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ロバート・クレイマーを語る part4

鈴木一誌-筒井武文 (2000年11月6日 BOX東中野)


筒井 ロバ-ト・クレイマーの映画って、どちらかというと苦手なんですよ。もちろん、すごいのは判るんですけども、どうすごいのか説明しろと言われると、何と言ってよいのか、よく判らないんですよね。

鈴木 僕も苦手と言ってよいのかな。見ていて、わかったという瞬間が訪れない。それゆえ、気になり続けます。

 気になります。気になりますし、クレーマー本人はすごく魅力的な人でしたけども。

 風貌にムードがある。

 うん、いいですね。で、たとえば『ルート1』なんかだと、クレイマー自身キャメラやってるじゃないですか。特にドキュメンタリーそうだと思いますけど、キャメラマンの身長というか、あの、目の高さですね、それってかなり作品に影響してるわけで。手持ち撮影が多くなるということもあるし。映画の印象からして、どっちかって言うと、大きい人だと思ってたの。実際のクレイマーさん見たらそんなに大きくないんですよね。それがちょっと意外だったなというのがひとつありましたね。

 たしかにクレイマー作品では、いつもキャメラアイが少し高いところにある気がする。それはなぜだろうか。

 そう、俯瞰が特徴的ですよね。なぜかは判りませんが。あともうひとつは音の問題っていうのがあって、音がすごく気になります。

 そこで、軽く補助線を引いてみると、僕は見てませんが、クレイマーの『フォルム』というデビュー作がたしか1965年ですよね。で、今日ここに持ってきたのがトゥルーマン・カポーティーのノンフィクション・ノベル『冷血』。これが発表されたのが、同時期の1965年から66年ということになっています。リチャード・バーサムの『ノンフィクション映像史』(山谷哲夫・中野達司訳、一九八四年、創樹)によれば、ダイレクト・シネマというドキュメンタリー映画のムーブメントは、カポーティーの『冷血』からかなりのインパクトを受けた、と。クレイマーは、定説上ではダイレクト・シネマに属することになってますね。

 その本は昔読んだはずなんだけど、全然覚えてないなあ。えっと、どういうことなんですかそれ。その似てるというのは。

 ふたりの若者が一家4人を殺したという、アメリカで起きた実際の事件を、小説家のカポーティーが、関係者の取材に五年かけて発表した作品で、小説とドキュメンタリーの中間、ノンフィクション・ノベルという概念を同時につくりだした。平凡社の百科事典では『冷血』の発表は66年となっていますが、新潮文庫の解説には65年とあって、どちらが本当か、門外漢にはわからないのですが、カポーティーが先か、ダイレクト・シネマが先かと言うことではなくて、感覚のセンサーとしては同時並行的に働いていたんではないでしょうか。

 たしかにクレイマーの作品には、虚構とドキュメンタリーの境界線を渡っていくようなところがありますね。

 虚構とドキュメンタリーの見直しが、60年代にいっせいにあったのでしょうね。さきほどのバーサムの著書に示唆されてさらに言えば、テレビに対する脅威が、文学も映画もあったんじゃないかな。虚構とかドキュメンタリーとかいう境界線の仕切直しをしながら、文学や映画というメディアが、読者や観客にダイレクトに届けられるものはなんだろうと考えざるをえなかった。で、ダイレクトな感触を運ぶものとして、音があったのではないか。『ルート1』といっしょにこのBOX東中野で上映されている「ニューズリール」を見てすごく感じたのは、音の圧倒性、音が見ている人間を包囲してくるって感じですね。目っていうのはまぶたを閉じれば見ることを拒否できるんだけれども、耳を閉じることができない音っていうのは、容赦なく知覚としてひとに入ってきますよね。否応なく観客を包みこんでしまう、あるいは撮影者を包みこんでしまう音は、虚構とかドキュメンタリーとかの境目、ジャンルの垣根を侵略するものとして選ばれたんじゃないでしょうか。

