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ロバート・クレイマー インタビュー  Chapt.1, Chapt.2

この惑星で、 生き延びるために トーキョー=ヤマガタ、 ロバート・クレイマー インタビューChapt.1, Chapt.2

Tokyo,6/11, 10/11/97

取材/翻訳/構成 水原文人


Chapt.1  この惑星の現在に立つ  Standing on this Planet, now

Q あなたのように30年間も傑出したキャリアを持った映画作家をインタビューするとき、どこから始めたらいいのか----例えば時代順に、"ニューズリール"の話から質問することも考えましたが・・・・

君が本当に興味をもっていることから始めてくれ。なんでもいい、君にとって大事なことからだ。

Q ええ。今の僕にとっては現在の方が重要です。だからこそまず『ウォーク・ザ・ウォーク』----今、この世界の抱える問題に直面するとき、 僕のような人間の助けになってくれる映画だと思うのです。

ウーン、『ウォーク・ザ・ウォーク』の出発点は、私の娘がまだ16か17のとき、家を出て世界を見に行きたい、だから旅に出たいと言ったことだった。 そのとき私は自分自身の即座の対応に戸惑いを感じたんだ----私が父親になったからか、それとも世界が変わってしまったせいなのか、とにかく私の最初の反応は、彼女がこの荒れて暴力的な世界に一人で行くのかと思うと、とても心配になったことだ。自分がいかに保守的な考えを持っているか、その発見から、妻のエリカとのあいだに長い対話が始まった。世界がそんなに変わったのか? 我々のこの考えはなんなのか? この対話から、旅に行くという娘が正しい、その気持ちが我々に生まれた。危険はあるが、だがこの世界について学ぶには、そのリスクも受け止めなければならない。その結果彼女は我々の知らない多くのことを学べるかもしれないし、実際に彼女は学んで来たのだ。これがあの映画のうち、娘の旅立ちというテーマの出発点だ。

Q ヨーロッパに住むアメリカ人のあなたは、現代ヨーロッパの問題をどう見つめているのでしょうか?

もう20年もヨーロッパに住んでいるが、これまで一度も"ヨーロッパ"に取り組んだことがなかった自分に気がついた。今、一層自分たちをひとつのコミュニティと見なそうとしているこの大きな大陸、この地理を映画の基盤として用いるアイディアが生まれた。娘と父の旅と、家に留まる母のあいだに、この大地の光景の主な特徴を描き込もうと思ったのだ。それは決して幸福な大地ではない--世界の中央であるという昔ながらの意識と、実はもう世界の中心でもなければ、その伝統や特性の多くを失いつつもあるという現実の両極に引き裂かれているからだ。

Q 『ドックス・キングダム』の主人公はアメリカ人で、自分がアメリカ人だと自覚している。一方『ウォーク・ザ・ウォーク』の主人公はフランス人の家族です。

だがそこには常にアメリカ人の声がある:私だ、カメラを持ってそこにいる第四の人物。しかし『ドックス・キングダム』は確かに海外で暮らすアメリカ人の物語であり、今の私はもうこのテーマで映画を作ろうとは思わない。今の私は海外で暮らすアメリカ人ではない、世界の住民だという心境だからだ。20年間海外で暮らすというのは、本当に大きな変化をもたらす。今の私は様々なものの混合体だと言っていい。

Q 『ウォーク・ザ・ウォーク』の美しさのひとつは、具象と抽象のバランスです。現在のヨーロッパの問題をめぐる映画であるが、具体的にこの土地でこの問題、という撮り方はしていない。

抽象化は、映画とその人物を"物語"の牢獄から解き放つのには有効な手段だ。だが極端に推し進めてしまうと、観客が掴まる何かがなくなってしまう。理念の背後に人間がいない。映画が語ることが、人間が実際に直面する問題への対処であるという現実感がなくなってしまう。あまりにプリミティヴで、単純だと、そこに息をつく間、映画の豊饒さがなくなってしまう。逆にあまりに洗練されてしまうと、芸術表現が実は、いかに生きるかという問題についてだということ、どう選択をするか、この世界をどう航行していくかに関するものだということを、見失ってしまう。そう、私はいまだに映画をそういうものだと考えているんだ。映画館に行くのはただ娯楽のためではない、世界について、生き方を学ぶためにいくのだ。だからそうした問題が意味を持つバランスを探すこと、抽象に走り過ぎるのでもなく、馬鹿馬鹿しいほど単純になるのでもなく。

