかで乗り継いで、南へ行くという話になるんですが、南って言うのは『エル・スール』と同じで映画では描かれていませんけれども、非常にラインがはっきり見えるというか、東から西へ行ったあとに、南へ行くという。そういう、物語の状況の進行とあわせて、地理的に移動するということが意識的に行われているのではないかと思ったんですが。
黒 それを、明快な狙いとして最初から発想したわけではないんですが、やはりある時点でそれは多分、脚本ができて、準備が進んでいる、つまりロケハンなどしている段階でしょうね。仰る通り、どうも最後東京湾から逃げる。で、南へ行くとすると、これは別に映画的な運動というレベルではなくて、なんとなくの日常感覚からですね、千葉に住んでる人が東京湾行って南へ逃げるってなんか変だぞっていうね(笑)。だったら茨城の方に逃げはしまいかとかね。つまり、ここにでてくる登場人物たちはほとんど、明快などこそこへ行くっていう目的があって、動いているわけではないので、逃げるっていう行為ですから、どこか一直線を描くだろうと。東京湾から南へ逃げるとなると、千葉に住んでる人がそういう行動はしないのではないかと。そうするとどうしても、仰るように西から東へっていうのがまあ、日常感覚から言って自然だよねっていうのは、ロケハンなどしてるときに思ってきました。
大 これは以前、『スペースバンパイア』という映画に関して、宇宙空間のような広い場所から、狭い場所に移動する、そういう映画的な運動と物語的な運動との、ある種の平行関係みたいなものがあの映画にはあるんだと、黒沢さんが指摘されていたと思うんですが、『回路』の場合でも、物語的な展開と、地理的な移動という展開、あるいは風景の変化といったものの原理的な関係についてはお考えになられましたでしょうか?
黒 まあ、宇宙空間からロンドンの寺院までっていうダイナミズムは到底ないんですけど(笑)。いや、結構実は考えたんですよ。ただ、正直言いましてね、考えたようにはうまくいかなかったということがあります。これは脚本時点でなんですけど、実は最初考えていた運動というのはですね、もうちょいダイナミックで、最初かなり西、東京とも言えない、仮にということで八王子ぐらいを考えていたんですよ。まあ所沢でもいいんですけど。首都圏よりももう少し離れた地方都市。極端にいうと山梨ぐらいでもいいかもしれないと、実は最初思ってたんですよ。そこでことが起こって、いったん逆方向に逃げる。西かあるいは北に、これは別に目的があってではないんです。彼らは逃げるというためだけに、つまりより山ん中に逃げていく。で、そこでそれ以上行けないとなってですね。急激に逆戻りして、そのまま銀座まで行って、海へ逃げていくという、そういう運動を実は考えていたんですよね。だから、本当はもっと西だったんです。頭の中にあったものは、八王子よりまだ西。ただこれは今回ある程度お金があるからいいかなあと思ったんですけど、駄目だったんです。八王子はぎりぎり許されるんですけど。山梨はとんでもないと(笑)。東京首都圏を完全に離れてる、そんなところでロケはできない。ということで、いったん西に行って戻ってくるというのはやめましたね。まあそれは、ぼくの勝手な思いなんで。それを実現したところで、見てる多くの人にはさしたることではないのだと思って、その夢は捨てましたが、実はそれぐらいのところから発想してたんですね。
大 一度、川島亮介と唐沢春江が電車で逃げる。で、電車に人がいなくなって途中で止まって、っていう、あのシーンに、その最初の発想が反映されていたのでしょうか。
黒 ええ、実はそうなんですよ。あれまあどこ行ってどうしたとか、地理的なことは全く分からないと思いますけど、あのシーンっていうのは一旦西へ行って、東へ戻ってくるっていうのはもうやめたといったときに、その後に思いついたシーンなんですね。あれはどこへ向かっているか全く分かりませんし、それは明らかにしてませんが、あれは一旦は西に向かってるんですよ。それはだいたいちょっと西に住んでる人なら分かるよねっていう。小田急線でも、中央線でも何線でもいいんだけど、列車でどっか行こうって言ったらまず西へ行くだろうっていう。いきなり千葉へ向かう人いないよなっていう。まあ実際に撮影したのは、列車ってそうそう借りられないので、実は秩父の山奥の列車を借りたんですけどね。外はほとんど真っ暗で何も見えないですし、まあ、どこまで西へ行ったかというのはあまりはっきりさせませんでしたけどね。
植物的なイメージと屋上のオフィス
大 場所という関連で、もう少しお伺いします。工藤ミチの勤め先、観葉植物の通販会社がありまして、前半のほうで頻出していますが、あれが非常に面白い場所だと思うんですけれども、まず、『カリスマ』という映画で、カリスマの木を育てる人々、あるいはプラントハンターみたいな集団がでてきて、それと、ここで観葉植物を育てるということの間には、ある種の呼応関係、ある種の参照関係があるのではないかという気がします。例えば、社長さんが一度少し長めセリフをしゃべりますが、あのセリフの内容も、どこか『カリスマ』を思わせるところがあるのではないかと思うのですが。
黒 あの、それはすごく狙ったというわけではないんですけど、むしろなぜか僕の頭の中に自然に湧き上がってくる発想なんですけどね。まあ、植物的なイメージですね。『カリスマ』ではかなり奇怪に変貌していくわけですけども、『回路』では単にその販売をしているというだけなんですが、単純に植物って動かないっていうね。まあ、まったく動かないってこともないんですけどね、『カリスマ』も掘り起こして移動させたりしてますし(笑)。ただ、まあ、見た目には自分の意志で動かないものですよね。周りだけが変化しててジーッとそこにいる存在っていうのはなぜか惹かれるものがあって、『回路』に関しては、そのイメージは、仰るように社長が何か訳の分からないこといいますが、何もしないこともまた良しみたいなこと言うわけですけど、そこにじっと止まろうと、運動をせずにですね、ただ止まることも一つの選択である、非常に植物的な選択を、それが最後、そういう存在が最終的には勝つ、最終的にはもっとも強いというその思いがどっかにあるんですよ、僕には。しかし、『回路』ではむしろ否定しましたけどね、否定というか、そういう存在も崩れ去るっていう。じつはね、撮影はしたけど使わなかったカットで、社長が屋上の端から自殺しかかってるっていうカットがあったんですけど、それは実はやめちゃったんだけれども。『カリスマ』との関連はややこしいことになりますが、そういうどっかぼくの憧れって言うほどでもないですけどね、植物的な理想像のようなものも、『回路』の中では、これもまた滅びていくっていう。それで、主人公たちはむしろ動物的といいますかね、レミングのようにですね(笑)、無目的にダーッと移動して、こういう奴が真っ先に滅びそうなものだけど(笑)、実はこいつらが、こいつらといってもたった一人ですけど、生き延びるという構造にしました。
大 『カリスマ』の森という空間がありましたよね。森ということで植物に囲まれた、今仰られたような、不動の動かないような、一つの内的な体系が存在していて、ただそれは単なる内部ではなく外部とも関係があるのだっていうことを映画のラストで示されたということを以前のインタビューで仰られたと思います。で、そうしたものに対して、ミチの勤め先の観葉植物の通販会社というのは屋上という場所にあったと思うんですが、屋上っていうのは非常に特殊な場所で、建物に属しつつ外部にも開かれている。しかも遠くには高層ビルとかいろいろあってある程度場所性がはっきりするっていう、そういう場所だと思うんですが、その屋上という場所を選んだというのは。