 うん。まず、それまでのドキュメンタリーで、シンクロで捉えてるっていうことは、ほとんどなかったですからね。

 当時、撮影や録音機材の技術的な革新もあったわけですよね。シンクロ録音用のナグラの普及とか。『冷血』でも、殺人の場面の描写なんかは、音のドキュメンタリーと言ってもいいぐらい、音の読み物として読めます。カポーティの丹念な取材の結果がそうなっているわけですね。音の直接性をバネにして、もう一回記録することを見直そう、見直さざるをえなかったのではないか。いつの世もそうですけど、メディアというのは、見たいもの、聞きたいものだけ聞くことになってしまう。そんな状況に対する起爆剤として、音があった。結果として、たとえばクレイマー作品では、地と図の反転が起こる、主題と背景の反転が起きているのではないかという気はするんです。

 あの多分ね、ドキュメンタリーが劇映画と違うっていうのは、音処理ですね。おそらく劇映画では、画面に合わせた音再生をすると思うんですよ。アップの時の音はアップ、ロングの時の音はロングというふうに、マイクの距離もカメラに似せるわけですよね。ドキュメンタリーというのは、その関係がちょっと崩れてもOKなんです。劇映画では、マイクは映ってはいけないわけですけど、ドキュメンタリーでは、映ってもいいわけですよね。まあドキュメンタリーの種類にもよりますけど、そうした場合、音の距離と、映像の距離がずれると思うんです。で、必ずしも画で見ている音が聞こえるとは限らないし、だからむしろそういうことを積極的に、やっているというか、やらざるを得ないっていうのが、ドキュメンタリーの表現だといいますか。

 カサヴェテス監督の作品では、劇映画なのにマイクがバレてしまっているのがあります。そういう意味ではカサヴェテスもダイレクト・シネマの担い手なんですね。テレビの威力を当時どのくらい実感したかを、考えてみなくてはならないと思う。モノクロからあっという間にカラーになった。では、テレビに対抗して映画は何ができるか、と映画人が考えた時に、観客を包囲する力、引きずりこむ力ではないか。包囲する力のひとつは音だろうし、ストーリーよりは背景の力の発見ではなかったか。クレイマーの映画はそう多くを見ているわけではないですが、主題と背景が生々しく反転していく過程を見てるような感触があります。もしかしたら、この人は背景にこそ興味があるんじゃないかなって。その感じが、さきほど筒井さんがおっしゃた、少し高いところから見ている、実際の距離がではなく、視線がほかの人より一歩引いている雰囲気がある。態度として鳥瞰的なんですね。

 なるほど、画面がロングで、音がアップなのか。ところで、鈴木さんがだいぶ前からですけど、「みすず」ですか、あれに「線と面」という映画論を連載されてて、でここ2回くらい、フレデリック・ワイズマン、やっぱりもうひとりのドキュメンタリーの巨人ですけれども、ワイズマンを取り上げています。そのなかに、クレイマーの話もでてきましたね。

 1997年にクレイマーとワイズマンが、山形国際ドキュメンタリー映画祭に同時に来た時のふたりの対談が、映画祭事務局の機関誌に掲載されていて(「対談:フレデリック・ワイズマン ロバート・クレーマー」、『DOCUMENNTARY BOX #12』、山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局、一九九九・三所収)それがおもしろいんですね。たとえば、ドキュメンタリストが普通の人に、撮りますよと言ってキャメラを向けたとたんに、写される人は日常のコードとは別のコードを生きることになるかの議論をしている。対立しているように読めるんだけど、まあ丁々発止なんでしょうね。おたがい分かりあえたところで、対話の勝負に挑んでいる。ふたりには、むろんちがいもあるが、共通点もある。『ルート1』は、我々が見ているワイズマンの最新作である『メイン州ベルファスト』(1999年)と似てないですか。