Q この映画には、常に移動はあるのに、具体的にどこにいるかを示す地理的な指標、絵葉書的な光景はほとんどありませんね。何処かを示す全景の代わりに、そこで生きることのディテールの直接入り込んでいきます。

国境は意識的に曖昧だ。私がヨーロッパについての映画を作る意義のひとつはここにある。国家の意味は私にとって、ヨーロッパ人とは違う。たとえば仏独間のライン川では、文字どおり何百万もの人がこの国境を巡って命を落としている。だが私にはそれは意味を持たないし、その境界線自体が実存しない、ただ人々の頭のなかにあるだけだと思えてしまう。こうした私のヨーロッパ観は、ヨーロッパ人にはとても驚くべきものであるらしい。ドイツとフランス、あるいはスイスといった国家の境目は、彼らの意識のなかではとても重要なものなのだ。私だって国と国の違いは分かるが、しかし同じようには感じないんだ。その歴史は私の中には存在しないから。検閲の問題でもそうだが、外国人がそばにいるというのは、時には役に立つ。こういう風に別の見方ができるというのは大事なことだと思う。
特にこの日本ではそうなんじゃないか? 人々が大変に統一されたという感覚を持っているし、実際に外国人があまりいない。そんな社会が21世紀の中でどう生き延びるのかは興味深い。特に他の国家の大半が強制的により大きなレベルでの文化の差異の真っ只中にたたき込まれつつある時代にはね。アメリカは極端な例だが、 たとえばフランスでも個人個人が、ひとつのコミュニティのなかの様々な声にどう対応していいのかを模索している。 だが『ウォーク・ザ・ウォーク』はこうした興味と努力の、ひとつの到達点であると同時に、その終わりを示している映画だとも思うんだ。『マント』や『電気の亡霊』はもちろん、それに私がただカメラマンとしてのみ参加してアリゾナで撮ったある若い女性監督の映画でさえ、同じ問題を扱っているとしても、別の方法を模索している。
……『ウォーク・ザ・ウォーク』のささやかな問題点は、これがまるで問題のカタログに見えてしまうところだ。 あの問題にこの問題、エイズ、麻薬、政治不信、ファシズムなどなど、どれも真実だし、実にうまく映画の一部になってもいると思う、だがそれでも、ちょっとショッピング・リストみたいになってしまった。もっと別のやり方があるはずだと思う。

Q その解答のひとつが、『電気の亡霊』なのではないでしょうか? ここでは現代の映像-情報処理技術の最先端が抱える問題を取り上げています。検閲で問題になったセクションでは、人体の非人間化の問題が扱われています。

映画--シネマというのは、ただフィルムと映写機の問題ではない。それは歴史的な思想であり、それもとても19世紀的な歴史的思想だ。そしてシネマは、人間の身体、社会、世界についてのものだ。だが現代の映画は急速にそういったものへの関心を失っている。その意味で我々は映画のルーツであったものから強力に遠ざかっている。だから"ムーヴィー"かそのようなものは今後も存在するかもしれない、巨大なスペクタクルのようなものだが、それは全く世界についてのものではない。今のところ確信はまったくもてないが、しかし映画がなぜ生きていたのか、芸術として生きていたのか、その理由はどんどん失われていると思う。

Q 今の段階でこれがいいことか悪いことかの判断はできませんが、映画固有の写真化学的な映像から、ビデオの電気映像へ急速に移行が進んでいます。その質感はまったく異なるものだし・・・

それに人間の身体性、官能性を表現することにはほとんど不向きだ。ビデオとは、まったく別なことに関するものだ。私はビデオは好きだし、いいものだと思うが、世界とのまったく異なった関係性を示唆するものだ。

