
ロバート・クレイマーを語る part7
越川道夫 - 樋口泰人 (2000年11月5日 BOX東中野)
越川 今回のロバート・クレイマーの上映でですね、樋口さんと僕が3回ずつトークをやってきまして、樋口さんは青山監督と諏訪監督ですか。で、今日が3回目。ぼくは、井土紀州監督と、昨日港千尋さんと話をして、まあ面白かったなあと思うんですが。3日目ともなると話すこともなくてね、どうしようかなと思って来たんですが、昨日から樋口さんは眩暈がしてるということですが。
樋口 僕は持病もちで、耳鳴りと眩暈があるんですけれど、けっこうひどい時は本当に救急車で運ばれたりしてるんです。でも原因不明で、一般的にはメニエール病っていう病名がつくらしいんですけど、でもそれでもないらしくて、CTスキャンとかもろもろの精密検査を受けたのですが、それでもどこも悪くないねと言われて、あきれられたりしてるんですけど。でも最近は平和な生活をしてたんで何とかそっちの方も安定していたんですが、昨日から久々に頭がくらくらしていて、今日も来れるかなあと思っていたんです。でも、考えてみたら、眩暈とクレイマーていうのもいいなあって思いながら来てしまいました(笑)。
越 いいなあっていうのもいいんですけどね、それがどう繋がるのかが僕には全然見えてないんですけど。
樋 説明しますね。眩暈っていうのは、症状としては単に頭がくらくらするということになるんですが、そのとき僕の意識の中では、なんか自分が肥大していく感じがするんですよ。肥大っていうか、肥大していく自分に困ったなあっていう自分はいるんですけど、なんか意識全体が前後左右にぶれちゃっていて、そこで自分の輪郭が、ボワッと曖昧になっていく感じ。その左右にぶれてる音が耳鳴りとしてきているのではないかと理解してるんです。それでですね、そのぶれ方と、自分の輪郭がぼやってなっていく感じが、例えば『ルート1』でいうと、クレイマーとクレイマーの代わりの人間が出ていますよね。代わりの人間なのか別人なのか、あるいは後から言おうと思っていることですが、クレイマーがこだわりつづけている自分の父親の代わりなのか、なんだかよく分からない。で、映画を撮っているロバート・クレイマーっていう人がいて、映画の登場人物である南アフリカから久々にアメリカに戻ってきた男がいて、その人がその人としてありながらこちらから見ると顔もよく似ているしロバート・クレイマーにしか見えないわけです。そういう存在のぶれ方が、ああ眩暈だなっていうふうに思えるんですね。で、チラシに、インタラクティヴってことを書いたんですけど、これはいろんなふうにとれる言葉だと思ってあえて書いたんですが、ひとつは一般的にいえば、映画を見た者がさらに映画を再構築するって意味でもあるんですけど、そういう他人と他人が向かい合う感じではなくて、自分と他人っていうのが、それぞれありながらもどんどん輪郭がなくなっちゃって解け合いつつ、お互いに異物を内包しあう感じ。更にそれらがそれぞれ共鳴しあうっていう、そういう意味でもロバート・クレイマーの映画っていうのはインタラクティヴなのではないかというふうに思ってるんですよ。で、それはロバート・クレイマーと出演している人間だけではなくて、映画自体がこっち側にしみ出してくるっていうか、映画を見ている現実のほうにしみ出してきて、見ている人もそこに映っている人はクレイマーさんじゃないのにクレイマーさんに見えるとか、そういう意味で、何か一つのものを見ているはずなのに、いくつものものに見えてきちゃうっていう。それが全然別のものならそれなりに判断はできるんだけど、そうではなくよく似たものが微妙にずれながらそこに重なり合っている。そういうところで、それを見ている自分自身の視点も危うくなるっていう、その感じをインタラクティヴと敢えて言ってしまったんです。それが眩暈かなって思っているんですけど。