黒 じつは屋上というのは『回路』に限らず、よく選ぶんですけど、それはまた僕の映画に限らないと思うんですね。ひとつは最初の話に戻りますけど、結構都会の中であるにもかかわらず、屋外で撮影しやすいっていう(笑)。屋上は車とか通ってないんで。というのが一つ単純な理由としてあります。それと、もう一個、これは今回はね、最初から屋上だったわけじゃないんですよ。脚本上は会社というものがあって、ですから会社そのものは屋上にはない。どこかのフロアーにあって、別のシーンでその屋上という風に別途なシーンになっていたわけですね。ところがですね、いろいろ準備していくうちになぜだかは分からないんですけど、どうしてもオフィスで行われてる芝居と、それから引き続き屋上で行われてる芝居とがね、どうも一繋がりにならない。いちいちエレベーターで上がっていったりするとですね、手間がかかるわけですね。一気に屋上にでていきたい、っていう風に思い始めたんですよ。それでまあ、オフィスそのものをみな屋上に移動させてしまえという風にしたんですが、これはね、多分、都会で撮るための一つの手段なんだなと思いました。例えばですね、室内と屋外が、別な空間であるにもかかわらず、一気に連結するっていう瞬間ですね、これは西部劇なんか思い出すといくらでもあるんですよ。家の中で何とかかんとかと言って、出たらそこは大平原っていうね。あるいはもちろんある種の田舎へ行けば当然そういう風景なり、場所はあるでしょう。家でも店でもいいんですけど、何かしていて、よしってバーッと外に出たら、そこは広い。ただ、東京でこれをやるのはほんとに厳しいんですよね。一回出たら、電車に乗るとかですね、えらい手続き踏んでやっと広いところへ行けるんで。ずいぶん郊外まで行けば、なんとかあるんですけどね。『ニンゲン合格』の時は千葉まで行ったんですけど。ほんとに都心、まさに環七あたりを境にしちゃうと、よほど大邸宅っていう設定なら別ですよ。それでも厳しいと思うなあ。開けちゃいないですよね、木が立っている程度で。室内から一気に外へ持っていくっていう、次の瞬間外ですっていうのがね、もう屋上以外あり得ないって思いますね。だから、そういうことがやりたくなったら、躊躇せず屋上使うっていう風なのは、もう決めちゃってますね。ほかの手がなくはないけどね。よほど特殊な設定にすればね、湾岸沿いとかね、なくはないんですけどね、またかなり特殊な場所になってしまいますね。
大 『スウィートホーム』の間宮邸は今仰られたように大邸宅みたいな感じでしたけど。
黒 ええ、あれはもう、あれぐらい金があれば(笑)。屋敷そのものがスタジオセットですし、外は富士山ですからね、ワンカットって訳にはいかないけれども、ドア開けて出たらすぐ。まあ、それでもね広々とはしてないんですよ、日本の場合、木が生えてるという程度でね、西部劇のような視界が開けないです。それは無理ですね。北海道まで行けば知らないけど。
大 屋上という場所は、都会の中である種の開かれた空間というか、遠くに高層ビルも見えるし、それでいて屋内という閉ざされた場所であるという、その開かれた場所と、閉ざされた場所のある種の弁証法的な、と言うか、一種のせめぎ合いがある。どちらからどちらへも、一瞬で移動できる。
黒 そうですね、まあ弁証法かどうかは分かりませんが、それは、もっと単純な効果はですね、一つの説明なんですよ。彼らはこういうことをしています、その場所はここでした、っていうのを簡単に説明する。その場所は、ああ都会なんだと、風景で一発で分かるということですね。説明という意味もあります。だから、これねえ、結構難しいんですよね、場所選びでね(笑)。環七あたりで何かやるにしても、遠くに鉄塔が立っているとか、一発で見せるの本当に難しいです。いやどういう場所かほんとに分かんないんですよ。ずいぶん歩いていかないと(笑)。結構難しいですね。屋上を使わないと、それがどこだっていう説明がね。
大 なるほど。ただ、高層ビルがやはり見えるとか、それは東京という記号を示す以上に物質としての場所性みたいなものもよく見せてくれていたと思います。物質的な固有性と拡がりのある外部と、内部としての部屋の中という、そういう空間のダイナミックな相互運動みたいなものを感じる場所ではないかと思いました。
黒 まあ、そう言っていただくと非常にうれしいですが、どう転んでも東京で撮っているという一つの証ですよね。ここでしか撮りようがないんだよっていうね。
スクリーン・プロセス
大 ここで、画面づくりとか、演出の細部ということでお伺いしようと思います。あの、これは多分何度か既に聞かれておられることとは思いますが、車やバスに乗るっていうシーンで、最近の数作では、スクリーンプロセスを使われてますけど、あのスクリーンプロセスの風景っていうのが、さっきも言いました通り、環七のにおいというか、その空気というのを非常によく表しているっていうか、いかにも高架の下を走っているという感じが濃厚にありました。これは僕の勝手な印象かもしれませんけど、高架下を走っている角度と、実際にバスの後ろで見えるであろう角度とはちょっと違ったような気がしてるんですけど。
黒 ええ、わざとずらしてるんですよ。
大 そうですね。それは意図的なものということですよね。
黒 ええ。あのずれ具合がほんとに難しくてですね。そういやちょっとずれてないっていう程度が、狙いだったんですけど、やりすぎるともう露骨にずれてるし、ふつうにすると誰もずれてることに気づかないしっていう。何度もやり直したんですけど。微妙にずれてるんですね。 まあだから、なんでずらしたんですかと問われると非常に困っちゃうんですけれども、僕の映画はいつもああいうシーンが多いんで、もうやめようと思ってますけど(笑)。車でどっか行く、車でさあ向かうぞっていうときに、これはもう明らかに昔の映画の記憶があるからなんですけど、引き返せない運命にあるんじゃないかっていう、ただただ物理的に移動してるだけではなくて、運命はそちらに向かってますっていう感じが、僕なんかにはどうしてもするんですよ。普通の人がするのかどうか分かんないけど。登場人物が車でどこかへ向かい出し、それをなおかつ正面から撮ると、その、どんどんどんどん運命がそっちに向かっちゃってるっていうのを表現するためにどうするんだっていうね。乗ってる人は何もする必要ないんですよ。ただ乗ってりゃいい。背景なんですね。背景にどれだけ見ている人の関心を引き付け、かつ引き付けないかっていうね。いや、もう露骨にどこか街走ってると、リアルにね、これ意外に、ただ車が走ってるというだけになっちゃうんですね。これは一般的なことではないと思いますが、古い映画が運命的な感じがしたのは、スクリーンプロセスだから、なんだかリアルじゃないから、昔作った人は狙ってもいなかったかもしれないけど、一種のあのスクリーンプロセスの、リアルとも違うあの抽象的な空間が、これって運命かもしれないっていう効果をどうも上げてたらしいと。ただリアルにやっただけではその運命感は出ないんだよな、と。といってね、めちゃめちゃにしちゃうと、進んでる感じすらなくなるんで、その間を狙うっていうのを毎回やってるんですけどね、あの手この手でね(笑)。
大 40年代から50年代のアメリカ映画を見ていると、今仰られたような運命性みたいな、抽象性みたいな空間が確かにあると思います。例えばヒッチコックなんかはかなり意図的にそれをやっていたと思うんですけど、『めまい』とか、ああいう映画になるとスクリーンプロセスに貼り付いている抽象的なものが、ある種、フェティシズムみたいなものになるぐらい徹底してやってるように見えます。
黒 まあそうですね。ヒッチコックがたぶんかなり意識的にやった一人でしょうね。だから、それを真似ようとは思ってはないんですが、僕の映画の中で、そんなに車に乗ってうろうろするシーンはないんですよ。ごくたまに出てくる。ただ、たまに出てくると非常に、実は微妙ながらそこで運命の分かれ道があるのですよという、こっちへもう向かってますよっていうのを出すためにやってる。そんな必要がない場合は、だいたい車で行くなんていうのは省略するか、カメラを車内に持ち込みませんね。遠くをピューって走って行くだけ。いや、これはヒッチコックの『めまい』でもなんでもないですが、僕は滅多にやんないんですけど、最後ね、銀座の街を逃げてるっていうあたりでは運転してる側とその見た目の街っていうのを結構何度も切り返して、見せるっていうやり方をしましたけどね。
だだっぴろい空間
大 黒沢監督の映画で、今回の『回路』でも出てきたと思うんですけど、妙に広い部屋が出てくることがしばしばあります。例えば、唐沢春江の研究室、あれがちょっと大学の中では異様なほど空間が大きくて広い。特に手前にだだっ広い空間があります。
黒 いや、ひとえにやりやすいからなんですけどね(笑)。