 山形で『メイン州ベルファスト』見た時、ワイズマンの総決算的な作品にも見えたんだけど、なんかこれ見たことあるぞっていう。描かれてるアメリカの生活の断片の共通性を掬い上げてたものが、やっぱり同じよう長い映画で。ああ、『ルート1』だと。特にイワシの缶詰工場であるとか、あるいはおもちゃを作ってるラインとか、あと細かいディテイルがねいろいろシンクロしちゃったんですね。

 『メイン州ベルファスト』では、メルヴィルを朗読する高校の先生がいたけれども、『ルート1』の冒頭で、ホイットマンを男が朗読したり、木を伐ったりする場面とか、ハンティングした鹿が吊るされてる場面とか、数十箇所、ショットとして似ている場面がある。

 そうそう、だから撮り方もなんか似てるんですね、そういうところ。工場のラインとかってまあだいたい撮るところって決まってるからそういうのもあるだろうけど。全然違うタイプの作品なんだけど最後に不思議に符号するんですよね。

 イワシの缶詰工場や、ロブスターを獲る場面も同じ。クリーニング店のようすとか教会のシーンも両方に出てくる。ワイズマンが、『ルート1』を意識し、クレイマーに渋くオマージュを捧げたかに見える。

 全く意識しなかったかとは思えない。無意識の類似かもしれないけど。それで、両作品とも、鍵になってくるのが、「道」ですよね。道路っていう問題。

 両作品とも、道を頻繁に撮ってますよね。『ルート1』っていうのは道がタイトルなわけですけど、道のシーンがひっきりなしに出てくる。

 そうなんですよ。シークェンス同士をつなぐのが、道なんです。ワイズマンの映画は全部そう。

 ショットをことばにしてならべていくと、両作品には類似がものすごくあるんだけれども、ひっきりなしに出てくる道のシーンひとつとっても、その撮り方がまったく違う。

 違うんですよね。どちらもね、何を伝えてるのかっていうのを直接言葉にしない人だから。ワイズマンの場合は、あの形式を通してなんとなく見えてくるところがあるんですけど。全体のシークェンスの並べ方ですよね。直接的に物語として関連しないんだけど、いくつか似たようなところに対応関係があるとか、まあ、そういったことだと思うんですけど。

 その対応関係というのは、編集技術とか映画の文法としてのですか。

 編集と絡んでますよね。それでね、ワイズマンの場合は、完全にドキュメンタリーとして出発してながら、編集でフィクションとして、まとめあげるてしまう。日時の違うショットを組み合わせて、ひとつのシーンをつくるなんて、平気でやるでしょう。だから、撮影時にそういうこと考えながらカットを拾ってると思うんですけど。ですから、ワイズマンの映画は二、三カ月かけて撮影した素材を使って、せいぜい一週間か、二、三日の出来事にしか見えない。で、それに対して、クレイマーの場合は、時間が集積される。『ルート1』でいうとね、医者を主人公として旅に出してくるじゃないですか。それは旅の証人なんだけど、フィクションのような設定をして、撮っていくわけですよね。それで、その医者が体験したものを観客が見ていくものだと思っていると、途中で主人公はいなくなっちゃう。それでも、映画は続く。びっくりしてしまいますよね。でも、逆にいなくなってからのほうが面白いぐらいでね。

 両作品とも、道のショットは単純なつなぎのショットにはなっていないですね。フィクションが壊れちゃったところでドキュメント性が現われてくるほかないと思っているような、あきらめというか絶望の香りがする。もう少し、編集の観点からの二人の違いを聞きたいのですが。

