
ペドロ・コスタ インタビュー
ペドロ・コスタ インタビュー by 樋口泰人
「ヴァンダの部屋」のプロモーションのために来日した、ペドロ・コスタにインタビューした。「テレビブロス」の記事のための取材だった。通訳つきで45分という短い時間ではあったが、雑誌の文字数制限内にはほとんどが入りきらず、そのまま黙らせておくのも悲しいので、ここに掲載することにした。 「テレビブロス」の協力に感謝。
――「骨」と「ヴァンダの部屋」を見たのですが、いわゆる映画音楽を使っていないのはどういった理由からでしょうか?
ペドロ 全く映画音楽のない映画でもいわゆるマスターピースにもなりえると思うし、音楽をふんだんに使った作品がマスターピースになるということもありうる。例えば、後者の代表は、ゴダールだと思う。ただ、ゴダールだからこそ、ということはあるのかもしれない。ああいう風に高いレベルの音楽をふんだんに使ってなおかつ映画自体を高めていける人というのは、そう何人もいない。やはり世の中にある作品のほとんどは、音楽で持っているような作品だ。音楽なしではその作品は世の中に存在できないような作品ばかりなんだよ。 このふたつの作品には自分は音楽を使わなかったわけだけれども、2本とも同じ場所、そして特別な場所で特別な人を描いた作品だ。例えばバイオリンでもドラムでも、何らかの音楽を後からこの作品につけるとしたら、それは自分の中で、そこに描いている町や人々をだますような裏切るような、嘘をついているような気分になる。彼らは社会からすでに十分だまされ、嘘をつかれてきている人々だ。その上に、私が音楽で嘘の上塗りをすることは正しくない、それは絶対に自分が使ってはいけないトリックだと、そういう風に思った。自分は、この『ヴァンダの部屋』を撮った後に、ストローブ=ユイレのドキュメンタリーを作ったのだけど、その中で音楽と映画について、ストローブが言っていることを引用したいと思う。ストローブの言葉を借りると、現代映画はミュージカル・スープだ。音楽のスープの中に海老が浮かんでいて、音楽が海老のつなぎになっている。その音楽を全部取り除いて、本当のセンチメント、エモーションをシーンだけで表現できるかというとそうじゃないものが多い。もちろん古典的な映画の中にも音楽をふんだんに使った映画はあったのだが。
――「骨」の中で、ラジオから、ワイヤーの「ロー・ダウン」が流れてきますね。あの曲を選んだのは?
ペドロ あの瞬間、映画はほとんど終わりに近づいているところなのだが、あの若者がたちが聴く音楽というのはどういうものかということを、見せたかった。映画の中では彼らがドラッグを使用しているシーンはまったくないのだけど、映画の雰囲気の中で、彼らがドラッグをやっているのは感じ取られたと思う。そんな彼らがそのとき聴いている音はどんなものだろうか? 一般的にあの地域で、若者達が聴いている音楽というのは、アフリカの音楽か、レゲエ、ラップ、ヘヴィメタなんだが、私はレゲエとヘヴィメタは嫌いなんだよ。で、ラップを使うともう、常套句のような感じもして、それで、こういうときは自分の好きなロックを使おうかなと思った。どうしてワイヤーだったかというと、ワイヤーというのは、自分にとって、ロックンロールのゴダールであると思っているから。自分自身、個人的に彼らと知り合うチャンスもあって、ひとことで言えば友達なので、友達に自分の映画に参加してもらいたい、という気持ちもあった。「ロー・ダウン」という言葉は、絶望とか落ち込んでいる状態を表す言葉だ。人が高熱にうなされているときは眼がぎらぎら光る非常に鋭い感じになると思うのだけれど、あれは音がぎらぎら光っている、高熱にうなされているような感じがする。それがぴったり来るのではないか。あのシーンは、年齢差のある二人の女性が居心地悪く部屋にいるという、ちょっと緊張感のあるシーンでもある。そこに、この、ちょっとした性的な要素も感じさせる曲を使うのは自分としては非常にしっくりした。 ああ失礼、間違えた。ロックンロールのゴダールはクラッシュで、ワイヤーはストローブ=ユイレだった(笑)
――レゲエを嫌いだと言いましたが、「ヴァンダの部屋」の中で登場人物がボブ・マーリーの「ノー・ウーマン・ノー・クライ」を口ずさみますね(笑)