大 カイエの以前のインタビューで椅子の演出のことを言われてたと思うんですけど、今回も、なんか椅子が動いてますね(笑)。よく分からないんですが、なぜか動いているという。空っぽの空間があって、そこにぱらぱらと人がいたり、椅子が動いたり、散らばったまま配置されてたり、そういうイメージが割と多いと思うんですけど。
黒 そうですね、椅子は、あのこれは何て言うんですか、だだっ広いなんにもない空間、ガランとした空間ですけど、こういう空間というのは、ガランとしてはいますけど、ただそれだけだと、人がいないっていう感じはなかなか出ないんですね。つまり、映画っていうのは何かがないっていうのを表現するのがやたら難しい。映ってなきゃないかっていうと、いや誰もないとは思わないっていう。それでどこまで一般の人に通じるかどうか分かりませんけど、ただ何もないがらんとした空間ではなくて、そこに誰も座っていない椅子が一個ぽつんとあったりすると、急に、あっ誰もいないのか、と見えてくるわけですね。かつてはいたけど今はもういませんっていうことを何気なく暗示するために、空っぽの椅子っていうのを置くことはよくあるんです。まあ、あの、『回路』の研究室はちょっとやりすぎたんですけどね(笑)。こんなに椅子があるのか、しかも動いてるよっていう(笑)。いないよほら、そりゃ違う意味だよっていう(笑)。ちょっとやりすぎました。ただ、意図としては誰もいませんっていうことを表したいだけなんですね。それと、空間の広さに関しては、よく人に「広すぎませんか?」と指摘されますが、僕は頑として「いや、広すぎない。それは、あんたの頭の中にあるものが狭すぎるんだ」って答える。ほとんど根拠ないんですが、これが正しい広さだっていう。「いくらそれが理想でも、日本の家屋はそうなってませんが」?「いやいや、そうとは限らない」、と。「それはあなたがよほど狭いところに住んでるんだよ」、とね。リアルな広さが一方にあるのが分かりつつ、映画として正しい広さというものが、どっかにあるのだと思います。それを無理やり押し進めようとは思いませんが、可能な限り折り合いをつけてですね、そのために屋上も使うわけで、あの広さは何ら広すぎないっていう、適切な空間であるっていうことで決定するんですけどね。
中心の欠如
大 それは映画にとって適切だっていうことですよね。人間的に適切であるとか、あるいはさっき黒沢監督が仰られたように心の中で頭の中でこれが適切だと思っているものよりも実際の映画で適切な空間というのはもっと広いものだっていう。だとすると、別な言い方をすると、僕が思うには、これは多分、人がいないっていうことと共に、ないってことで言うと中心がないっていう空間でもあるんじゃないかと思うんですけど。どこにでも人がいることができるし、いないこともできる。そして、いないということが欠如として露呈する空間、というようなことだと思うんですが。
黒 それは非常に関連があることだと思います。それと忘れてはならないのは、今のところスクリーンが横に長いということですね。それはある種の舞台-舞台ってどちらかというと横に長いんですね、観客席に対して-そこからきているのではなかろうかと思うけれども。そこにがらんとして誰もいませんっていう感じをいれるには相当広くないとそう見えない。ここ(インタビューが行われた喫茶店)でも厳しい。スクリーンって横長ですからね。横長にピタッと収まっちゃうとね、ピタッて入っちゃうと、生で見ると相当がらんとしてても別に変じゃないんですよ。いや、ここはね誰もいない感じにしたいんだよ、もっと横長じゃないとっていう、日常感覚よりはかなり広いものだと考えてますね。
大 中心を欠いた空間であるということと、黒沢さんの最近の映画 -ホラーとは限りませんが- そこで画面の中心を外した場所であるとか物語の進行からは少し外れたような場所、そうした場所に不気味なものが映ってしまっているということの間には、一種の関係があるように見えます。例えば、『回路』で言いますと、図書館で川島亮介が男の子の幽霊を見るというシーンがあったと思うんですけど、あそこで、男の子の幽霊を見るっていう以上に、その後ろで、大学の図書館とかではよくあるんですが、壁に向かって座る机みたいなものがあって、そこで女性が一人座っていると。あれが妙に怖かったんですけど、物語には全く関係してきませんし、画面の中心にもない。そうしたものが実は怖いという、そういうものとも関係があるのではないかと思うんですが。
黒 あの、まあ、それはそうです(笑)。『ホワット・ライズ・ビニーズ』とかは、これでもかとやってましたけど(笑)。こっちの隅が恐い、いや、こっちの端っこだ、案外ここも、とかね(笑)。ちょっと笑っちゃいましたけど。それは多分、僕がオリジナルでやり出したことではなくて、ご承知とは思いますが、僕以前に鶴田法男さんとか小中千昭さんといったような方々が先駆的にやりだした、俗に言う心霊写真の効果というやつなんですけど。まさに中心を外した、通常、人はその辺は見ませんっていったとこにこそ、まがまがしいものが存在している。心霊写真ですよね。ぱっと見ふつうの記念写真に見えて、「ここを見て下さい。」-「あー、写ってる。」っていう。真ん中にどーんと写ってるっていうのは滅多にないんですよ。なんであんなところにいつもいるか分かりませんが、画面の片隅、切れるぎりぎりのところ、普通は光がちゃんと当たっていないところ、といったところにすごく気になってくると、何か怖いような感じがするんですね。
大 人間の視覚とカメラのビジョンは違うということがあるでしょうか。映像として撮られてそこにあるものは、人間の視覚とは必ずしも同じではない、という。「映像のカリスマ」の中に「メディアとしての映像、メディアとしてでない映像」という黒沢さんの文章があったと思うんですが、それで言うところの「メディアとしてでない映像」という怖さみたいなものが。
黒 まあそうですね。その文章何書いたか全く忘れたんですが、どこか非常に映画マニアといいますか、映画至上主義というかですね、映画がある情報なり意味なりを伝える手段であると考えたくないっていうですね。映画それ自体で素晴らしいと思いたいがための一つの作戦なんでしょうけどね。だから、テレビなんかでやってもどこか空しいですよね。テレビっていうのは、「これを見なさい。」っていう。これしか見れない、っていう。大きさもありますし。ブラウン管の脇というのはですね、お茶の間が広がっていてですね、暗闇じゃありませんから、ぎりぎりのところというのはどうでもいいんですよ。映画館で、スクリーンの切れるぎりぎりのところというのは気になるんですけど。テレビだと、ぎりぎりのこっちには単に機械があってですね、この違いは大きいんで、映画が暗闇の中で上映する一つの見せ物であるということへ憧れの現れ、やや姑息な現れの一つではなかろうかとは思いますけどね。
大 おそらく、そういう瞬間というのは、映画の存在論的瞬間とでも呼ばれるべきものだと思います。では、そこで、中心を外したところで何かが映っている怖さというときに、さっき仰られた『ホワット・ライズ・ビニーズ』なんか、あれは事前に全てを意図的に準備して、というものだろうかとも思うんですが、黒沢監督の場合はいかがでしょうか。すべて事前に考えるものなんでしょうか、それともその場に行って、あれは怖いからなんとなく写してみようとか。
黒 いや、もちろん事前に考えます。事前に考えますが、と同時に、これが難しいところなんですが、撮影現場で最適なものを発見するという。これが度胸がいるんですけどね。事前に考えたとおりであれば、全く滞りなく撮影行為は進むんですけど、往々にして事前に考えた通りではない、事前に考えたもの全部やめて、ここに立ってた方がいいんじゃないかとかですね、急に10秒間ぐらいで思いついて実行する。度胸がいるんですけど。だから、まあそれらの合体ですね。『ホワット・ライズ・ビニーズ』はどうしてるんだかね。あれでも、いくつかはその場で考えたこともなくはないんじゃないかとは思いますけどね。ただ、合成とかを使い出すと、その場での思いつきはあとの祭りなんですよ。事前に考えておかないと。そこが厳しいとこですね。
垂直の落下
大 モーションコントロールカメラなどを使う場合は、これは完全に事前に準備しておかないと駄目、ということですね?