Q たとえばポルノがビデオで作られるようになってからは・・・

ポルノは主にビデオで作られているし、ビデオはポルノには完璧だ。

Q 『電気の亡霊』の後半で語られる主題、もし我々の知覚がすべて電気信号に置換されるとしたら、あなたが映画に固有のものだと言っていた全ては

おしまいだ。だからこそ『電気の亡霊』の前半は、ああした生き方へのオマージュなのだ。エリカの身体の官能性、あの遊び的な感覚、サクランボとか、エデンの園的なイメージ、ああした完璧な楽園は、すべて失われてしまう。どっちにしろ現在だって、ああした生き方にアクセスのある人間はどんどん減って来ている。上野公園はエデンの園ではない。

Q それはそれで悲しいことではないですか? 『電気の亡霊』の第二部で語られることを、あなたは肯定的に考えているのですか?

実際に起こっているのを、私が目の当たりにしていることだ。

Q ヴィム・ヴェンダースも『夢の涯てまでも』で、知覚を電気信号に置き換える問題を扱ってましたが。

さあ、私は『夢の涯てまでも』を見てないんでね。だがなにもそんなに新しい問題ではないと思う。たとえば私の場合、むしろギブソンの小説を考えていた。『ネクロマンサー』とか『ニューロマンサー』などなどだ。『電気の亡霊』で描かれているのは本当に現在進行中のことだと思う。多くの人が夢みてきたことだろう、この肉体的関係から抜け出して、純粋状態の意識になること。特に映画の21世紀というテーマで、今起こっていることの全てを総合する。これはとてもショッキングなことではある。特にフランスでは保守的な風土で、テクノロジーの改革にしても、いまだに映画作家がビデオで創作をするべきかどうかが議論になっているほどだから。まるで映画がなにか高尚なもので、ビデオは・・・みたいな言い草だが、これはまったく馬鹿げている。世界はこの信じがたいスピードで変わって来ているのに、テクノロジーが、技術的な面だけでなく心理的にも我々に影響を与えていることは、もはや今起こっているか起こっていないかが問題なのではない。それがどんな意味を内包しているかが問題なんだ。
今日の映画製作で問題なのは、ひどく保守的でまったく反動的ですらあることだ--文筆や音楽、絵画と比べてもね。それはたぶん、映画を作るのには大変な金がかかることとも無関係ではない。だから大変なコントロールが幅を聞かせているし、時間もとてもかかる。最近の大作映画の大半は二、三年がかりの仕事だ。だから映画はほとんど、バックビートのようなものになってしまっている。もし今の世界で起こっていることを本当に知りたかったら、新しい音楽を聞いたりクラブに行ったり、なんでもいいから人間の生き方により直接的で反射的にかかわっている表現に接するべきかもしれない。

Q では自分の映画がそういう現代へのバックビートにならないためには、どうすればいいのですか? 映画をできる限り早く作ろうとしているのですか?

ああ、それもそうだし、それに私はシネフィルだったことがない。だから自分で映画を作りはするが、自分の文化的背景が映画であったためしはないし、映画を参照にはしない。自分の映画を作っているときにも、他の映画のことを考えるよりは、自動車のことでも考えているほうが多いかもしれない。あるいはコンピューター・グラフィックスのこととか--自分ではまったく使わないが、それでもコンピューターが私の人生のなかで何を意味しているのか。たとえば電子メール、電子メールは単にファックスの改良品ではない。この惑星じゅうの人々とコミュニケートする新しい手段であり、実際それが我々と世界の関係の網の目を変えた点では、ほとんど驚くべきものだ。
こうしたことに較べて、私は最近見た映画についてなんてあまり考えてはいないし、あまりいい参考になるとも思えない。それよりもたとえば、渋谷のことを考えている。あの若者達の顔の向こう側にはなにがあるのか、そのギラギラした目と、どういうわけか買うことのできる高価な洋服の裏側になにがあるのか?