 まあこれ、ふたりのポジションが面白いんだけど、クレイマーは撮影だし、ワイズマンは録音担当だっていう。やっぱりワイズマンって、音で引っ掛けますよね。ちょっとなんだろうて聞かせといて次の場面でその正体をだすとかね、そういう音の編集とかすごくうまくて、巧に観客を引っ張ていくと思うんですよ。それでね、その対象を発見していくプロセス自体も、うまくシークェンスに組み込まれてるって感じはするんですよ。それに対して、クレイマーのほうはね、次に何がでるか全く判らないんです。いきなり、出会った人が喋りだしていて、それでキャメラはそれをずっと受けていて、たいていその人の過去みたいなことが語られてていくんですけれども、それが展開しきってもいないのに終わってしまう。で、また別の人の過去が語られていくっていう。ワイズマンの滑らかさに比べて、なんかすごくごつごつしてるんですよね。で、ワイズマンが取材のプロセスも、作品内にうまく取り込んで、フィクションを構成しているのに対して、クレイマーのほうは、プロセスというか過程ですよね、つまりその人と出会ってから撮影するまでに交渉ごととかあったんだろうけど、そうした過程がいっさい省略されていて、観客はいきなり出来事に向かい合わされるわけです。単に撮りたいものだけが露出してるというか。

 ワイズマンも、撮らせてもらうまでの交渉ごとなどは映さないですよね。映してるわけじゃないけど、ある種のプロセスが見えるってことですか?

 ええ、ワイズマンの場合は、劇映画と思っちゃうがごとく自然にその場に事件が発生してしまう。なんかうまいというか何というか、ほんとに偶然かと思っちゃうような。偶然を呼び込むのか、装うのか。

 ワイズマンはクレイマーより年齢が九つぐらい上ですけど、両作家とも映画史的にはダイレクトシネマの流れにくくられている。音のダイレクト性、雑音性や包囲性には意識的なんでしょうが、ワイズマンの音は加工はしてないが整備はしてる感じはしますよね。それに対してクレイマーの音は、本来は音色だったものが、ただの音に聞こえかねない、ほんとの背景になっていっちゃう。

 だから、クレイマーの映画だと、まあ『ルート1』なんかは、3、4回見てるんですけど、えーこんなシーンあったっけみたいに、全然覚えられないんですよ。どういう出来事がどういう順番に起こったかとか、言えといわれても判らないんですよね。

 『ウォーク・ザ・ウォーク』もストーリはあるはずなのに、リニアには記憶できない。印象的なショットとしてな鮮明に覚えてはいるんだけど。

 『ウォーク・ザ・ウォーク』も判らないですよね。あれもほんとよく判んない。

 クレイマーの『ルート1』や『ウォーク・ザ・ウォーク』でも、主人公がいるんだけれども、いつの間にか主人公の背景のほうに力点がかかっていく。主人公がいなくなっても、成り立たせてしまうところがある。

 うん、そうですよね。クレイマーのモノローグが時々響いてきますから。だからその、何で主人公がいるのかが最初よく判らなくて、聞き役としておいているのかなと。インタビューを撮る時に、その聞き役をおいておくと、インタビューされる人の目線がそっちにいくから、まあ比較的撮りやすくなるとか、そういうことなのかなと思ってたら、いなくなっちゃてからもちゃんと目線ははずしたり、逆に目線ぶつける時は目線ぶつけてるし。べつにそういうことでもないんだなあって、余計判らなくなりますね。理論に当てはめられない人なんですね。

 もう少しワイズマンとの比較を整理したいんですが、両方とも道のシーンがあって、車が行き交うんだけども、クレイマーの場合は車の側から見た目で移動していきますよね。ところがワイズマンは絶対ノ移動しないで、道ばたにキャメラ据える形で、その前を車が通過していく。移動する側と定点観測する側とに分かれ、同じ道のショットと名付けられるにしても、二人は全然違う撮り方をする。そのこととつなげて言えば、クレイマー作品では、ショットが登場人物からの見た目に見えることが多くないですか。それと、最初のキャメラアイが気持ち高めに感じるというのが、関係ないかどうか。

 ワイズマンの場合、まったく時間の持続とは切れている。クレーマーは時間経過によって、新しい風景が見えてくるわけですね。ただ、移動ショットを切り返して、運転してる人なんか映さないでしょう。だから逆にね、『ルート1』の映ってる背景で、天候が変わったとか、自然が変わったとか、暖かくなったとかいう感じは受けるんだけれども、具体的な移動感ていうのがね。移動自体はあるんですよ。でも、いわゆるロードムービー的な移動はないような気がするんですよね。つまり、心象風景としての時間じゃない。