黒 はいそうです。モーションコントロールカメラの時は事前に、といってもかなりむちゃくちゃな使い方しましたが、それでもやはり、いつもよりは事前に決めておかないとだめでしたね。
大 モーションコントロールカメラで撮影された飛び降り自殺のシーン、たまたまほかの映画を見に行ったときに、劇場の予告編で僕は最初に見たんですけれども、タイトルが最初に入らずに予告編が流れますよね、なんとなく普通のジャパニーズホラーかなって思って、特に印象もなく見てたんですが、あのシーン見てびっくりしまして。こんなカットを撮る監督はそうそういるものじゃない、と。飛び降り自殺というのは、垂直の運動ですよね。横長の画面に対して、垂直っていうのはある種の限界的なものがあるということは以前蓮實重彦さんが指摘された通りですけれども、あそこで垂直に人が落ちるというのをワンカットで撮るという、それは非常に野心的な試みではないかと思ったんですが。その辺の意図を。
黒 ええ、野心的ですし、これはもうヒッチコックを挙げるまでもなくですね、多くの映画監督たちがですね、古今東西、人が落下するのをどう撮るんだっていうですね、あの手この手考えてやってきたことの流れの一つだと思います。僕だけがこんなことやろうとしてるわけじゃなくて、人がどたんと落ちる、それをどう撮るんだったいうのは、本当にはなかなかできない分、非常に原始的な映画心をくすぐるもののようですね。まあ分析していきますともちろん蓮實さんが仰ったように、本来横に動くものには様々に対応する、非常にスムーズに横の動きを捉える横長のスクリーンも、縦の動きにはいきなり硬直すると言いますかね。その分ショッキングなんですね、縦の動きをいきなりされると。まあただ、本当に人間が高いところからぼてっとは落ちれないわけですから、まあさまざまにカット変えたり、いろんなことが試されてきたと思います。僕も野心的にチャレンジしてですね、今回はそのモーションコントロールカメラを使えるという前提があったものですから。何をかくそう昔から、昔からといっても10年ぐらい前から、もっと前からかな、できるもんなら一度こう撮りたいっていう。ある意味でもっともシンプルな、もしほんとに落ちてくれるならこう撮るよねっていう最も素朴な撮り方をしてみた。昔からああ撮りたかったんですね。
大 予告編の時は落ちるところだけ、それでもびっくりしたんですが、実際に本編を見てみますと、それ以前にいろいろ上の方で動きがあって、それから落ちるっていう風になって、それでもう一度びっくりしました。素晴らしいシーンだと思います。
80年代以降のジャンル映画の記号
大 そういう、映画の存在論的部分であるとか、あるいは「メディアとしてでない映像」みたいなものに対して、「メディアとしての映像」ということに関しても、この映画の中では、黒沢監督はかなり意識的に考えられてるように見えます。つまり物語を伝達するための映像。たとえばですね。恐怖におびえる表情のアップであるとか、最初に工藤ミチが首吊り死体を見つけるというシーンで、真ん中に半透明のカーテンがひいてあって、そこに近付いていくミチを後ろからずーっと撮られてますよね、サスペンス映画みたいに。こうしたものとの融合というか、これを意図的に取り入れられたっていうのは。
黒 これはですね、僕の意識はですね、物語を伝えるのだということよりも、やっぱりねジャンルなんですよ。これ、ホラー映画です、分かるでしょっていうね。これはホラー映画なんです、みなさんそう思って見て下さいっていうそういうことをかなりはっきり、少なくとも前半では、やろうと思いました。実際、これはそのように売られるものですし、お客さんも多くの人はそう思って見に来るであろうと想定できるわけですね。その時に露骨に頭から裏切るというやり方もなくはないんですが。ぼくはかつては平然とセオリーを、これはこういう映画だっていうジャンルをはっきり守って、やったこともありますから、ここしばらく、何映画か分かんないっていう映画を撮ってきたんですけど、あるいは、あきらかにこの手の映画かと思っていると全然違ってくるというのもやったんですけど、今回はホラー映画なんですから、ホラー映画の記号を、物語の説明というよりも、あちらこちらに入れます、っていう。当然その記号なるものは、ここが難しいというか、今回肝に銘じたことなんですけど、そういうある種のジャンルの記号は現代のハリウッド映画がベースになっている。間違っても、1940年代の活劇とかですね、70年代アクション映画といったものは持ち出さない、それを持ち出すと、多分今回狙ったターゲットには届かないだろう、というのはなるべく避けるようにしました。
大 現代のハリウッド映画と言われますと、本当にいまリアルタイムで劇場にかかっているものなのか、それとも例えば80年代以降。
黒 うーん、だからねそれはやっぱり、まさにリアルタイムっていうのは僕そんなに見てないんで、何が典型的なのかっていうのはもちろん分からず言ってます。まあ、80年代以降のことを指すんでしょうね、僕の中ではね。まあだから、一つはですね、これは怖いですよっていう一つの実体、それが死体だったり、飛び降り自殺でも何でもいいんですけど、ある種の見せますという姿勢です。伏せない。一瞬であれですね、ばーんと見せる。それ、見せてしまうということにつながると思いますね。いかにそれを見せずにやるかというんじゃなくて、どのタイミングでまさに、それってなんだか分かんないけど。逆に言うと一昔前、ずいぶん前だけど、60年代以前ぐらいは見せようにも見せられなかったし、さまざまなコードがあって見せられなかったものですよね。それが、見せますという姿勢とでもいうんでしょうか。それが現代のハリウッド映画の一つのジャンル性の証と。円盤が下りてきたら円盤も見せるし、宇宙人も見せますと、いうようなことですね。恐竜は見せる、といったようなことですね(笑)。例えばね。
大 今言われたような以前のハリウッド映画で、例えばルビッチとかでしたら、確実に扉が出てきて、奥で何かが起こっているというのが一つの物語的な装置になっていて、奥行きということがあるわけですよね、何かを隠すという。それに対して黒沢さんが言われたのは、すべては見せると。映画的な記号、ジャンル映画としての記号、そうしたものもすべては等距離にフラットにあって、それ自体を見せるという、そういう形でよろしいんでしょうか。
黒 ええ、そう解釈していただいて結構ですね。ただまあこれが難しい。じゃあ何見せんのとかですね、といってすべては見せられない、とかですね。具体としては非常に難しい選択を迫られるもので、僕もはっきりした基準なり確信なりがあってやっているわけじゃないので、恐る恐るこれ見せれんのかなあとか、ですね、見せれるというからやってみたとか、これは見せれたとしてもやっぱりやめとこうとかですね、さまざまな選択がそこになされるので、実は自信はないんですよ。自信はないんですが、見せれるものは見せていこうという姿勢をなるべく今回は貫きました。しかし、もう一度申しますが、じゃあ何を見せるのよっていう基準はやはりジャンルに置いたということです。ホラー映画なんだから、もちろん死体や幽霊は見せると。
運命の分かれ道
大 物語のことをお伺いしようと思います。映画の後半で、工藤ミチが、川島亮介をモーターボートに残して鍵を取りに行くっていうシーンがありました。あそこで、まず前提としまして、それまで映画の中で二人はずっと会っていなかった、ということがあります。そして、ミチが車に乗っている場面で二人が出会って、工場で川島亮介の方が幽霊を見るというシーンがありますよね。そこのシーンで川島亮介がガソリンを探しに行くということで、二人が一旦別れてしまうと。分かれてしまうということで決定的な出来事が起こってしまうと。でそのあとに、今言ったモーターボートに亮介を残して工藤ミチが行くという、そこのシーンでは特に決定的な出来事は起こらないわけですよね。少なくとも、二人にとって重要なことは起こらない。