 

Chapt.2  航海のやり方を見つけること  Finding the Way to Navigate

Q 『ドックス・キングダム』の主人公が、ヨーロッパに住むアメリカ人ということで、これを"自伝的"とする解釈があります。確かにあなた自身、『ポルトガルにおける階級闘争』の前後に2、3年ポルトガルに住んでもいたわけですが・・・

あまり興味深い見方とは思えないね・・・この場合は、政治的な相違でアメリカを離れた人物であり、海外でなんとか生活を築こうとしている、そういった点では彼に同化できるし、私自身の要素は確実にある。だがそれを言うなら、『ウォーク・ザ・ウォーク』の男の人物、陸上競技のランナーは、映画作りのメタファーだとも言える。世界を中を走ることというのは、私がやってきた類いの映画作りについて語るひとつのやり方だからだ。しかしそれが重要なことだとは思わない。こうした映画について自伝的だとかいうことはあまり関係がないと思う。『ウォーク・ザ・ウォーク』の原点が私の娘の旅立ちだったとしても、映画は家族全体の物語へと発展していく。たとえばうちの娘だって、今のあの映画の中に自分自身の要素を見いだしたりはしない。

Q 『ドックス・キングダム』のポルトガルの主人公の住居の川向かいでは精油所の煙突が煙を上げています。 一方母がニューヨークで死んで火葬されたあと、 遺骨をもって歩く息子の背後にこれにそっくりな精油所の煙突が見えますね。まるで今の世界ではどこにいっても、 何も変わらないみたいな印象を受けますが。

その印象は、非常に意図していたものだ。

Q 世界が均質化しているということですか?

そうだ。そしてこのなかで何か違ったことをしようと思ったら、ドックみたいに、巨大な精油所の前にささやかな庭を作って、荒れ果てた野原の真ん中にベンチでも立てるしかないわけだ(笑)現実には我々のすべてが、地球のあらゆる場所に生きているのが現代だ。

Q 『マント』は、ほとんどをパリで撮影した映画ですね。

そうだ。ベルリンを除けば全部パリとその周囲だ。

Q ですが冒頭のエッフェル塔の見える夕暮れを除けば、パリだという感触は以外に希薄です。とくにあの中南米人のコミュニティー、本当にパリなんですか?

ちゃんとあそこにある。北の郊外だ。それに本当にすごい体験だった。あの中庭の宴、あれは私のためにやったことじゃない。本当に彼らが毎週末やっているパーティーで、私はただ自分の人物をそのなかに入れただけだ。彼らは本当に毎週末、中庭をあのように変貌させてしまうのだ。あこれはパリの町全体についても、本当に驚くべきことだ。多くの人々がああやってパリのなかに自分たちの国の分身を作り出してしまう。君がこのことを話題にしてくれてうれしい。あの場合、そこに入るコネを見つけるまでは大変だったが、いったん入り口をみつけてしまうと、あとはすべてがその中にあった。

Q 彼らのなかに不法移民だとかもいたと思うのですが、撮影されたら困るというような問題はなかったのですか?

[不法と正規の]混合だ。とても不思議な話だが、問題はまるでなかった。もちろん主要な人物はみんな正規の移民だが、背景の方にいる人の中には不法移民も多い。それも、あまり人の顔を写したりしなかった理由のひとつだ。特に宴の場面では、身体とか、雰囲気の描写により力をいれた。ただ彼らも我々が撮影することを知っていたが、問題はなかった。
いつでも同じようなことだ、『ウォーク・ザ・ウォーク』でもチューリッヒのヘロイン市場がそうだ。ただそこに入って行って撮影するわけにはいかない。なによりもディーラーたちとコンタクトする必要がある。そこでまず麻薬中毒の問題に取り組んでいる人々に接触した。彼らはディーラーたちを知っているから、我々が警察ではないこと、ただ映画を撮るだけだと説明してくれる。我々は2時頃に来て、1時間ぐらい撮影するから、そのあいだはもし映画に写りたくなかったら、やることはカメラの後ろでやればいい、と言うような話だ。問題があるのはディーラーだけだ。中毒者は気にしていなかった。スイスでは薬物中毒であることそれ自体は犯罪ではないのでね。撮る前はとてもややこしい撮影になり、不快になることを覚悟していたが、驚くほどクールに進んだ。
一番大事なのは、撮影対象となる人々に、自分たちが何をする気なのか説明することだ。別に彼ら個人個人を告発するために撮影するわけでないことを。それが分かってくれれば、あとはもし不都合があれば姿を消すだけだ。