越 みなさんが見れる機会を作れればというふうには、映画の配給みたいな仕事をしてるので、真剣に今交渉してるわけです。例えば数年前の東京国際映画祭でまだクレイマーさんが元気だったころに上映された『ドクス・キングダム』と『マント』、山形ドキュメンタリー映画祭で上映された『ウォーク・ザ・ウォーク』、さらに遺作というのがあるんですね。亡くなる前に仕上げていたという、これもビデオで撮って35ミリに起こした作品で、それは亡くなった後に、とりあえずこれは見ないと話にならんなっていうのがあって。今年のカンヌ映画祭に出品され、たまたま僕が『路地へ 中上健次の残したフィルム』という青山真治監督と一緒に作った映画をロカルノ映画祭に出品した時に上映されていて、それで連絡先も分かったんで、ビデオを取り寄せてみたんですけど、『ドクス・キングダム』や遺作を見ていると樋口さんがおしゃったことが非常によく分かる。物語は2本が似てるんですね。要するに、失踪してしまって今は異郷にいる父親がいて、彼は眩暈を起こしている。それこそ彼は眩暈のようにうずくまったり、ぐたっりと寝ていたりする。そこにひとり残してきた息子、『ドクス・キングダム』では息子なわけで、ヴィンセント・ギャロがやってるわけなんですけど訪ねてくるっていう父と子供の話とも受け取れるような構造をもっているんですが。で、遺作のほうも今は失踪してしまった後に盲目になってしまった父親というのが出てくる、それに対して都市設計をやっている娘っていうのがいるんですよ、それは会うとも会わないともちょっと微妙なところがあるんですが、その二人をめぐってやっぱり父親は見えない過去との間を眩暈のようにぐるぐるこうまわっていながら、過去の記憶を眩暈ように見つつ、手術を拒んだりする。彼は、分身ではなく滲みだしてくる存在って言えばいいのか、同じ主題を少しづつ形を変えながら反復しているというような印象はすごく受けます。
樋 なんか当たり前の言い方になっちゃうんだけど、今の話を言い換えると、「波」って言うふうにも言えると思います。これはクレイマーの映画ではないのですが、エドワード・ヤン『ヤンヤン夏の思い出』という映画があります。これがですね、おばあさんの世代と、お父さんの世代と、その子供の世代が基本的に同じ話を反復している。親子で同じような恋をして、同じように失敗したりして、っていうのを敢えて3時間近くの長篇として、1本の中に2本分とか3本分の似たような話があるんです。その中で、熱海に行くんですね、お父さんが昔の恋人と。でもこのエピソードの評判はあまりよくないんです。熱海のシーンがちょっと余計なんじゃないかっていう話は、複数の人間からききました。確かによく分かるし、もっともだと思いはするのですが、僕は、このエピソードにこだわりたいんですね。どうしてかというと、ポイントは、そこで聞こえてくる波の音なんです。たとえばホテルのロビーでふたりがチェックインしてる時も、カメラはホテルの外側にあって、ガラス張りになったホテルの壁越しに、チェックインの風景を写すのですが、そのとき、ホテルの前の海岸沿いの道路を車がガーっと走っていって、で、更にこちら側には海があって、その車の音と波の音だけが響くんですね。そうするとそのふたつの音が重なりあって共鳴し合い、更にそれが反復しているんだけど、でももともとが別の音だから微妙にそれぞれが違っていて……。結果的に、そこに映っている空間が膨張していくというか広がっていくように感じる、そんな音の作り方をしているんです。でもヤンさんそのことを聞いたら、「いや別に」みたいに言われてしまったんですが(笑)。
越 あの人はね、はぐらかすんですよ。僕も一回インタビューしたことがあるんですけど、ちゃんと答えないですね。
樋 はぐらかされてしまったんですけどね。でも、そのインタビューは「スタジオボイス」という雑誌の特集の中で行ったもので、その後、台湾に行ってスタッフに取材してきた編集者から連絡がきて、音響担当者にあの音のことを尋ねたら、あれは、監督には言ってはいないけどいくつか音を重ねたんだと言っていたそうなんで、ヤンさんとしては、はぐらかしたつもりはなかったのかもしれません。ただ、監督していれば、そのくらいの音の違いは分かると思うんで、はぐらかしていないとすると、ヤンさんの音に関する感覚を疑わざるを得ないという、それはそれで厄介なことになるのですが……。
それで、話をその波の音に戻すと、同じなんだけどその度に違うもの、それが返されて、その繰り返しの中で一つのものが大きくなっていくっていう。そんな感じがクレイマーの映画っていうのはあるなあって思うんです。『ルート1』もそういう映画ではないかと思うんです。