黒 いや、鋭い指摘ですね。実はそこはかなり考えたあげくやったことなんですが、すっと見ると別にどうでもいいようなことなんですけど。ガソリンを取りに行くところですね、まず、あそこが決定的な分かれ道になるんですけど、ぼくが物語的と言えるかどうか果たして分かりませんが、いや、あそこ運命の分かれ道っていう風にしたかったんです。あそこで川島亮介の運命は決まった。その後さらにそれをだめ押しするのは、なんかキャップを閉めようとしたら、ころころころころとキャップが転がって中へ入っていくという、あ、もうこっちっていうですね。彼が何を意図しようがそっちへ行ってしまう。そこで、幽霊を見てしまうわけですね。運命が彼をそちらに導いたという風にあそこでは見せたかったわけです。で、一方ミチの方はですね、似たような感じで取りに行くんですが、無事鍵を取って戻ってきてそのまま逃げるというですね。やってることは似てても結果は全く違うんですね。最終的にミチという人だけは、引かれていたかもしれない運命の糸を断ち切ったというですね、亮介と全く違う、一見それが運命の分かれ道のように見えて全くそうではない、それを乗り越えさせたかったという意図が暗にあるんです。だから、似たようなことをしてて結果は全く違いますと。まあ、ちゃっかり工藤ミチは助かるわけですね。逆に言うとそれがまあ、ごくスムーズに鍵が見つかってボートで逃げおおせるという結果になるわけですから。そこは何でしょうね、こういう言葉使い昔はしなかったんですけど、非常に運命的なドラマ展開、運命という言葉は誤解を招くようであんまり使いたくないんですけど、ほかに言いようがないんですけど。つまり人間が意図して、自らの意志によってドラマを起こすのではなく、意志と関係ない形でドラマが起こってしまうっていうことを運命と称してるんですがね。僕は今回に限らないんですけど、やはりいくつかの決定的なドラマというのは運命的に起こしたい、今言った意味でね。ふとしたことでそっちへ行ってしまったっていう。それが最後に結構たて続けにあるというですね。じつはその、川島亮介がガソリン取りに行くっていってその部屋に入って幽霊見ちゃうところですね、ここをどう作るかっていうかね、めちゃめちゃ頭悩ましたとこで、今の形を何とか思いついたんだけれども、これはプロデューサー達は最後まで反対しました。これじゃ馬鹿じゃないの、って(笑)。いや馬鹿じゃない、運命なんだよって。その代案として出たのがですね、例えば、ミチの方がガソリン取りに行って、なんかで幽霊に会いそうになるんで、川島亮介はこれはいかんと助けに行って、ミチを助けて身代わりになって幽霊に会うと、これがかっこいいと。いや、絶対違う。それは非常に人の意志によって起こるドラマで、僕からするとその方が馬鹿だ。ドラマの作りとしてばかげてる。出来の悪いハリウッドはよくこれをやるんだけどね。ある人が自分の意志で、信念でこれをやった、そしてその悲劇なりあるドラマが起こった。いや、そういう面があってもいいんですけど、決定的なところでそれをやるのは、どうしても僕は乗れないんですね。実に偶然の積み重ねですね、彼はふらふらとその部屋へ入ってしまうと。だから見てしまうと。そうもっていきたかったんですよ。映画に関してですけども、わあ面白いと思う映画のストーリーのある決定的瞬間ってやっぱりそうなってると思いますね。急に変なこと言いますけど、前から思っていたのを決定づけたのがですね、実はフェリーニの『道』っていう映画ありますよね。大昔見て、ああよくできてるなあと思って、ずいぶん経ってまたもう一回たまたま見たんですけど、これよくできてるんですよ。ああ映画のドラマってこういうことなんだなあと。映画に限らないのかなあ。アンソニー・クィーン演じる、一種の三角関係のドラマなんですよね。ザンパーノっていうのがいて、ジェルソミーナがいてですね、リチャード・ベイスハートがやってる男がいてっていう三角関係のドラマなんだけれども、漫然と見ているとですね、ジェルソミーナとリチャード・ベイスハートが浮気してアンソニー・クインが怒ってベイスハートを殺しちゃうんですよね。殺しちゃって、ジェルソミーナは呆然としちゃって、で、ザンパーノは一人で去っていくと。それで何年か後にジェルソミーナも死んで、それが分かって泣くっていう話なんですけど。浮気相手をついかっとなって殺すと思ってるとそうじゃないんですね、あれ。浮気相手をつい殺しちゃって、そこから悲劇が始まってっていうと非常に意志が働くドラマですけど。いや、偶然死んじゃうんですよこいつ。ザンパーノがこの野郎って突き飛ばしたらですね、なんだか、よろよろよろガツンと頭打って、は、死んだっていうね。全く事故で死ぬんですよ、こいつ。突き飛ばしたのはアンソニー・クインなんだけど、アンソニー・クインは呆然とするんですよ。まさかと。殺す意図は全くなかった。偶然よろけて頭打って死んじゃうっていうね。馬鹿みたいな。そっから悲劇は起こる。あ、これなんだねっていう。運命はよろけて頭打って死ぬという方向に向かっちゃった、っていうドラマになってたんですよね。それでこれって一応傑作って言われるのね、っていう。たぶん、純粋に脚本読んだりすると、押してよろけて頭打って死ぬってそりゃないだろうって(笑)、普通思うかもしれないけど、それがすごいことなんだと。だからぼくも『回路』では、ちょっとガソリン取ってくるわっていって、ガソリン取りにいって、たまたまふたがコロコロ転がって中はいちゃったんで、取りに行ったら幽霊と出会ったていう。言うと馬鹿みたいなことで、決定的に二人の運命を分けました。
大 ヒッチコックの『サボタージュ』っていう映画があります。あれで、子供が爆弾を持ってバスに乗って、爆発するか爆発するかと思ってたら、そのまま爆発しちゃったっていう。そういうことがあって、「ヒッチコック/トリュフォー」っていう本の中でも、その辺は詳しく議論されていると思うんですけど、今のお話を伺っていると、運命と物語、あるいは人間の意志というものは、全く関係なく別個に機能しているにも関わらず、ある場合には対立することもあるかもしれないし、ある場合には調和するというか、『道』のように、一見、普通のメロドラマになる場合もあるのだろう、と。では、そういう運命というのは何だろうかっていう、そういう疑問も上がってきます。それは映画の原理とは異なるものなのでしょうか、それとも、映画の物語を越えて突出する場合もある、ある種の映画の原理というものなのでしょうか。
黒 難しいですね、あの、残念ながら映画以外ではどうなってるのっていうのをちゃんとぼくは検証していないですから、小説の場合それはどういうことなんだっていう。映画とかいうことじゃなく物語っていうことに関わる問題なのか、ことさら映画においてのことなのかよくは分かってはいません。よく分かってはいませんが、ぼくは今のところさっきも申しましたように、書くとくだらないことなんですよ、よろけて頭打ちましたっていうことは。いや、書き方にもよると思うんだけどね。つまり、こういうことがありましたっていう、一種の報告としてなされる、過去形でなされるものの中では、ほんとにくだらないことなんですね。ただ、目の前で起こっちゃうと、その場に居合わせると、それは多分決定的なことなんだろうと思います。そうだとするならば、まあ演劇の場合どうかと言われればちょっと分からないけれども、やはり、ほかのメディアよりもとりわけ映画にとって、僕の言うところの運命性、ほんとに誰の意図でもなくそれはたまたま目の前で起こっちゃったっていうことは、映画にとってとりわけ強力なドラマ性を帯びると、今のところは考えています。
大 先ほど言われた『道』の例なんかは、実際の事件というのは本当にそういう風に起こりがちではないかと思うんですよ。しかし、物語にすると、あるいは報道された段階では、それはそうではなくて怨恨によって殺したとか、そういう風に取り込んでいくと思うんですけれども。そういう物語に対する事実のリアルさみたいなものが、こういう映画の中では運命として、一つの映画的なモチーフとして非常に有効な装置として機能していくっていうようなことでよろしいでしょうか。
黒 多分そうだと思います。ただ、やはりそれが起こった理由等はですね、なぜそれが起こったのだという理由は、起こった瞬間はまったく分からない。映画はそれでいいからなんですね。後々報告書となると、なぜ起こったのかということになるとどうしてもですね、いや、優れた小説がどうとか知りませんけれども、犯罪の報道とかもね、なぜ起こったのか、どういう経緯で、どういうシステムでそれは起こったのだということをどうしても報告せねばならないのですが、まさに映画において非常に有効なというか、映画がとりわけ可能なですね、理由は全く分からないけれど起こっちゃいました、つまり理由を説明する必要がないということですね、起こしてしまえば。その機能が最も効果的に出る瞬間ではないですかね。では、現実はどれかっていうと、これはまた難しいと思います。現実はどうなっているかは非常に難しいですね。映画にすごく似ている気もするけど、それは僕がやっぱりとりわけ映画に関して、よりいろいろ考えているからかもしれない。現実に対して全然違う見方をする人もいるでしょう。僕なんかはつい迂闊に、現実はまるで映画そっくりだとかですね、映画が一番現実に近いメディアだとか、迂闊に言っちゃいますが、そういう実感はあるんですが、これはいつの間にか知らず知らずに、僕には映画と現実の区別が付かなくなってる、そういう可能性はありますね。
幽霊
大 ここで、いよいよ幽霊という話をお伺いしたいと思います。最初に矢部俊夫がマンションの開かずの間に入っていくシーンがあったと思いますけれども、あそこで出てくる幽霊っていうのは長い髪の女性で最初部屋の隅にいて、非常に奇妙な動きを、モダンバレエのような動きをして、近寄ってくるという。それを見て恐れている矢部が下から見ると足がないという。『廃校綺談』という黒沢監督の昔の作品でも非常に似たシーンがあったと思うんですけれども、貞子のような、近年のある種のジャパニーズホラーのような、そうした中でしばしば出てくるジャンルの記号としての幽霊とも非常に似ている幽霊であるとは思うんですが。
