
ロバート・クレイマーを語る part3
越川道夫 - 井土紀州 (2000年11月5日 BOX東中野)
越川 今、井土監督は『ルート1』を見たんですか?
井土 いや、きょうは『ニューズ・リール』を見たんですけど。
越 じゃあ、その感想なんかを。
井 そうですねえ。まあ、最後のストライキと言う映画で、グレイトフル・デッドというアメリカの最長寿のバンドがでてくるのですが、ストライキ支援の演奏をしてて感動したんですが。
越 グレイトフル・デットって何かそういうのにコミットしてたの?
井 ヒッピーの支援をうけて、コミューンみたいな形態で、演奏活動も含めて、続けてきているバンドですよね。まあその中心人物のジェリー・ガルシアって人はなくなってしまいましたけど。ただこの映画とロバートクレイマーをどう繋げていいのかよくわからないんです。
越 そうですね、ニューズリール自体匿名というのが基本の団体ではあるんですけど。
井 一つまあ時代を表していると言うか、左翼前衛映像集団に属していたわけですけど、彼の中でマルクスの思想と言うものがどのように把握されていて、またそれが現在においてどのような展望につながるのかということに興味がありましたね。
ブラックパンサーの連中が話しているシーンを見ていると、彼等は共産主義というものを一つのユートピアとして捉えているのがありありとでていると思うんです。それはそれで牧歌的な時代だったのかなあと思いますが、マルクスが『ドイツ・イデオロギー』で言っているのは共産主義は未来のユートピアを実現するもんではなくて、現実に対する批判としてどのように切り込んでいけるかということですからね。時代の中で、彼らが挫折した時にその思想と言うかその可能性みたいなものをどのくらいの人間がもち続けていたのかが気になるところですよね一つやっぱり。時代的な熱狂というかお祭り気分も半分あるだろうし。
越 いきなりちょっと違う話になってしまうんですけど、最近、左翼であるってことは映画を監督する上で意外に重要なのではないか、という気がしてるんですよ。もちろんその人が政党に属しているとかあるイデオロギーに属しているかどうかではありません。たまたま先日、『ペパーミント・キャンディー』という韓国映画がキネカ大森と、テアトル池袋で公開されているのですが、ある新聞が絶賛をしていたわけですね。それで見に行ったのですが、これがどうしようもないひどい映画なんですね。どのようにひどいかはみなさん判断いただければと思うですけど。韓国の現代史のようなものを、一人の男の死から遡っていくと言う視点があるんですが、その点を新聞が絶賛をしていたわけなんですけど、それは現代史と言うような代物ではなくてですね、ただのセンチメンタリズムなわけです。あらく言ってしまえば、自分の歴史=韓国の現代史をセンチメンタルに、例えれば初恋の少女が今でも自分のことを愛していると思いこんでいる男の子の錯覚のような視線で眺めているようにしか見えないんですね。その時思ったのは、やっぱり左翼がない国は恐い、ということですね。そこには内部しかない。同じことを別の意味で『シュリ』を見た時にも思ったんです。アメリカのように、移民であるとか別の問題を孕んでしまうとまたちょっと別のものがあるんじゃないかという気がするんですが。意外、に映画を作るうえで左翼であるという問題は非常に大きいんじゃないかと、『ペパーミントキャンディー』を見た時に思ったんですけど。ロバート・クレーマーの映画を見ていると、彼はやはり左翼であると感じるんですね。それは左翼的なテーマを題材にしていると言うことではありません。やはり映画は抵抗という問題と深く関わっているのかも知れないと考えるわけです。ロカルノの映画祭が今年あって、クレイマーがなくなったということもあって、今ちょうど、パリのシネマテークでクレイマーの追悼上映をやってるみたいなんですが。二人で『マイルストーン』という映画を見たんですよ。それは、ベトナム反戦運動をしていた人たちのその後を描いた3時間ぐらいの映画なんですけど。
井 まあ、ぼくはその映画に対して非常に批判的な感想を言ったんです。ただ字幕無しだったんで、どれくらいこの映画を自分が認識できているかはわからないんですが。1975、76年ぐらいの映画で、基本的に左翼運動というものが衰退し、ある形で敗北していったというところで、その時に自分たちは何を求めるかという映画に見えたんです。そこで最後子供の出産のシーンで終わるんですね。要するに生命の誕生において映画が終わっていくっていう誰が見ても感動する映画の終わり方だったんで、ぼくは非常に不満だったんですね。それを次への希望にしていくという。意味は把握できなかったんだけど、全体で見た印象でいうと、あまりにもナイーブなんじゃないかなあという気はしたんです。
越 『ルート1』はどうなんですか?
