
ロバート・クレイマー、東京国際映画祭の『電気の亡霊』検閲問題について語る
ロバート・クレイマー インタビュー
取材/訳:水原文人
Tokyo, 6/11/97
Q 最初に不愉快な話からインタビューを始めねばならぬことは残念です。あなたの作品『電気の亡霊』の一部が、なんと映画祭当局により検閲カットされるという結果になりました。映画祭も、日本の映画批評家の大部分も、税関の突き付けた問題に対し結局なにもしなかったわけです。
このような検閲、それも長いあいだ存続し続けている法律である以上、複雑な問題があるのだろうし、これは何よりも日本の問題だ。
ただ私が思うのは、東京映画祭自身が、アジア一大規模な映画祭でありながら、アジアの新しい映画を先導する映画祭として自分自身を確立するまたとない機会を見逃したということだ。『電気の亡霊』の検閲の問題は、それに関わるあらゆる人間を実にやりにくい立場に追い込んだのだ。税関は最初のただ削除しろという判断を撤回し、もう一度映画を見直し、明らかに判断を下したくなかったかあるいは下せず、諮問委員会に回し、諮問委員会でもやはり判断を下せず、結局東京映画祭に判断を押し付けた。これは典型的な官僚の責任逃れのやり方だ。だが惨めなことに、東京映画祭はこのチャンスを前にみすみす引き下がった。それは東京都当局との兼ね合いもあり、財政がらみの問題にもなるという点では、その立場は私も理解できる。
だが残念なのは、この映画の特質ゆえに、その映像の質が明らかにポルノグラフィーとは異なるものであるからこそ、検閲せずにそのまま見せる意義があったことだ。たとえ訴えられることになったとしても(第一本当にそのリスクがあったかどうか私には見当もつかない、たとえばこの映画祭のディレクターが逮捕されるのかとか)、この問題を公の場所に持ち出せるチャンスだったのだ。これが実に妙な法であること、なぜこんな法律があるのかを論じる、いいきかっけだったんだ。この法は明らかに、実際にポルノを阻止するのになんの役にも立っていない。私が東京の電気屋でポルノ映像のモザイクを解読する機械を買って、その映像を私の作品に入れることだってできるのだ。だから私にとっては、東京映画祭はみすみす、みなの関心事である問題について自ら発言する場を見逃したのだという以外、何も言うべきことはない。
今なすべきは、[山形で]『マザー・ダオ』がカットされたこと、『電気の亡霊』の問題、それになぜ『ペテン師』[ヤング部門出品作品]の再上映がないのかの個々の件についての個別の抗議ではない。もっと大きな問題、この法律の目的は何なのか? 十分に正当な理由があって置かれた法なのかもしれない。ポルノの浸透は、身体の非人間化、男と女のあいだの権力関係という考えを広めて行くことだ。だからポルノを拒絶したいという欲求はよく分かる。だが実際には、社会全体が様々なやり方でポルノグラフィーを宣伝し、浸透させている。そしてこのような法律は結局のところ、この重大な問題をばかばかしく、見ていて気恥ずかしくなるようなことに矮小化してしまうだけだ。『マザー・ダオ』で中国人の裸体がカットされても先住民族の黒人のペニスはカットされないのか、人種差別的な理由でもあるのだろうか? なぜスピルバーグの映画[『シンドラーのリスト』]で強制収用所で裸で行進させられる場面はカットされなかったのか? この法は非常に部分的なやり方でしか適用されず、馬鹿げた状況を招いているだけだ。正直言ってこんな不条理な結果を招く法律の話はくだらないし、本当に重要な問題を見えなくしてしまうだけだ。たとえばこの世に二種類の映画があること:一方にこの世界の商業的理想を流布宣伝する映画、その対極に、そうした問題について考える方法を提示する映画がある。これは性器が写ってる写ってないよりも重要な問題だ。
だからこそ昨日の[『電気の亡霊』の]上映で私がとりわけ苛立っていたのは、あの映像がカットされたことが映画作家である私への侮辱にほかならないからだ。つまり彼らが一秒たりとも、あの映画の意味について考えなかったということだ。だから私は、誰もこの問題に関心を示さなかったということに驚いている。私一人が苛立っていて、なんの意味があるのか、という気持ちだ。
Q そうですね。あのショットがなくなった結果、人体の非人間化というあの映画のテーマ自体が分かりにくくなってしまった。
つまりこのような法律が作られたのと同じ動機を伝えようというその意図が、検閲されてしまったということだ。だがこれ以上何をいえばいいのか私には分からないね。
Q ポルノというのは、実は映像が現在の社会に置かれている状況を考えるのにはいい出発点なのではないでしょうか?
ああ、ポルノというのは結局、宣伝の延長に過ぎないものだからね。人間の体を単なる物体、商品とみなす態度を、我々の人間関係のなかに押し進めると、ポルノになる。実のところ、より刺激的な宣伝広告とポルノとの境界線は非常に曖昧だ。渋谷の町を見下ろす巨大な広告看板を見てもその体の[衣服なので]隠されている部分に何があるかを想起させて刺激する意図が見え見えだ。まあこの話はもうこのくらいにしておこう。