それでもうひとつがね、これはさっきのお父さんの話にも関わってくると思うんですけど、映されている風景がなんだかとんでもなくすごいっていうか、たまたまここのロビーにヘルツォークのポスターが貼ってあるんですが、先日それを見ながら、ちょっとヘルツォ-クみたいだよねっていう話を青山に言ったら、エーってかなり怒られましたけど。まあ、そうも言いたくなっちゃうような、秘境の地の風景みたいなものがあちこちで目について、これは一体なんなんだろってすごく思っていたんです。でもやっぱりクレイマーの場合には、基本的にそこにはお父さんがいるんです。戦争から帰ってきて自閉症になって、以来何も語らなくなったお父さんがそこにはいる。つまりあの風景っていうのは語らなくなった人に向って話しかけている風景なんだなって思うんです。風景が秘境なんじゃなくて語らなくなった人がすっかり異なる場所にいて、そこに向ってクレイマーは映画を撮っているんだと。語らなくなった人と向き合うために出かけた場所の風景が、あんなふうに映っているのではないか。
越 たしかにその『ドクス・キングダム』なんかは、お父さんがポルトガルで医者をやってるわけですけど、彼はそのヴィンセント・ギャロの息子が来てもほとんど何も語らないわけですね。浜辺でただ一晩を過ごして息子はただ帰っていくっていう。だから絶対的な、不可知な、不可侵なもの、絶対的な他者みたいなもの、人の中に対する秘境を描いた人だろうなっていうのも『ドクス・キングダム』にすごく繋がるだろうとも思うんですね。『ウォーク・ザ・ウォーク』になると、何も語らない風景はヨーロッパの東へ東へ向っていく風景だったりするんですけど、それはヨーロッパそのものでもあるし、そこで目にする人々、それこそが秘境であったりする。
樋 『ヤンヤン夏の想い出』のなかでも、おばあさんが倒れて寝たきりになっちゃっうんですが、でもおばあさんには意識はあるから何かを話し掛けなければいけないというエピソードがあるんです。ただみんな話すことがどんどんなくなっちゃって、最終的には新聞を読んであげたりとか、そういうことをしてるんだけども、クレイマーの場合は、「いや話すんだ」っていう、その決意というか、それだけが、かなりつらい状況だったと思うんだけど、彼に映画を作らせてきたものなんじゃないかなという気がする。話すというか、問い掛けるといったほうがいいかもしれませんが。それは、自閉症になった父親に向かってでもあり、更にその背後にあるはずの「アメリカ合衆国」に向かって、ということになると思いますが。
越 それとかなり関係すると思うんですけど、さっきのちょっとずつ違う反復みたいなものをみるかどうか、映画の中に描き出したりするっていう。それはなんかすごく重要なことだと思うんですよ。クレイマーの映画を見ているとすごく不穏な印象を受けるんですが、たえず自分の周りにある世界に対してそういうものを見続けるから、そういうものを作らざるを得ないっていうような後押しのされ方と、それに伴う疲労が彼の作品を生んでると思うんですね。それで面白かったのは青山真治監督の『ユリイカ』の事に関してね、プレスのために話をした時に、自分が何を映画でとってるのかというようなことを言ってたんですけど、そのなかで結局自分が世界を見た時に、こんなくだらないことがまだ繰り返し繰り返し行なわれていて、それがいかにくだらないか、いかに許されざることかっていうことをめぐって自分は映画を撮ってるわけだし、そのくだらなさを自分は忘れないために映画を撮るんだって言ってたんですよ。これから『ユリイカ』が公開されるわけですけど、みなさん御覧になれればと思うんですが。そのような反復みたいなものを見る監督が撮った映画って、一様に不穏だなあっとすごく思ったりするんですけど。
樋 つまり、さっき話していた繰り返しっていうのが、いわゆるミニマリズムというものとは全然違うっていうことですよね。
越 そうなんです。『路地へ』っていう映画を青山と一緒にやったわけなんですけど、「世界はいつまでたってもギリシア悲劇を上演している」っていうことを中上が書いています。中上がエレクトラと自分の世界をつきあわせることによって『岬』を書く感性と非常に近い。クレイマーの映画とか、青山君の映画とか見てるとそういうものをすごく感じたりするんですが。