井 『ルート1』は、ぼくは最初ロードムービーという前評判で見にいったんですけど、ロードムービーっていうのは基本的に移動のシーンに僕なんかは快感を得るというか、道がバーンと続いていて、その道をずっと走ったり、弛緩がずっと続くとかという。ところがその移動の過程というのがほとんどないんですね。A地点とB地点があって、AからBに行く過程をどう撮るかっていうのが、ロードムービーの楽しみじゃないですか。それを見るのが。風景とかを含めて。それが、移動自体がほとんどなくて、AならAで起こっていることが写されて、そうすると次はもうBという地点にとんでいてBで起こっていることが写される。ロードムービーといいながらもほとんど移動がでてこないという印象がすごくあって。こっちの先入観で見たこということもあって、なんともいいがたい感じで出会えなかったという感じのほうが大きいですよね。
越 その部分を度外視してみたら『ルート1』という映画は井土さんにとってどうなんですか?
井 ひとつね、『ニューズ・リール』、『マイルストーン』、『ルート1』という流れで考えた時に、映画そのものに興味をもつか、あるいは、監督でも役者でもいいんですけど、その人に興味をもつか、という部分があったとしたら、ぼくはロバート・クレイマーって人はその人に興味を持てるという気がするんですよ。その流れを見ていったときに、フィルモグラフィー的に見ていきたいという気がするんですよ。そこで自分の認識も覆されるんではないかと。例えば僕だったらこんなことがありましたよ。むかし、小学校とか、中学校の教科書で、石川啄木という歌人がいますけど、あの人の、はたらけどはたらけどわがくらし、とかを読んで、教科書だと、清貧の思想じゃないですけど、清廉潔白な印象しか残らないじゃないですか。たんにぼくは、そういう偏向だけで、石川啄木という人間を捉えていたけれども、二十歳を過ぎてなんかの縁で、啄木の歌集みたいなのを見てみると、全然そんなものではなくて、もっと悶絶してて、どろどろしてて、「一握の砂」にしても、「悲しき玩具」にしても、なぜ俺はこんなに不遇なんだとか、もう死にたいとか、悶え、苦しみとか、ほとんど業に近いようなことが、メインになっているわけじゃないですか。美しさとか叙情よりも、自分が生きてあることというか、まあプライドとか出世欲も含めて、人間の業というものがめちゃくちゃでてる非常にどろどろした、もう読んでてつらくなるような歌で、そこで僕の認識が180度変わったということが例えばありました。だから、クレイマーにしても、僕が見ているレベルだと、はたらけどはたらけどっていうイメージの、誠実な人、ロバートクレイマーっていう印象が、『ルート1』を見てても変わらなかった。そのへんは、越川さん別の作品を見てるわけですよねえ。後半の『ドッグスキングダム』とかそのへんはどうなんですか?