ペドロ レゲエは自分にとって、ちょっとソフトすぎるというイメージがってね。ただ、黒人の男性が「ノー・ウーマン・ノー・クライ」を歌うあのシーンというのは結構長いシーンで、自分のお母さんのことについて彼が語る非常にエモーショナルな、彼も語りながら涙してしまうようなシーンだったし、このシーンは撮る前から結構難しいシーンだなと思っていた。あそこは何回もテイクを重ねて撮ったシーンなんだ。彼はアフリカ生まれではなくリスボン生まれなんだけど、移民一家だから家族の出身はアフリカで、そういうアフリカ出身の一家では、家族の誰かがドラッグを始めると、その人間をすぐに家から追い出してしまう。ヴァンダみたいに家族と共に生活していることが出来なくなってしまう。白人の家ではヴァンダみたいにずっと一緒というのはあるんだけど。だから彼はその時点ではホームレスで、彼には家族はいないも同然という状態だった。彼にとっての感情を刺激するそんなシーンを何回も撮っているうちに、この重たいシーンをもう少し軽く持ち上げようじゃないかという風な話をしたら、「うん分かった、じゃあ最後にこの部屋を掃除してその後に何か歌を歌うよ」と言った。ということで彼に任せたんだよ。そしたら、彼がアドリブで歌ったのが、あの歌だった。実はテイクを3回重ねたんだが、最初にその歌を聞いたときに、「あ、ボブ・マーリーか」と思ったんだけどね(笑)。まあ、自分の好きなものではないけれども、結局この映画はそういうものではなく、自分の好まないものもいっぱい入ってきていいじゃないかと、そういう風に思っていたので、もちろん彼の歌をそのまま使ったんだ。
――つまりこの映画は、非常に繊細な演出に基づいて作られている、ということですね。具体的にはどんなやり方をしていったのでしょう?
ペドロ あーしろこーしろというタイプの演出をしたわけではない。例えば、今目の前で起こっていることを撮るか撮らないかという判断をする場合、カメラポジションが良くなかったというような理由で撮るのをやめる場合もあるし、これを今このまま撮ると良くないというような理由で撮らないこともある。理由は、自分の問題だったり感情的なものだったりするんだけれども、そのときにそのまま撮るよりも、例えば1ヵ月後に撮った方がいいと思われることもある。ひとつのシチュエーションであるとか、彼らが話した内容であるとか、というのを自分の心に留めておいて、後でまたその言葉を喋った人達に向かって、「君覚えてる? あの時ああいうことを喋ったよね」というようなことを言ってみる。で、彼が思い出したならば、じゃあもういっぺん喋ってくれないかなというふうに提案してみる。すると人間というのは面白いもので、記憶を、自分である程度セレクトしているんだよ。彼らの記憶に残っているその話は、すでに整理されたいいシナリオとなっている。だから過去の、自分が接した状況よりも、さらに形になって撮れる場合がある。 そのいい例が、男性が花を持ってヴァンダの部屋にやってきて、彼らのジェニーという友達が昨日死んだね、という話をしているシーン。あのシーンは今言ったようなやり方で、本当に友達が死んだ6ヵ月後に撮ったものだ。実際、僕もふたりが話しているその現場にいたんだけれど、それはあまりにもセンチメンタルで、上手く撮りきれなかった。すごく泣いていて、まるで自分達のことを哀れんでいるようにも見えた。これはちょっと違うんじゃないかと思い、6ヵ月後、時間がたって彼らの気持ちも整理された頃に、あのときの話をして欲しいと提案した。その時点で、実際には6ヶ月たっていたんだけれども、昨日のことのように彼らには話してもらった。もちろんその時点でも、彼らの中に、悲しみの感情というのは生まれてきた。でもすぐにヴァンダが薬の話をし始めて、あなたの胸の痛みに効くのはこの薬よとか、咳止めにはこれがいいのよという風な、すごく日常的な会話になった。非常に悲劇的な部分と、こういうところで笑っちゃいけないけれどもでも笑ってしまうようなおかしな部分、という、人生には二面性があると思う。あのシーンには、人生の中に含まれるそういった二面性を見ることが出来るのではないか。自分が望んでいたもの、感じていたものをそのままあそこで見ることが出来たと思う。まさにそれは、彼らがあの地域で生きていくために必要なものなんだなあと思える。それは何かというと、過酷な現実の中で、可笑しさというのは彼らがその過酷さを乗り越えるための薬なんじゃないかと。苦しいことばかりがあると自殺に追い込まれてしまうだろうし、そういうことにならないように二面性が必要だということを、あのシーンは語っているんだと思う。