Q あれは『ウォーク・ザ・ウォーク』で一番びっくりした場面です。てっきり演出か再現だと思ったのですが、すべてリアルなのですね。

すべてがリアルだったのだ。あの市場はほとんど20年前からあそこにあった。スイス人の意識というのも凄いもので、 世界最大級の都市の一つのど真ん中に、ヘロイン市場の存在を許していたのだから。 だが当局はあの撮影のあとであの市場を閉鎖させ、世界中のほかの国で起こったような状況になっている。つまり郊外を中心に拡散したのだ。

Q この映画ではヨーロッパが均質化している感覚が濃厚だし、その抱える問題は実はヨーロッパ全体に共通するものです。その一方で主人公たちは確実に歩き続けている、移動を続けている。もはや"家"がない、"故郷"(ホーム)にいないという感覚は切実です。

今の質問は特に私には重要だ。故郷を持たずに生きるとはどういうことか、この問題に凄く関心がある。『ドックス・キングダム』にもとても強く現れている。あの映画で私が一番好きなところは、主人公が息子と二人で、夜明け間際に、息子が「故郷(ホーム)に帰らないか?」と尋ねる。彼は「ホーム? ここが俺の家(ホーム)だ」と答える。もし世界がどんどん縮まっており、もし家族という概念が変化しているのなら、我々はホーム(故郷/家)を巡る新しい思想について責任がある。現実にはこのホームという考えが、右翼の思想的基盤になっている。いい例がフランスだ。ホームとは我々すべてが同じで、お互いに知り合いで、同じ肌の色、同じ言葉、同じ意見を持っている場所だという考えだ。私はこんなホームという考えは気に入らない。ひどく反動的で矮小なホームの考え方だ。
インターネット、ファックス、飛行機、映像--これらに見合った新しいホームを巡る思想、家族の在り方を考えなくてはいけない。より広いホームの考えを、現代の我々は持つべきなんだ。我々が生き延びるために。

Q ドックは結局ホーム、アメリカに戻ります(『ルート1』)。ですが驚くべきはその単一であるはずのホームの持つ多様さです。

ああ、それがアメリカのもっともおもしろい所だ。この多文化性。あの大地を旅すれば旅するほど、いかに驚くべき場所であるかに気がつく。その全部がいまだ一つの国としてつながっていることにね。 しかもアメリカ人が、他の国々なら必死でしがみついている、その国を単一社会につなぎ止める手段をほとんど放棄してしまっている。たとえば国定の公教育、これで国中の人間がが同じ経験を経て成長するわけだ、たとえば日本の学生服のようにね。普通ならこれが日本人であることのひとつの共通した思想を作り出す。だがアメリカはそれを全部放棄してしまっている。ときどきあの国はただテレビだけでつながってるんじゃないかと思えてくるね。多くの人が同じ番組を、時差のズレのなかで見ていること。他になにを分かち合ってるのか見当がつかないよ。新聞も読まないし、一緒にやることも少ない、国の祝日もどんどん重要でなくなってきているし、お祭りもない。たぶんテレビと、それに時々やる戦争だけだね。そのときだけ共通の敵を相手に団結する。だがこの多様さがそれでも機能していること、その生み出す膨大なエネルギーが、アメリカが未だに刺激的な場所である最大の理由だろう。
……アメリカが好きなわけではない。実際、その多くのことが実に非人間的だとも思う。それでもたとえば、人種差別にどう対処ずるか、常に平等を口にしながら実際に平等であった試しがないこと等など、あの国が提示する問題は未だに大きな意味を持っていると思う。特にこれから、多くの多種多様な人々が共に生きていかねばならぬこの惑星では。

Q その共成が重大な課題になっています。EU統合だって、本来はそうした問題についての政治的動きあるべきでしょう。そして『ウォーク・ザ・ウーォーク』には様々な言葉を越えたコミュニケーションがある--少女はフランス語だけでなくドイツ語や英語を話し、一方父は言葉の通じないロシアの女性やボスニアの子供と、それでもコミュニケーションを持ちます。