黒 それは仰る通りです。まあ前半のこの辺で一発どかーんとですね、これ、ほら、こんなに分かりやすいホラーですよというのをやっておきたいというのが一つと。もう一つはくだらないですが、貞子の恐さの理屈を最もよく知っているひとりは僕だといいたいっていうね(笑)。これはややくだらないことになるので、あんまり言ってもしょうがないですけど。貞子は別にオリジナルじゃないよっていう個人的なね。もちろん僕がオリジナルというわけでもなく、その前にいろいろな原型があるんですけど。だから、やや今更と思いつつですね、もう一回やっておくかと(笑)。もう他に手は思いつけないけど、まあ今までどっかで見たことのあるようなイメージの連続であるとは思いますが、前半のこの部分だったら、これはホラー映画であることが、今のジャパニーズホラーであることの証としてですね、やって後ろ指は指されないだろうというですね(笑)、思いで割り切ってやりました。
あと、ちなみにですね、最初に出てきました、マンションの地下室にいたような幽霊はですね、あれはよく見ていただければ髪は短いんです(笑)。長いと思っていらっしゃるかもしれませんが、髪が短いことだけが唯一ちょっと抵抗だったんですね(笑)。
大 すいません。その抵抗を見逃してしまいました(笑)。あそこにも実は幽霊という記号的なものに対する抵抗はあったと。
黒 うん、まあ抵抗と言うほどではないですが、まあいままで自分もさんざんやってきましたし、髪が長いバージョンを、『リング』等であまりにもポピュラーすから。そのほかは全く一緒ですけど、髪短いぐらい、いや結構それが命取りになる可能性もあるんですよ。そう、だからちょっと勇気がいりましたね。髪長くしとけば、もう安心してみれるんですけど、髪短くて大丈夫かなあってちょっと冷や冷やしましたけどね。
大 映画の後半になりますと、ゲームセンターなど、意外な場所に出てくる幽霊がどんどん現れます。さらに、最後に川島亮介が見る幽霊は、触ることの出来る幽霊であるわけで、これはもう明らかに一般的に幽霊として流通しているような記号とは異なったイメージであると思いますし、非常に対照的だと思います。こうしたものは、こういうものも幽霊的な記号として扱えるかもしれないという、ある種の冒険性がそこに現れていると見て良いのでしょうか。
黒 ええ。まさに冒険性でしょうね。対照的でどうこうというほど考えてないんですけど、まあぶっちゃけて言って、そういろいろな手が思いつかないんですよ。こんなもので幽霊が成立するのかなあという、ぎりぎりのものとかですね、いろいろなバージョンを必死で思いつこうとするんですが。でまあ、一番分かりやすいのから順に出していったと言えばそれまでなんだけど。最後のはねえ、自分としてはかなりの勇気のいることでした。第一、シナリオとも違うんですよ、あれ。シナリオ上ではあそこまでやってないんだけれども、触ってしまうということと、かつ喋るんですね、こいつね、触ってしまうことと喋るってことはやってみてはどうかっていう誘惑はあったんだけれども、シナリオには書けなかったですね。撮っていくうちに、まあ、あれ、撮影順もかなり最後の方でしたから、えいここまでいったらもういいや、やってしまおうってやっちゃったんですけど。あいつはなんなんだか分からないですね。幽霊なんですけど。怪人なんだか、悪魔なんだか、人間の形してるもんですからね、非常にやっかいなんですよ。まああの、都合よく言わしてもらえれば「死」というですね、非常に具体的なんですが、イメージ化するとまったく抽象的になってしまう「死」という現象をですね、どう視覚化するかの今のところのぎりぎりの形ですね。「死」が何で人間の形してるのかよく分かりませんが。まあだからもちろん幽霊の一種であると思っていただいて全然結構なんですが。
大 「死」ということに関してですが、「死」というのは要するに死んじゃうわけで、肉体が消えてしまうわけですよね。肉体が消えるということは、肉体に関わる、見ることも、聞くことも、触ることも、すべて肉体に関することなんで、基本は肉体性にあるわけなので、その肉体が消滅するということは認識が消えることであると、逆に言うと、「死」を認識することはできないということが言えるのではないかと思います。それを都合よく曖昧にしているのが幽霊という記号で、ホラー映画の中で、髪の長い女性が怖いでしょと登場して、確かに怖い、だからあんまり考えなくて、これは「死」ですという風に考えていると思うんですけど、それを逆に、黒沢監督の場合は、幽霊というものがあるとしたら、それは、見えるのであったら触れるのではないかと、しゃべれるのだろうかと、そういう風に、記号性に回収されない物質性あるいは肉体性の方に行くのが非常に特徴的だと思うんですが。
黒 それはもう、ひとえに映画だからです。それは言葉を尽くせば何とでも観念的なことは言えるんですが、観念的たらざるを得ないのですが、「死」などというものは。どうそれを視覚化するかですね。視覚化されたもの、これはやや僕の妄想かもしれませんが、ひとたび映画の中で視覚化されるやですね、それは存在してるという。そうでない場合ももちろんありますよ。幻想シーンとかですね、主人公の妄想でしたというために見えたと思ったに関わらず実はいなかった、主人公の主観でしたというね。あるいは例えば、ジョン・カーペンターの『透明人間』。透明人間なのに見えてるっていう大前提とかですね。実は見えてないんだけど、いるという前提の記号として出てくる、ある種の幽霊がよみがえってきていうラブロマンスなりコメディーってありますよね。誰も見えてないんだけど、一応いるよっていう。その手ではない。その手の映画があってもいいんですが、それはやはりイレギュラーであって、映画で見えたものは少なくとも映画で描写している世界の中では存在しているっていう大前提。それで、だったら触れる。ここにいる。ピントがぼけていようが、何してようが、いるんだから触れると。人間型してたら喋ってもいい。ほとんど妄想ですが、ということをとことんやってみたということですね。
大 ジャンル映画、ホラー映画の中での映画的な記号としての幽霊であるとか、そうした記号を提示する、ということは、物語に安住するということでもあると思いますが、そこにはとどまらずに、徹底的に視覚化しようということですね。
黒 そうですね、視覚化するというのは大前提です。だから映画にしてるわけで、視覚化することによって物語の中では、実は曖昧でよかったものが、きっちり白か黒かの決着とかですね、それはいったい何なんだということを、考えざるを得なくなるということね。視覚化しなきゃ、いかようにも扱えるかもしれないんですけど、視覚化するが故に、これはいったい何なんだということを、それまで考えなくて済んだものを、考えざるを得ないというですね。
女性的なるもの
大 一般的な記号としての幽霊は、非常にしばしば、女性としての外見を持っている、という傾向があると思います。そこで、その女性的なるものの記号ということについて、お伺いしたいと思います。例えば『地獄の警備員』の久野真紀子であるとか、あるいは地下の配電作業員など、あれは少し『三つ数えろ』のタクシー運転手を思い出したりもしましたが、決して一義的ではない女性のイメージが黒沢監督の映画にも登場しているように思うんですが、役柄と性別ということに関しては、どのようにお考えになられていますでしょうか。
黒 難しいんですよね。案外、性別は後で決めるということもあるんですよ。ストーリーが先にあって、主人公はこんな動きするけど、まあ最初は男で考えていたりするんですけど、これ女にしてみようかということはあるんですが。僕の基本的なコンセプトはですね、性別をどちらにするかというのは、関係ないです。男であろうが女であろうが一緒。それが基本なんですね。逆に言うと自分がやはり残念ながら男なので、女であってもですね、男みたいに扱ってしまう。だから、女性が見ると「何この人」っていう、「いるだろこういう人」-「いやいないわよ」-「いない?」っていうことはよくあるんだけれども。あまり性別を意図的に分けないっていうことが往々にしてあります。だから、いつも失敗したり混乱したりですね、大きな誤解を生んだりするのはどういう時かっていうと、男と女がいるときにですね。つまりそこに恋愛という感情があるのかないのかっていうのが。この恋愛という感情を持ち込むと、急に男であり女であるという風になっていくわけですね。たまたま男と女だったんだよ、二人きりでっていうと、当然恋愛するんだろって、いや別にしないよっていう。それが何か変に見えたりするんですね。男女二人出してくるとですね、物語が揺れ始める。ここがね難しいところでね。それをどうしていいのか、まあぼくだったらこう思うわけですよ。たまたま男と女なんだけど、恋愛するのかなあって。往々にしてしないんですよ。この場合、しないんですが、見てる人はこれしてるんでしょとかですね、何で描かないのとかですね、混乱するんですね。だから、女である男である、そのことは基本的には何にも関係ない、一人の人間でしょというだけなんですが、二人カップルででてくると、急に物語全体が混乱し僕も収集つかなくなったりしてしまうということが起こりますね。
大 「男性から見た女性」ではない女性として、一人の人間として描かれているということで、逆に、たまたま女性であるという女優という存在が、非常に魅力的に見えるということもあると思います。例えば『カリスマ』や『降霊』、この映画でも少しだけ出てくる風吹ジュンさん。非常に魅力的な方だと思いますが。