―― 二面性ということで言うと、この映画には、映っていない人の声が聞こえるシーンがあちこちにあります。もちろんそこには後から人が入ってきたりして、おそらくその人達が話している声なのだろうと分かりはするのですが、でも、そうではなく、本当に画面には映らない人の声のようにも聞こえたんですね。つまり、その場にいない人の声がそこかしこから聞こえてくる、という風に。
ペドロ 撮影時はやはり、その場所の記憶というものを考えながら撮った。あそこの場所で、過去にこういう会話がされていただろうということは、これからもされるだろうという意味も含んでいる。でも、まあ、結果的にそこに人が入ってくることで、ああ現実の声だったなと分かるのだけど。ただそれは、過去と現在も同じように同列に続いていくという感覚だ。映画の最後の方で、町の取り壊しが進み、破壊された建物の残骸が地面から突き出ている。その場所には、かつて人が住んでいた。あのシーンの中でも、どこからか女の人達の声が聞こえる。すごく元気な明るい声が。だから、ここは空虚な場所ではないと。ここは人間の場所であると。そういうことを言いたかった。ここにはいつもそういう会話が存在していて、ここはそういう場所なのだ。建物は壊されてしまい今は人は住んでいないけれども、かつて交わされていたはずの会話は今も続いて存在しているのだということを表現したかった。 時間について言うと、映画というものは、いつも相反するものが同時に存在する。そこには時間というものが、すごく重要な要素になっていると思う。非常に現実的なものと、そして精神的なもの、自然なものとスーパーナチュラルなもの、とても現実的なコンクリートなものとアブストラクトなもの、そういう相反するものを媒介してつなげていくのが時間だと思う。時間を料理するのは編集なんだけれども、今回は130時間というものすごく膨大な量の素材があった。その素材は、すごく長い時間あの場所で撮影したということの結果だ。それを、自分としては出来るだけ可能な限り短いものにしたかった。だから、その膨大な時間を出来るだけ濃縮させた形にする、その結果が、自分にとっては3時間という長さになったわけだ。それは、それらを出来るだけ精密なものにしていくという作業の後、残った濃厚な3時間だ。自分にとって、空間というのはイコール時間で、時間自体も、難しいことだけれども、空間を表現することが出来ると思っている。 実は私の映画の中のワンショット、ワンシーンというのは、小津さんのどの映画だったか、ラストシーンで、笠智衆がたぶんりんごだったと思うのだけど、果物の皮をむいているシーンがあって、その皮を向いている様子が一分の誤差もない、機械的に、パーフェクトにりんごの皮をむいている。そんなシーンだった。ヴァンダが、ライターの火がつかずに何個も何個もライターを振りながら火をつけようとするシーンがあるが、あれは、かつて見た小津のコピーだなあと、個人的に思っている。そのときその瞬間でしか可能ではない、その瞬間だからこそ生まれる時間と空間というものが「永遠」になりえる、そういうその時、その場所、その瞬間というものがある。小津さんのあのシーンは、そういった空間と時間だと思う。一つのショット一つのシーンというのが「永遠」になりえる、それが自分にとっての映画の時間、空間だと感じている。 ―― 例えば、あるシークエンスが終わり、次のシークエンスが始まるとき、カットが代わり、ヴァンダが動作に入る前のほんの少しの時間、何かを待っているかのような何もしていない空白が、一瞬だけあります。その一瞬を切るか入れるかで、それが「永遠」を手にするかどうかが決まってしまうような、そんな一瞬だったように思えます。
ペドロ うん、いい映画監督の仕事というのは、単なる部屋を宇宙船に変えることなんだよ(笑)。