これからももっと映画のなかで様々な言葉をしゃべらせたいと思っている。言葉が通じなくて分かりあえないと思うかもしれないが、 その一方で言葉なしでも分かり会えるかもしれない可能性もあると、人々に伝えたいから。
私は言葉というものに対して、大きな不信を抱いているんだ。言葉は我々の理解のもっとも容易な手段だ。そしてしばしば、人々が何かを言うのは、単に我々が同じことを何度も繰り返し言っている結果に過ぎない。人々は実は聞いてさえいない。言われていることはもう知っていることだと感じて即座に他所を向いてしまう。だが映像には、まだ想像力を扇動する可能性があると思うんだ。たとえ映像そのものが、たとえば渋谷の町じゅうの壁[広告のこと]や、テレビを見ても分かるように、自分自身に対して大きな問題を抱えているのにもかかわらずだ。それでも映像には、言葉のもつ誤った厳密さの危険から逃れる可能性を示している。1970年代の私の映画にはたくさん言葉があった。当時は人々に何かを言うことが大事だと思えたのだ。今必要なのは、言葉を言うことよりも、その行動を通じて自分の考えをマニフェストすることだと思う。

Q 60年代の新左翼運動から出て来たあなたは、一般に政治的な映画作家と思われていますが、東京と山形で改めてあなたの最近の作品をまとめて見てきて、お話しを伺っているうちに、そうとは思えなくなってきました。すくなくともそんなに単純なことではない、と。

いわゆる政治的闘争の映画というのは、怠惰なカテゴリーだ。人々を政治的に啓発するといいつつ、実は人々に自分の考えを押し付けることにほかならない。一方私の初期の作品は、そうした政治運動の頂点の時期に作られたものだが、基本的に政治の側の人々には否定された。これは政治的映画ではない、闘争映画ではないと断じられたのだ。実は私のやってきたことは、実生活の活動を政治的運動と統合し、それを映画に引き戻すことだった。政治に、なかなか政治的言語には翻訳できない視点を持ち込むことで、たとえば人間をよりよく理解する助けになる----政治的作品の大きな限界のひとつが、人間をモノとして扱い、ある方向に押しやったり引っ張り込んだりすることだ。これは映画本来のあり方にはまったく反することだ。映画とは、人々を自分で考えるように誘うことなのだから。 そしてその結果その人々がどんな結論に到達するかどうかすら定かではないが、これは政治闘争映画--つまり人々に、自分が彼らに考えてほしいことを考えさせる(笑)こと--の正反対だ。私は一度もそういう方向に走ったことはないし、とくにここ十年はいわゆる政治的映画作りから遠ざかっていると言えるかもしれないが、実はごく最初の作品でさえ、このカテゴリーには当てはまらない。

Q 『ウォーク・ザ・ウォーク』は灯台のイメージから始まります。僕にはその瞬間から、この映画そのものが人生の行く道を照らす、人生を航行するやりかたを見せる灯台のように思えたのですが。

それはいい考えだ。だが灯台だけではない、たとえば冒頭に私が少女に与えるコンパス、彼女はそれを手に、旅立ちを決意する。そうした全てが、我々はどう航行すべきか学ばねばならないという私の考えに集約できると思う。『ドックス・キングダム』の船長も同じアイディアだ。航海士には特別な何かがある。彼らは様々な要素を考慮しながら、正しい航路を選ばねばならない。誤った航路の先は、破滅だ。私たちは今どの航路を取るべきか知っていないと思う。それが今考えるべきこと思うのだ。世界の大勢は、ネオ・リベラリズム、市場競争、国家の競争力といった航路を取るべきだと思っており、これはすべて、男であるべき正しい在り方、女である正しい在り方があるという考えから派生している。それが彼らの航行のルールなのだ。もしそれが正しい航路でないとしたら、我々は別の航海のやり方を見つけなくてはいけない。旅の規則(ルール・オブ・ザ・ロード)が何なのかを見つけなければいけない。