越 『ルート1』のときは、山形ドキュメンタリー映画祭の東京での上映で見てはいたんですけど、その時はそれほど熱狂していたわけではないんですよ。ロバート・クレイマーの映画について、は四年前くらいの東京国際映画祭で、『ドクス・キングダム』という彼がポルトガルで撮った映画(80年代前半だと思うんですが、)と、『マント』というビデオの作品(これは比較的最近ですが)を見たんですが。これでまあ、ぼくらはロバート・クレイマーといってで騒ぎだしたし、そのとき彼は、山形国際映画祭の審査員をして、そのまま東京にきていて、そのときパーティーとかで会う機会があったんです。やはりこの2作品っと出会ったのが大きかったですね。なによりもまず、映画が非常に不穏なんですよ。冒頭から。『ドクス・キングダム』は、家族から失踪してポルトガルで医者をやってる男がいて、非常にただただ悶々としていて、そこに彼のひとりの息子がアメリカから訪ねて来るっていう非常に簡単な筋をもった映画が一時間半ぐらい続くわけなんですが、非常に画面から受けるものがすごく不穏なんですね。それに関していろいろと言うことも可能なんだと思うんですよ。いわゆる大文字のことを言うことも可能だと思うんですけど、とにかくその不穏さに圧倒される。『マント』は、ペルーの幻のマントを探しに行くという筋があってですね、これがちょっと面白すぎるぐらい面白くて、それで僕らはどきどきしてしまって、ロカルノで、『マイルストーン』とか見ると、どっちかって言うと後半の作品がもっているような不穏さっていうのはまだクレーマーの作品には表れていない。『マイルストーン』と『ドクス・キングダム』間にある断絶(と言っていいか分かりませんが)は何だろうと考えてしまいます。だから、『ドクス・キングダム』や『マント』では、音楽をバール・フィリップというフリーのベース奏者の人がずっと彼の近年の作品は音楽をつけているんですが、彼の音楽と相まって、むちゃくちゃこっちをすごく不穏な感情にさせる映画をたくさん後半撮った人なんじゃないかなあと。ただその不穏さっていうのがどこから来るのかっていうのは、ちゃんと考えてみなくちゃいけないなあという気がするんですよ。
井 なるほどね。だから、『ニューズリール』はそうだし、ぼくが『マイルストーン』っていう映画で感じたのは、結局ある世代を作品を撮ることによって、代表しようとしてしまっているところがあって、そこがよろしくないなあと思っているところなんですよ。『ルート1』っていう作品は、見た時にそういう印象は全くなかったですね。やっぱり個ですよね。いかに個であり得るかっていうところを相当突き詰めた後に撮られた映画であるというか。あの映画自体もその過程をとっているわけですよね。
越 ただその間に、ロバート・クレイマーの中に何か転換があると思うんですよ。おそらくドキュメンタリーというジャンルが本当にあるのかないのかというのはわからないところなんですが、個を撮っていながらヤッパリ何かを代表するっていうところからちょっと離れられないんじゃないか、そういう限界をあらかじめもっているんじゃないかなっていう。ドキュメンタリー自体が、実は非常に劇映画よりも物語を要請するようなところってやっぱりあると思うんです。そういう問題と、『マイルストーン』なんかもまだいわゆるドキュメンタリー的あるとしたら、そういうものが基本的にもっている仕組みではないかって気はするんですけどね。そこから、劇映画に反転していく時に、ロバート・クレイマーの中で、何か転換があったんじゃないかなあっていう気はするんですよね。その時にその不穏さも改めて獲得するっていう。切実さを持つのが『マイルストーン』であるとすれば、逆に、劇映画になった時に勝ち得る不穏さがあるんじゃないかなあと。
井 なるほど。はい。いや難しいなーって思って。まあ僕は見てないっていうのが大きいんですが、それは是非ちゃんと見れるようになるといいですね。
越 そうですね。状況を説明するとですね。ロバート・クレーマーが亡くなる前に、諏訪敦彦監督が広島でロバート・クレーマーと映画を撮るという話があって。それは非常に具体的に進行してたわけです。それからデジカムを使って映画を撮ることにロバート・クレーマー非常に意識的だったので、『マント』っていう作品も、家庭用のソニーのデジカムで撮った作品だったんですけど デジカムで映画を撮らないかというこちらの誘いにジュネの『綱渡り芸人』をベースにしたような、長いシノプシスを送ったりしてくれていた。それがお金がでないとかで企画自体が頓挫している間に、彼は亡くなってしまった。ぼくらはぼくらで、『ドクス・キングダム』と『マント』を配給しようとしていて、まあ僕の怠慢もあるんですが、なかなか話が進まなかった。怠慢のうちにクレーマーを死なせてしまったような感情があります。現実的には、『マント』という作品を配給しようという話を進めている真っ最中ですね。すごく面白い映画なんで、公開まで、こぎつけることができたら、みなさんに御覧いただけたらと思うんですけど。
井 そうですね。あと、さっきの映画と出会う、人と出会うという話でいうと、やっぱり僕はロバート・クレーマー個人の交友関係にもすごく興味があって、なんかの雑誌に載った、クレーマーとグラウベル・ローシャの非常にいい写真がありますよね。クレーマーの映画を見るのもいいが、あの写真を見てくれ、というぐらいいい写真なので。ローシャとクレーマーの関係とかは全然ご存じではないですか?