黒 いや、すごくいい方ですよ。魅力的な方なんですけどね。あんまり俳優論って言えないんですけど、個人的な思いが入っちゃうから。やっぱり『カリスマ』で最初やって、自分としてはほんとにうまくいったので、あの役が。俳優としてすぐれてるということに尽きるんですけど、非常に女性的な魅力のある方なんですが、なんらそれを、そうでない役でも、全然平気っていうかね。知的な感じがするんです。どことなくね。決して、ガシガシのそういう人ではないんだけども、もちろんその元アイドルだったっていういろんな過去を考えると、全然そんな感じじゃないかと思うと、結構、スマートな方なんですよ。これはもうやってみるまで分からなかったんですけど、『カリスマ』のこんな役大丈夫かなあと思ったらね、実にうまくやられたなあと思って、それはもう演技力のせいもあるんでしょうけど、なにかこう虐げられた、でもどこか女らしさの残った、被害者めいた女性では全くない。それはうれしいことですね。こっちが意図せずとも、女優さんによっては、女なんだからと、いや違うって言ってんのに、女なんだからっていうのを変に出されると、困ってしまうこともありますね。もちろん逆もあります。男なんだからって。男とか女とか関係ないよって言ってるのに、男なんだからやっぱり座るときはこういう座り方でしょ、いやちがう、普通でいいんだっていうね。両者あるんですけどね。そういう方ではないですね。
開かれることと閉ざされること
大 『回路』は幽霊による侵略映画としても見ることができると思うんですが、たとえば侵略映画で『ボディ・スナッチャー』とかそういう映画がタイプとして一つあったとして、あれは全員が一つの意識に統合されるってパターンですよね。あるいはこの映画は、ネットスリラーと宣伝にもありますけど、インターネットという主題が出てくるわけで、インターネットっていうのは以前の小説であるとか、そうしたイメージから言っても、ある種のユング的なユートピアみたいな、シンクロニシティーみたいな、これも意識が統合されるというか、高次元や深層で新たなチャンネルが通じて意識が統合されて、一つの新たなコミュニケーションが開かれるという、そういうものがあったと思うんですが、『回路』の場合は、こうした発想の逆になっていますね。カイエの以前のインタビューでは、『妖女ゴーゴン』という作品を挙げておられましたけれども、回路が開かれる、あるいはインターネットによって新たなチャンネルが開かれるということによって、逆に人が永遠の孤独のようなものに閉ざされてしまう。ここには、開かれることと閉ざされることとの、非常に奇妙な関係というのがあるんじゃないかと思います。あるいは、さっき言いました屋上という場所ですね、閉ざされた場所であるにもかかわらず、開かれた空間であるとか。あるいは、開かずの間という閉ざされた場所が、回路に接続されることによって、逆に人々が閉ざされてしまう。そうした、閉ざされることと開かれることのある種の関係がこの映画にはあるのではないかと思ったんですけれども。
黒 僕はインターネットに関しては、正直言いまして、そんなにやってないということが一つと、どうなんでしょう、いろいろ便利に使えるものと思いつつ、便利に使う方は使っていただいて結構ですが、こんなもので何か統一的な、シンクロニシティーなるものが起こったりですね、何か人間の意識が変革されていくとは思わない。いや、わずかにはあるかもしれません。電話だってテレビだって、なかったときよりはわずかに変化してるかもしれませんが、インターネットもその手の一個だろうというぐらいしか今は思っていませんが。ただ、仰るように、開かれれば開かれるほど実は、閉じられるとかですね、どこにでも自由自在に繋がるからこそ、線一本が切れればいっさいの関係が断ち切れるというようなことは、今回の一つのテーマにはしました。その一個の分かりやすい例のようなものとしてインターネットを扱っただけで、インターネットがそうだよとまでは言えません。電話でもいいんですよ。昔は電話だったんですよね。変な電話かかってくるとかですね、よくある。ただ、残念ながら電話というのは非常に音声に頼るものでしてね、視覚化しづらいものですよね。昔なら電話でやった、幽霊から電話がかかってきましたっていうネタを。要するにテレビ電話ですよ、僕がインターネットを使う扱いようはね。視覚化して、ある奇妙な電話、どっかから何かかかってくる。あるいは、こっちからかけたところが間違ってどっかに繋がっちゃった、っていうのを視覚化してみたら、ああなったということで。まあインターネットならそういうことも許されるだろうということですね。
大 ここで、回路が開かれるというときに、逆に人々が永遠の孤独に閉ざされるというのは、回路が開かれたことによって閉ざされたのか、あるいは、実はそれまで既に閉ざされていたにもかかわらず、回路が開かれたことによって、その事実に意識的であらざるを得なくなっただけなのか。これは微妙に違うことだと思います。言い換えますと、たとえば、怖いのは幽霊なのかそれとも自分自身なのか。あるいは『CURE』で言うと、催眠術によって何かがそこに入れられたのか、それとも、それはそもそも自分が持っていたものなのかっていう違いですけど。
黒 僕は、そもそも自分が持ってたという風に考えてますね。大げさに言うとですね、インターネットも関係ない話として、当たり前のことですけれど、人間は相手の心のことが分からないわけですよね。分かったつもりで、他人との関係として、自分は一応安心して生きてますが、相手の心の中は分からないわけで、一旦疑い出すと、すべての相手というものは謎になってくるわけです。まあそんな精神病もあるでしょう。もう、それは、電話やインターネットなんかのはるか以前から、何千年も前から、社会っていうものを人間が創り出してからずっと、分かっちゃいるけど一応正常な人は、ないことにして生きているっていうですね。本当は相手の心は分からない、という極当たり前のことですね。繋がる手段が多くなれば多くなるほど、イヤでも気づかされるぜっていうことですか。今回はそこら辺は、論理的には飛躍があると思いますが、どこまで行っても、実は根源的に人間は一人の存在たらざるを得ないということと、死ということをやや強引に一緒くたにしたということですね。死んだことはないので、死は分かりませんが、もし死というものが、ひょっとすると、あらゆる認識の手段を断ち切られることだと仮にしたらですね、これはもう強引ですけど、インターネットであらゆるところと繋がってたと思ってた人がいきなり、電話線をばちんと切られた状態。実は何とも繋がっていなかった。いや、ほんとは元々そうなんだけれども、一応忘れよう忘れようとして、生ある人生を生きてるわけですけど、根源的なところに戻る。その瞬間を、死というものとインターネットのようなものとですね、繋がってるかに見えて、どんどん人間の本来の形が分かっちゃってくるということを引っかけてるといえば引っかけてます。
主語の映画、第三の状態
大 『CURE』の場合に、人が突拍子もないことを、それまでの脈略とは全く違ったことをするものであるということを映画的に描くための口実として、催眠術を使ったと黒沢監督は仰られていました。同様なことは、この映画の中でも現れていると思うんですが、人が突拍子もないことをする、こういうこともするああいうこともするというときに、ここで、「人」っていう方に注目する場合と、「さまざまなことをする」っていうことに注目する場合があると思うんですね。文法的に言えば、主語の方に注目するか述語の方に注目するかということでしょうか。そして、そうした分け方があったときに、黒沢監督の映画は、主語の方に注目する映画なのではないかと思います。それは、さっき仰られた社会に対する「私」であるとか、固有名という風に言ってもいいですけど、そういう一つの主語、さまざまなことをなし得る、こういうこともああいうこともできるけれども、それもすべて一つの「私」であると。そして、その「私」というのは、さまざまなことができるし、さまざまな定義も可能だから、実はよく分からないけれども、最終的に否定しがたくある、という。そういうものとして「私」というものが出てきている。あるいは固有名詞、主語みたいなものが出てきている、と私には見えるのですが。
黒 言われるとそうかもしれません。それを積極的に唱えてはいないんですが、これはいつの頃からそんな風に思いだしたか分かりませんが、普通に生きてるときは普通に生きてるんですけど、やはり、何て言うんですかね、自分が分かる範囲のものしか分からないし、当然自分の肉体から出ることはできないし、自分の何十年かの生以外の生はないし、自分に向かって行ってるのかもしれませんね。僕は最近よくこういう言葉を使うんですけど、何か分からないけれど、「世界」というものがあって、ほんの些細な情報で知る限りのことではあるんですけど、ただまあどうもあるようだと。しかし、どうもその中に、「世界」っていう、そりゃ歴史も含めてですよ、「世界」っていうシステムの中に自分が組み込まれてるとは、思わない、思えない。そういうものが一方にあって、私というものがどっか外に、外というか、かっこよく言うとそれと相対している。つまり「世界」というシステムがあって、その中に私がいるのか、私というシステムがあって、その中の一要素として「世界」があるのか分からない。「歴史」と言い換えてもそうです。「歴史」があってその中に私がいる、いや物理的にはそれはそうですよ。ただ、私という存在の中に「歴史」というものも実はあるのかもしんないし、それでどっちがどこに組み込まれているとかいうことではなくて、結局それらは別なものとして、あるのかなあていう。そういう思いの方が強いですね。ですから、主語が重要であるとまで認識したことはないですけど、どうしても「私」なるものの範囲の中で起こることとして「世界」でも「歴史」でも何でも捉えている可能性はあります。