 クレイマーは、背景に興味をもっちゃった人だと思うんですね。それは、ひいては、世界というより地球と言ったほうがよくて、地球の肌理そのものに興味をもっちゃったんじゃないかな。地表の表面ってどうなってんだとか、水が流れる姿ってどうなのかとか、海では潮流がどう渦巻いているのか、人物そっちのけで、物質的な肌理に関心が行っているように、映画から感じる。人物を撮っていても、その背景で流れていく霧に目を凝らしている。肌理をなぞることによっている映画は、なぞって察知しようと思うから、移動せざるをえない。ロードムービーとしての移動ではなくて、地球という肌理をなぞる、さする、さわる行為として、映画的な移動がクレイマーにはあるのではないですか。

 そうですね、だからすごくあちこち寄り道してると思うんですよね。たとえば、切り株みたいなもの。あれは過去の時間の記憶を生み出させるんだけど。それからあと動物ですよね。亀がでてくるし、なんかいろんな動物出てきますよね。人間以外の時間というか。最後、海のなかまで行くんですから。

 普通の道路標識や建物の看板などを、3カットぐらいで寄っていきますよね。ああいうキャメラが対象をひたすらさすっていくような、あれは何なんですか?

 あれ不思議。すごくごつごつした編集なのに突然なぜか、ある種映画文法に則ったつなぎを平然と入れたりして。すごくドキュメンタリー的な撮り方をしてるかと思うと、フィクショナルな感じで、人を追っかけたりしたカットもあるし、登場人物が扉から入ってくるのを、室内から受けたりっていう、要するに待ちポジですよね。そういうやらせ演出も平然と使っている。だから、よく判らないていうことに、戻ってしまうんですけどね。

 クレイマー映画は、生々しいしダイレクトなとこともあるんだけど、何となく過去形の気配がありませんか。ワイズマンだと、映っているものは圧倒的に現在形だと思うんだけど、クレイマーの場合には、すっかり過去になってるわけじゃないが、見る瞬間からほんのわずか、すっと過去にずれていく感じがする。地球の肌理をさわる、スキャンしていく瞬間に、対象が通り過ぎていくと言うのかな。映画文法的には過去形はないんだけど、過去の気配があります。ナレーションがはいったりするからですかね。

 ああそれもあるかもしれない。あのだから、さっき鈴木さんのおっしゃったことで言えば、地球の表面さするみたいなとこで言うとね、クレイマー自体が世界各地を放浪して、やっとアメリカに戻ってきたっていう視点がもちろん『ルート1』にあるんだけど、なんかだから地球の外から来た人が地球を見てるって感じがすごくするんですよ。そこは、ある時期のゴダールのようでもある。

 たしかクレイマー自身のことばで、「"シネマ"は物質世界に属してる」というのがある(山形国際ドキュメンタリー映画祭1997公式カタログ)。映画作家で、世界と映画の関係を考えた人は多いけど、クレイマーみたいに地球と映画の関係を考えた映画作家というのは珍しいんじゃないかな。そこに映っているものは、世界じゃなくて地球なんだ。

 というところで、時間が来てしまったんですけど、最後にひとことありますか?

 指に怪我をしたシーンがクレイマー映画では記憶にある。これも、地球をさするということと関係がありそうですね。傷付いた指で周囲にどうさわるか、クレイマー映画はものすごく敏感なセンサーだと思います。傷付いた指で対象をさわるとき、その感触はフィクションなのかドキュメンタリーなのか、まだまだいろいろ考えたいですね。

 なるほど。ぼくは、アメリカの劇映画の作家に喩えちゃうと、クレイマーがジョン・フォードだとすると、ワイズマンってハワード・ホークスかなあって思っちゃいましたけど。つまり、叙事詩対クレージー・コメディ、具象対抽象ということなんですが。まあそんなところで。