越 ぼくですか? 全然知りません。ただ、南米のペルーであるとか、ブラジルを転々として、そのへんをふらふらしていたということは、なんかで読んだことはあるんですけど。ですから、そのブラジル時代に何か親交があるのか、どうか分からないんですけど。
井 そのへんがどんどん明らかになっていくと面白いでしょうね。
越 あの井土監督が撮った『ヴェンダースの友人』という作品があるんですけど、作品の中で、その写真というのが非常に印象的なんですけど。ちょっと感動的なんで、クレーマーの映画がお好きでしたら、是非あの写真を見ていただきたいと。
井 一番最初にもいったんですけど、『ルート1』って、A地点ならA地点の対象をある程度おったら、こんどは、B地点っていうふうにあんまり深入りしないで、とんとんとんとん行きますよね。で、非常に分析的であるというか、知的である。このあいだ、アテネ・フランセでやっていた、フレデリック・ワイズマンとの影響関係っていうのがやっぱりあるんですかね。
越 知りませんが、どうなんでしょうね、クレーマーの交友関係というのは、あんまり知らないんですよ。ただ、彼はアメリカ人ですが、最終的にはパリにいたので、いろんな者と交友関係があり、やっぱりちなみにその僕は前の会社で、フィリップ・ガレルを配給したんですけど、彼もガレルのことは知っていたし、ゴダールよりもちょっと下の世代ぐらいの監督達と横の繋がりっていうのが基本的にはあるんじゃないかと思うんですが。
井 そのへんも明らかにしてほしいですよね。
越 明らかにしたいですよね。ただ、本人がいないんで、そのへんが痛いんですけど。
井 そうするやっぱり、フィルモグラフィー的に続けて見ていくってことが僕はしたいんです。
越 そうですね。さっき不穏さってことを言ったんですけれど、圧倒的に今映画を見てて、不穏だなって思う時って、少なくなってきていると思うんですけど、たまにそういう映画に出会うと、すごくうれしくなってしまうんです。たとえば、青山真治監督の『ユリイカ』を見ても、不穏だなあ、最初から不穏な空気が漂っておるなあと。最初の空から、女の子が後ろ向きで立っているところから、バスが向こう側からやってくるというのを見るだけでもやっぱり不穏だな空気が画面から伝わってくる。井土監督の『百年の絶唱』を見た時にも、不穏だなと思いました。おそらく不隠の内訳は違うんだと思うんですけど。じゃあ『ペパーミント・キャンディー』に不穏さがあるのかというと、全然ないんですね。ここにあるのは、センチメンタルな感情ばかりで、不穏な題材を扱いながら、不穏さなんてのは、一個もない。同じものを撮ったってそれが不穏なものとして、撮れるのか撮れないのかというのがあるわけじゃないですか。要するにバスが向こうから来るのを撮った時に、不穏にとれる監督と、不穏に撮れない監督、というのがあると思うんですね。で、その不穏さというのは、人畜無害な作品ばかりを見せられている中で、惚れ惚れするものなんですよ。そういう不穏さっていうのがどこから来るのかということを考えてるんです。
井 それは、やはり精神の地下室というか。ぼくも青山さんにはじめて会った時に、これはずいぶん暗い男だなあという印象があったんですが。同様に僕も彼から見れば暗かったようで。やっぱり80年代以降っていうのはすごく暗いものが蔑まれた時代じゃないですか。だから、時代もいま斜陽になってきた時に暗いものが要請されているのかなあと。時代風俗や意匠にあわせているわけではなくて、僕は暗かったと言われれば、ずっと暗かったわけですけど。青山真治の映画にしても、あの人の映画は、ずっと暗いし内省的ですよ。そんなものでも、需要がまたでてきてるのかなあと言う気は多少しますけどね。