大 述語あるいは動詞の方に注目すると、たとえば、ルノワールのような映画が可能になると思うんですよ。人がさまざまなことを為し得る、こういう風に思ってた人が全く違ったことをすることによって周りの空間も変わってしまう。こういうものに対して、黒沢監督の映画はそれとは違って、むしろ主語の方、あるいは一つの存在の方、そこにあるというという方に注目していく映画ではないかと思うんですけど、その究極の形として、永遠の孤独に閉じこめられた人っていうのが、身体を消失した染みのような、ああいうイメージになっていくのではないか、その映画的な表現なのではないかという気がするんですが。
黒 そこまで言われるとやや気恥ずかしい気もしますが、あれはほんとにこれをどうやって視覚化するんだよっていう苦肉の策なんですけど。あの状態は何だよと言われると、あれは死んでもいない生きてもいない状態っていう。生きながら幽霊になっている状態、そりゃ何のこっちゃということなんですよ。第三の状態とか呼んでるんですけどね(笑)。それがなんだか全く分からないんですが、それを視覚化したときにあのようになってしまったんですが。ただ、死んではいない、どうも生きている、しかし、「世界」の中に自分が組み込まれているわけではなくて、どうもそこから離れたところに自分がいる、この状態のことかもしれないって今言われたから言うんだけど。それを敢えて言うと、第三の状態と呼んでるのかもしれませんね。あの染みはねえ、理論上は、僕はかなり明快に定義したんだけれども、どうやって視覚化するんだよと。非常にやりたいと思ったし、チャレンジしがいがあると思いつつ、何でこんなやっかいなことを考えてしまったのかと、処置に困りましたよね(笑)。これは視覚化できてませんが、すごく分かりやすい、それに近い状態っていうのは、『蠅男の恐怖』の、『ザ・フライ』のもとネタですね、あの映画の電送実験で失敗した猫です。電送したけど、姿が現れなかった、どこへ消えたんだ、にゃーって声だけする。死んではいないが生きてもいない、これが第三の状態、蠅男の電送失敗状態、と呼ぶわけですけど。
大 あの世でもない、この世でもないっていう状態ってことですね。安部公房に『トータル・スコープ』という短編があるんでが、その前半で、スクリーンで上映するんじゃなくて、脳の中で上映する映画というものが発明された、という設定が出てきます。それで試写をするんですけれども、ナポレオンの生涯を描いた映画というか、ナポレオンの生涯自体を脳の中で完全に体験するんですね。実際の時間としては数分なんですけれども、見ている人間としてはナポレオンの生涯をまるまる体験してしまう。つまり、そこでは違う時間が流れているんですね。そして、見る者は、そのナポレオンの生涯を体験している長い時間の間ずっと、そうした電気的な刺激だけを受けていたことになるわけで、そのため、自らの身体そのものが電気的な記号に変換されてしまって消失してしまうというシーンが出てきます。今のお話を伺っていて、そういうイメージかなと。
黒 そうですね。それに近いかもしれません。似たようなのはね、スティーブン・キングの小説でもありました。これはもろ蠅男に近いんですけど、電送ネタなんですけどね。未来で人間が電送されるようになって、どっかの惑星から地球まで電送するっていう、ほんの数秒なんですよ。旅行するんです。その電送する装置を初めて作った科学者が気が狂ったっていうのがあって、何で気が狂ったんだか伏せられていて、ただ絶対に電送される前には睡眠薬を飲む。みんな眠ったまま送られるというのが決まりになってる。ところが、一人の男っていうか、少年なんだけれども、睡眠薬を飲まない。意識があるまんま電送される。すると、ほんの数秒で向こうに着くんですけど、見た目一瞬変わらないんだけれども、ものすごく老けたような顔をしていて、彼は最後に、「無は長かった。」ってつぶやいて終わるんですけど。その感覚でしょうね。伊藤潤二の漫画でもありましたけどね、永遠の長さの夢を見るっていう。それらは一個一個はちょっとずつ違いますけど、何かそういう状態が、僕のイメージする、「死」ではないが、生きてるのともちょっと違う、第三の状態のことなんでしょうね。現実に流れてる時間とは違う時間が流れてるというのは、まさに世界のシステムからちょっと外へ出ちゃうということでもあるでしょうから。そこは多分どなたも、安部公房さんのもそう書かれてたか分かりませんけど、どなたも果てしない孤独を感じるようですね。他と遮断されてしまうという。
切り返し
大 『地獄の警備員』で、久野真紀子と長谷川初範が切り返しで撮られるシーンがありました。あのシーンでは、久野真紀子と長谷川初範が、ある種対等な関係にあるんだと、上司の男性と部下の女性という関係が持ちがちな垂直の権力構造ではなくて、対等の関係で対等な発言も出来るという関係になったときに、ああいう切り返しが行われたように見えます。一方で、『ニンゲン合格』であるとか、『回路』という映画では、ちょっと違った切り返しが入ってきてるのではないかという気がします。例えば『ニンゲン合格』では、最後の方のシーンで、父親がテレビに映って、一瞬家族なのか何なのかよく分からないものが、しかも同じ場所にいないにも関わらず、目線の切り返しの中で出現するというシーンがありました。哀川翔さんという、家族なのか家族でないのかよく分からない位置にいる人がいて、その人との目線の切り返しの中に、何かが出来事として起こる。さらに、『回路』の方では、目線としてはそこに既に対象がないような存在との切り返しまで見られます。例えば、相手が染みになっている場合であるとか、特に一番典型的だったのが、唐沢春江さんが何もない空間との切り返しで映されるシーンです。後ろに置かれたモニターのカメラポジションにあたるのであろう、何もない空間と切り返しみたいな形で。こうした切り返しの手法というのは、非常に意図的に使われてると思うのですが。
黒 ええ、切り返しというのは、仰るように作品によって微妙に使い方が違うんですけど、これは非常に興味深い映画の技術の一つでしてね。その効果たるや計り知れないところがあって、計り知れない分滅多に使わないんですけど。エイゼンシュテインじゃないですけれども、まさにそこに弁証法がはたらくのかよく分かりませんが、「これとこれ」っていうね。つまりこれとこれの関係というものがですね、小津みたいにそれが一個のスタイルとして定着しちゃえば気にならないんだけど。テレビドラマでもそうです。別に会話してる人が切り返されてるだけでは何も感じないんですけど、それ自体慣れてしまえばどうでもいいんですけど、ただ俳優の顔を撮っているということにすぎないんですけど、一本の映画でそんなことはなかったかのように撮っていって、ある時いきなり使うとね、これ何の関係なんだって、多分かなり多くの人が思う効果がどうもあるんですね。『回路』ではそこまで制限はしなかったですよ。『ニンゲン合格』なんて、まさにどこで切り返すのかって映画でしたけど。『カリスマ』でも実はそうです。最後の方で、役所広司と池内博之くんがいきなり切り返されるんですけど、いったいいつ切り返しをやるかっていうのは、僕にとっては大きなことの一つではあります。だから、『回路』でも幽霊との切り返しというのは、…………大げさですけど、それは、存在というものと人間が切り返されてると思っていただいて結構です。それはビジュアル的には何もなかったり明らかに幽霊だったり、さまざまなんですけど、存在とはかくあるものかって、生きてるか死んでるかも、もはや関係ない、越えたものとして、そんなこと考えたこともなかった若者が、存在とはこの様であったかというものと切り返される瞬間と思っていただいて結構です。ある種、親しげな切り返し、『ニンゲン合格』は、寧ろそのように使われています。分かった、通じたっていう。この二人は特別ですっていう。何かが二人の間で了解された、『カリスマ』もそういう使い方してるんですけど。この場合はしかし、多分そういうものとちょっと違う、了解はされてないんでしょうね。それを知った、知ったという時点で了解されてるんだけれども、微妙なんですけどね、僕もそれうまく理屈で言えないんですけど、ある種の二つのものの関係が、いきなりそこで露呈せざるを得ない技法として使っています。
大 その切り返しの中で、先ほどから話題に出ました、「存在」、あるいは「私」であるとか、「主語」であるとか、そうしたものが映画的に露呈しているんだと、存在それ自体のようなものが映画的に露呈する瞬間であるという風に捉えてよろしいでしょうか。
黒 そうとっていただいても結構です。
大 どうもありがとうございました。いろいろ興味深いお話を。
1月8日 新宿・喫茶らんぶるにて
テープおこし:岩崎俊郎