樋 越川が言っているその不穏さっていうのは、どうなんですか。忘れられないっていうか、クレイマーの場合も、繰り返そうと思って繰り返してるんじゃないってと思うんですけど。このあいだの諏訪君と話した時に、『ルート1』の中で、聞こえてくる重機械や船がギシギシ軋む音っていうのは、『ルート1』が80年代末に撮られた映画であるっていうこともあって、ちょうどその時代の世界の軋む音というふうにもとれる、ということをいったんですよ。ヨーロッパの社会主義体制が壊れて、アメリカの役割も大きく変わり――、という世界の変わり目の音。多分クレイマーが、久々にアメリカへ行ってこの映画を撮ったっていうのは、そういうことがすごく大きかったんじゃないかなあって思うんですけど。そうでなければ、あんな大旅行をするわけがない。クレイマーにしてみれば、世界がこんなに軋んでるのにっていう思いがあったのではないかと思うんです。そういう音が聞こえて聞こえてしょうがない。耳鳴りといえば耳鳴りなんですけど。だから本当はもうちょっと生きていてもらって、さらにその耳鳴りを増幅して欲しかったですね。
越 と思いますけれどもね。クレイマーにはその繰り返しみたいなものがたえず見えていて、それはやっぱり彼を疲れさせるし、それを表現という場所に一生懸命追いやる。で、それを例えば35ミリ撮れないからずっと撮らないっていうことではなくて…チラシのコメントにも書いたんですけど、『マント』の東京での上映の時にクレイマーが、舞台の上でこの作品を撮ったデジカムをだすわけですよ、誰でも買える家庭用のデジカムで撮った作品だと。「これは買いだぜっ」て言ってニヤニヤ笑ってたでしょ、あの時。それはすごく印象的だったんですよね。だから例えば35ミリで撮れないからずっと撮らないのではなくて、やはりどんなことをしても撮らざるを得ないっていうか、そういう場所に彼が自分を追いやっているんだろうなっていう気がすごくしますよね。
樋 そうね。あと更に言えば、デジカムも道具だって思って使っちゃう使い方をしている一方で、自分が拡張していく感じっていうのに繋がるんですが、電子機器に対してなんか異様な愛着を持ってるんじゃないかっていう気がするんですよ。本人いないんで分かんないんだけど、どうもそんな気がする。デジカムをロバート・クレイマーが持った時に、なんかフィルムのカメラを持った時と違う人に、半分違う人になってるんじゃないかっていう。それくらい軽い人でもあるんじゃないかっていう。軽いって言ったらいいのかどうか分からないんですけど、なんか違うものを見ちゃえる人。それはね、もうそれ以上はちょっと分からないことなんですが。
越 ただやっぱりその時に会った印象なのかもしれないですけど、武器を手にしてるっていう感じはするんですよ。何に対する武器かっていうのはよく分からないんですね。たしかにクレイマーが抵抗しようとしている何かに対する、すっげーいい武器手にいれちゃったっていう感じはするんですよ。
樋 そうね。だからニューズリール時代の映画なんかにしても、あの作り方自体、全米の各地にいろんな人たちが散らばっていて、そこここで撮ったフィルムをネットワークしながら外に出してどんどん交換していくっていうやり方だったと思うんです。それって本当にインターネットみたいなもので、すでにその頃からネット空間にいた人だと言えると思いますね。それで、世界状況もそうですが、映画の作り方もディジタル技術によってどんどん変わっていっている時じゃないですか。だからテクノロジーに対する独特な感覚を持つクレイマーなりの対応の仕方っていうのを、すごく見たかったなあっていう感じはしますね。
越 それはね、東京国際映画祭でも上映したけど、ロカルノで撮った『電気の亡霊』でしたっけ、あれなんかにも端緒はあったような気はするんですけどね。彼のテクノロジーに対する距離感みたいなもの。
樋 でも一方で不思議なのは、日本映画で一番好きなのが『鉄男』だとかって言っちゃうんですよね。『鉄男』がいいとか悪いとかそういうことではなくて、あれを日本映画の代表にするっていう人もすごいなあっていうふうに思うんだけど。
越 はい、そんな変な話になったところで時間になってしまいました。
樋 どうもありがとうございました。