越 単に内省的と言うだけで、作った映画に不穏な空気が流れるかと言ったらまあ、流れないわけですよね。青山真治監督に関していうと、彼には不穏なものが見えるんですよ。彼曰く、見える者がそういう者を撮ろうとしてるわけだから、撮れないとおかしいと。不穏さというのは、言ってしまえば、目に見えないものだと思うんですね。それは、前井土君が言っていて、面白いなあって思ったんだけど、ある世代から、監督が自分の世界を描くことに汲々としてしまって、世界の中から物語を作ることをしなくなってしまった、という話をしていた気がするんですが?
井 というか、ぼくが言ってたのは、その作家の空想で勝負することが増えてきたというか。だから、その個人のもっているイメージをあたかもそれが公共性があるかのように、作品化するっていうものがずっと支配的になって来たんじゃないかなっていう。そういうことを言ったのかなあ。
越 たぶんそうだと思います。
井 ああ。世界観って言い方したかな。だから、自分の世界観をどう具体化するかという映画。とくに、近未来ものとかっていうのは特にそうですけど。自分のもっている世界観をどう作品に反映させるか、というのが多かったと思うんです、僕らが見てきた映画って。石井聰亙さんや岩井俊二さんなんかそうだと思うんですけど。そうじゃなくて、むしろクラッシック映画とよばれるような映画を見た時、成瀬巳喜男の『浮き雲』という映画を見て思ったんですけど、男と女の関係だけを描いていくんだけど、最終的に男と女の関係が煮詰まっていくその極路みたいなところで、逆に一つの世界観が、むしろでてくるというか。それがすごいなあという話を確かしたんじゃないかなあという気がするんですけど。
越 やっぱり、青山監督にしても、自分の世界観のようなものを撮るというわけではなくて、多分そういうところとは逆な立場にいる監督なんだろうなあと思います。で、いきなりまとめるわけじゃないんですが、おそらくロバート・クレーマーなんかも、真逆だろうなと。ドキュメンタリーの作家としていたからということではなく、そこで、一番最初の左翼であるかどうかというところに結びつくところもあるんですが、あの、真逆にいるんじゃないかなという気はするんですよ。で、そうじゃないとやっぱり、ある種の不穏さっていうのは多分、どこまで見えない罠を見ようとするかというところにすごく繋がってくる気がするんですよ。世の中その見えないからくりのようなものと、どういう風に交わっていくかというところに集約されるところもあると思うんですが。
井 でも、それは世の中って言い切ってしまわないで、むしろ個人個人と言った方がいいとおもいますね。
越 そうですね。
井 越川道夫であったり、俺であったり、その一人一人によって、強制のからくりって言うのは違うわけですからね。
越 だから、それが撮れるかどうかで、そこから不穏さというのはでてくる気がするんですよ。青山監督がロバートクレイマーの後期の作品にすごく反応したっていうのは、クレイマーがもっているそういう資質に同じ匂いをかいだのかも知れない。まあ、みなさん今いろんな監督の名前がでたりしましたけれども、見て、感じていただければいいかなと。
井 ぼくもお客さんと一緒に、越川さんに是非クレイマーの他の作品も見れるようにがんばっていただきたいです。
越 そうですね。見れるといいですね。どうもありがとうございました。
井 ありがとうございました。